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火の山の若君は、未来を夢に見る ~阿蘇家嫡流の若君、名臣甲斐宗運と乱世を切り拓く~  作者: アトラス


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第百一話 未だ足らぬ海

天文十八年(一五四九年)三月。


春は名ばかりであった。


山の雪こそ薄れつつあるが、風にはまだ冬の名残が残っている。ことに朝夕の冷えは、火のそばを離れればすぐ肌へ戻ってきた。だが、寒さそのものより、近ごろは別のものの方が、館の空気を冷やしていた。


有馬筋との境が、きな臭い。


それは、一つの大きな戦が起きたという話ではない。

むしろ逆であった。

小さなものが増えているのである。


境目の村での言い争い。

夜のうちに抜かれる杭。

荷の行き違いを装った押し問答。

川向こうから飛んでくる石。

市へ入り込んだ者どもの、妙に口の巧い誘い。

そして何より、水軍の調練にまで、ちょっかいが出始めていた。


その日、座にあるのは惟豊、宗運、惟種、そして甲斐親英であった。


宗運が、広げた文へ目を落としながら言う。


「境目のいざこざ、また増えております」


惟豊は黙って聞く。


「数だけで申せば、小さきものにございます。されど、小さいからといって捨て置けば、いずれまとまって火になります」


「ふむ」


「ことに有馬筋にございますな」


宗運は続けた。


「ここ半月ほどで、境の訴えが目に見えて増えました。市に紛れた調略も増えております。村役人への誘い、兵への声掛け、荷方への金のちらつかせ方――いずれも露骨にございます」


惟種は、そこで小さく頷いた。


有馬は待たぬ。

前にこちらが見た通りであった。相良が阿蘇へ入った以上、有馬にしてみれば包囲の形は一段崩れた。ならばそのぶん、自ら火を起こしに来るしかない。


「海はどうだ」


惟豊が問うた。


親英が、そこで前へ出る。


「嫌がらせが増えております」


「どのような」


「調練中の船へ、わざと近づいてくる小舟がございます。漁を装うて横切る。澪筋へ入るところを塞ぐ。干の早い場所へこちらを誘うような真似もございます。水の深さを測っておるところへ、あちらの者が先回りしておることもございます」


宗運が低く言った。


「ただの漁とは見えぬな」


「見えませぬ」


親英は答えた。


「加えて、船大工のところへも、妙な誘いが行っております。賃を倍にするだの、有馬の方が海を知っておるだの、口の上手い者が入り込んでおる」


惟豊の目が、わずかに細くなった。


「水軍の芽を潰しに来ておるか」


「はい」


惟種が、そこで静かに口を開いた。


「有馬は、よう分かっておるのです」


宗運と親英がそちらを見る。


「阿蘇の今、どこがまだ弱いかを」


惟種は言った。


「陸は、もう容易には崩れませぬ。肥後も、筑後も、相良も、いまはそう軽くは揺れぬ。だが海は、まだ足らぬ」


親英が、口の中で苦いものを噛むような顔をした。


その通りだからである。


船はある。

船を作る手も育ち始めた。

川も河口も、前よりは見えている。

だが有明海は、ただ広い水面ではない。潮が走り、干潟が口を開け、澪筋を外せばたちまち船脚を奪われる。風を見、潮を見、船を揃え、人の足並みを合わせる。ひとつ覚えたと思えば、次のひとつが足りぬ。その繰り返しであった。


「水軍は」


惟豊が、親英へ向けて言う。


「いかほどになる予定だ」


親英は、すぐには答えなかった。


見栄を張るべきところではない。

ここで張った見栄は、いずれ死者の数に変わる。


「六月までに、大船十・小船十、合わせて二十までは揃えられます。戦には出せますが、まだ十全ではございませぬ」


「どこが足らぬ」


「船足の揃い。合図の通り方。夜の連れ立ち。潮の変わり目での動き。澪筋を外さぬための見張り。いずれも形にはなりつつあります。されど、敵と海の上で真正面から噛み合うには、なお少し時が要ります」


宗運が、その言葉を受けた。


「なお少し、か」


「はい」


「だが敵は待たぬな」


「待ちませぬ」


親英は答えた。


そこで、宗運が別の文を出した。


「有馬だけではございませぬ」


惟豊が目を向ける。


「大村、西郷、松浦方――いずれも戦支度を進めております」


座の空気が、そこで一段締まった。


「兵糧の動き、船材の集まり、人足の寄せ方、港の騒がしさ――いずれも春の市の賑わいだけでは片付けられませぬ」


宗運は、淡々と並べる。


「表立って旗を挙げてはおりませぬ。されど、備えは進んでおります」


惟種が、そこで言った。


「来ます」


短い一言であった。


「六月が山でしょう」


惟豊が低く問う。


「なぜ六月だ」


「風と水の都合です」


惟種は答える。


「春のうちは、まだ整えの時です。兵も、船も、荷も、いまは揃えつつあるところ。だが梅雨へ入る前、潮と風が最も読みやすい頃に合わせるなら、六月あたりが最も動きやすい」


親英が、深く頷いた。


「海から来るなら、その頃が一番よろしゅうございます」


惟種は、そこで一度言葉を切った。


本来なら、外海へ出て迎え撃つつもりであった。

船をさらに重くし、さらに速くし、筒の届くところで敵を折る。

潮に縛られぬ海で、こちらの新しき船の力をそのままぶつける。

惟種が最初に胸の内へ描いたのは、そういう戦であった。


だが、それはまだ先である。


いま六月までに揃えられるのは、大きい新船十、小さい新船十。

それもようやく形にするのであって、帆も索も、人も、すべてが十全に揃うわけではない。

これで外海へ出て、多勢を正面から受けるのは危うい。


ならば、戦う海を選べばよい。


惟種は静かに言った。


「陸も使いましょう。されど主は海です。このたびの戦、主立つのは海になります」


宗運が、腕を組んだ。


有馬。

大村。

西郷。

松浦方。

いずれも、海と境目を使うのに向いた相手である。ならば敵が、阿蘇のまだ固まり切らぬ海を狙うのは、むしろ当然であった。


「大友は」


惟豊が問うた。


宗運が、少しだけ息を吐く。


「静かにございます」


「静か、か」


「はい。されど、安心は出来ませぬ」


宗運は答えた。


「いまの豊後は、内で揉めております。嫡男のこと、家中の不和、戸次鑑連殿、吉弘鑑理殿のあたりも、なお穏やかではございませぬ。ゆえに、今は動けぬ」


惟種が、それを受けた。


「動かぬのではない。動けぬ」


「その通りにございます」


「ならば今は、有馬を先に見ればよい」


「はい」


宗運は頷く。


「豊後は、いまはまだ先の火にございます」


惟豊は、しばし黙っていた。


有馬は表で騒ぐ。

大友は静かだが、内に火種を抱えている。

阿蘇が相手にすべき順は、もはやはっきりしていた。


「ならば」


惟豊が言う。


「六月までに、何をすべきだ」


その問いは、宗運へも、親英へも、惟種へも向けられていた。


親英が最初に答えた。


「海です」


まっすぐであった。


「船足を揃えます。合図を詰めます。川と河口だけでなく、湾内での連れ立ちももっと増やします。漕ぎ手と弓手の組みも、なお詰めねばなりませぬ。潮の満ち引きに合わせて、いつ出て、いつ退くかも、ひとつに揃えます」


宗運が続ける。


「境目の締めも要ります。調略を放ってはおけませぬ。村役人と船大工、荷方、これらへは先に手を打ちましょう。金と地と立場、いずれであれ、こちらから先に結んでおかねばなりませぬ」


惟種は、その二つを聞いてから言った。


「水軍を仕上げる」


惟豊の目が向く。


「仕上げる、か」


「はい」


惟種は答えた。


「去年申し上げた通り、本来なら、なお多くの船が要ります。海を根より折り、末長くこちらのものとするなら、主力も、脇を固める船も、小早も、まだまだ足りませぬ」


宗運と親英が、黙ってその先を待つ。


「だが、六月までにそのすべては揃いませぬ」


惟種は、まっすぐに言った。


「今、何とか間に合わせられるのは、大きい新船十、小さい新船十――まずその核だけです」


惟豊は黙って聞いている。


「それで勝てるのか」


重い問いであった。


惟種は、少しも揺れなかった。


「外海では足りませぬ」


宗運の眉が、わずかに動く。


「だが、有明海なら足ります」


座が静まった。


「数は向こうが多いでしょう。百を超えて来てもおかしくはない。されど有明海では、その数をそのまま並べることは出来ませぬ。潮が割り、底が割り、澪筋が割る。船の多さは、そのまま強さにはならぬのです」


惟種の声は静かであった。

だが、その静けさの奥に、妙に確かなものがあった。


「向こうは数で押すでしょう。ならばこちらは、その数を一度に働かせぬ海で受ければよい」


「どう受ける」


惟豊が問うた。


「外で迎えぬことです」


惟種は答えた。


「湾の内へ入らせる。河口へ寄せる。潮の変わり目に合わせて動かし、前と後ろを切る。先へ出た船から折る。後ろは詰まり、横は干潟へ逃げ、澪筋を知らぬ船は自ら足を止めます」


親英が、その言葉を聞きながら、ゆっくりと息を吐いた。


有明海で戦う。

それは、ただ海で戦うというのとは違う。

海と陸のあわい、潮と泥のあわいで戦うのである。


「つまり」


宗運が低く言った。


「多勢を、一度に多勢でなくすのでございますな」


「そうです」


惟種は頷いた。


「こちらは二十で百二十を沈めるのではない。百二十が百二十のまま働けぬようにして勝つのです」


宗運は、しばし惟種の顔を見ていた。


その理は分かる。

だが、その分かり方が妙であった。

潮と船と人の詰まり方を、まるで見てきたように言う。


親英が、その言葉に深く頷いた。


「調練の数を増やします」


「昼だけでは足りぬ」


惟種は言った。


「夜もやれ」


親英の目が、そこで少しだけ鋭くなる。


「夜の海、にございますか」


「そうです」


「危ううございます」


「危ういからこそ、今のうちに慣れる」


惟種は答えた。


「六月に初めて夜を知るのでは遅い。火はもうある。番所も、河口の詰も、灯でつながる。夜に澪筋を見失わぬ目を、今のうちに養え」


宗運も、それに頷いた。


「火と灯はもうある。番所も、河口の詰も、前よりは見える」


「はい」


「ならば夜も使うべきにございますな」


惟種はさらに言った。


「大きい船十は、まず隊の芯にする。数で散らしてはならぬ。小さい十は、伝令、誘い、横腹への差し込み、退き道の確保に使う。勝ちは船の数で取るのではない。動かし方で取るのです」


親英の顔つきが、そこで変わった。


ようやく見えたのである。

何を作ればよいか。

何を仕上げればよいか。

六月までに欲しいのは、ただ多い船ではない。

有明海で敵を割るための、噛み合った二十であった。


惟豊は、そのやり取りを最後まで聞いたのち、低く言った。


「よい」


それだけで、座は一度締まった。


「有馬、大村、西郷、松浦方――いずれも戦支度を進めておる」


惟豊は、一つずつ置くように言う。


「このたびの戦、主は海になる」


誰も口を挟まぬ。


「ならば」


惟豊の声が、一段重くなる。


「水軍を急ぎ仕上げよ」


親英が深く頭を下げた。


「は」


「海で遅れれば、そのまま筑後も肥前も揺らぐと思え」


「心得ております」


宗運もまた頭を下げる。


「境目の締め、調略への手当、こちらも急ぎます」


「うむ」


惟種は、その様を見ながら思っていた。


六月。

まだ三月である。

されど、三月だからこそ間に合うものもある。逆にいえば、今この時を逃せば、六月には間に合わぬ。


船を増やすだけでは足りない。

船を動かす人を揃える。

それを夜も昼も一つの意志で動かす。

潮を読み、干を読み、澪筋を外さず、狭いところで敵の数を殺す。

何とか間に合せた二十を、ただの新船ではなく、敵を割る刃へ変える。

海を、阿蘇の兵として使える形にまで持ってゆく。


敵はそれを嫌がり、今のうちに潰そうとしている。

ならばこちらは、なお急げばよい。


     *


話が終わったのちも、座にはしばし重い空気が残った。


春はまだ浅い。

だが、その浅い春の底では、すでに夏の火がくすぶり始めている。


有馬は待たぬ。

大村も、西郷も、松浦方も、備えを進めておる。

豊後は静かだが、それは今だけである。

そして阿蘇の海は、まだ仕上がっておらぬ。


惟豊は、最後に一度だけ惟種を見た。


「六月まで、か」


「はい」


「足りるか」


惟種は、少しも躊躇わなかった。


「足らせます」


それは若さの言葉であり、同時に若さだけではない言葉でもあった。


惟豊は、その答えに短く頷いた。


「ならばよい」


その一言で、この日の評定は終わった。


だが、終わったからといって火が消えるわけではない。

むしろここからである。


境目の火は、小さいうちに踏む。

海の芽は、踏まれる前に太くする。

数で押される前に、潮と地を味方につける。

六月の波が立つ前に、阿蘇の家は、その波へ耐える形を急いで組み上げねばならなかった。

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