第百二話 西へ差す手
天文十八年(一五四九年)四月。
春はもう名ばかりではなかった。
阿蘇の山裾にもやわらかな緑が見え始め、朝の冷えも二月三月ほどには骨へ刺さらぬ。だが、国の内も外も、暖かくなったからといって穏やかになるわけではない。むしろ、雪や泥が退いたぶんだけ、人もまた動きやすくなる。
その日の座には、惟豊、宗運、惟種の三人だけがあった。
机の上には、いくつかの文と、土器に入れられた白い粉が小さく置かれている。
宗運がそれへ目をやり、低く言った。
「ここまで形になりましたか」
「なった」
惟種は答えた。
白き粉――硝石である。
これまで何度も試し、土を選び、火を見、精製を重ね、ようやく火薬の用に足るところまで持ってきた。まだ無尽蔵ではない。されど「出来ぬものを夢見ている」段は越えた。阿蘇はついに、自前で硝石を整えられるところへ来たのである。
宗運は、その白きをしばし見ていた。
火薬というものは、鉄砲や大筒の話で終わらぬ。
それを持つということは、戦の継続力そのものを持つということでもある。買うだけでは、いずれ詰まる。だが作れるなら、話はまるで違ってくる。
「騒ぎになりますな」
宗運が言った。
「表へ出せば、な」
惟種は平らに答える。
「だから、まだ大きくは触れぬ」
惟豊が、そこで低く言った。
「どこへ先に通す」
その一言が、この日の評定の芯であった。
硝石が出来た。
ならば次に問うべきは、それを誰へどう見せるかである。
ただ抱え込むのは一つの手。
だが、抱え込むだけでなく、それを札として使えば、もっと大きな利を引き寄せることも出来る。
惟種は、少しも迷わず言った。
「大内です」
宗運が頷く。
「若君、早うございませぬか」
宗運が低く言う。
「札は、見せれば軽くなります」
「たしかに」
惟種は答えた。
「だが、義隆殿との友誼は切らぬ。表の礼はこれまで通り尽くす。されど、今のうちに武辺と実務の筋を預かる方へも、こちらの手を通しておくべきだ」
惟豊は黙って聞いている。
大内はまだ割れてはいない。
だが割れておらぬからといって、一枚の板のままであるとも限らぬ。武断と文治、表の主と実際に軍事を預かる者、そのあいだに走っている細いひびは、もう見えている。見えている以上、阿蘇が先に糸を通しておく価値はあった。
「使者はどう出す」
惟豊が問う。
惟種は答える。
「二本です」
宗運の目が、わずかに細くなる。
その時点で、若君がもうかなり先まで考えていることが知れた。
「表向きには、大内義隆殿へ」
惟種は言う。
「これまで通り、友誼の礼を絶やさぬ。進物も整え、阿蘇はなお大内を軽んじておらぬと示します」
「うむ」
「その陰で、隆房殿へは密書を添える」
惟豊がそこで初めて少しだけ目を動かした。
「何と書く」
「硝石が整ったこと」
惟種は言った。
「緊要の節には、相談の上で少しばかりご用立ても出来ること」
宗運が、そこで続けた。
「代わりに、銀との筋を結ぶのでございますな」
「うむ」
惟種は頷く。
「西の銀と、こちらの硝石。今後の橋掛けにはちょうどよい」
宗運は、それを聞きながら腕を組んだ。
たしかにそうであった。
銀は欲しい。
火薬の用は広がるばかりである。
南蛮筋とも繋がる。
朝家へも使える。
兵を抱える金としても、銀は太い。
「それだけではございますまい」
宗運が言う。
「西国にて御心安からぬ儀あらば、旧誼の上にて、阿蘇にもまた相談の口あり――そう結ぶ」
宗運が、わずかに息を吐いた。
露骨ではない。
だが、分かる者には十分に分かる。
何かあれば、肥後に相談の口がある。逃げ道とまでは書かぬ。だが、道は閉ざしておらぬと伝わる。
「上手いな」
惟豊が低く言う。
「頼れとは書かぬ。だが、道はあると分からせる」
「それで十分です」
惟種は答えた。
「隆房殿ほどの方なら、そこは読みます」
惟豊は、しばし黙っていた。
大内は遠い。
だが遠いからこそ、いまのうちに筋を通す意味もある。
相良を内へ入れた。
龍造寺を立てた。
有馬筋とは海でぶつかる。
そのうえ西国までまったくの手ぶらで置いておくのは、さすがに惜しい。
「よい」
やがてそう言った。
「表は義隆殿へ礼を通せ。裏は隆房殿へ密かに差せ」
「は」
「硝石は、見せるのか」
宗運が問う。
惟種は少し考えてから答えた。
「文だけでは弱い。少しだけ付けます」
「量は」
「見本に足るほど」
惟種の声は静かであった。
「惜しまぬ。だが、惜しまぬように見せすぎてもならぬ。こちらが作れると分かればよいのであって、底まで量らせる要はありませぬ」
宗運が頷く。
「それでよろしゅうございますな」
惟豊は最後に言った。
「隆房殿へは、こちらが筋を結ぶ気であると分かるようにせよ。だが、大内をこちらから割ったと見える文にするな」
「承知しております」
惟種は答えた。
その線引きは重い。
大内が揺れている気配はある。
だが、まだ表立って裂けてはいない。
ゆえに、阿蘇が先に露骨な火を入れるように見えてはならぬ。
あくまで礼は義隆へ、実は隆房へ。
この二重の筋が、今の阿蘇には最も要る。
*
使者は数日後に発った。
表向きの進物は、大内義隆へ。
礼を尽くし、これまで通りの友誼を言う。
その陰に、隆房へ向けた密書と、白く整えた硝石をほんの少しだけ忍ばせる。
文は短かった。
阿蘇にて、硝石がようやく火薬の用に足るまで整ったこと。
緊要の節には、相談の上で若干のご用立ても吝かならぬこと。
今後は硝石と西の銀、そのほか必要の品々について、橋を掛けることも出来ようということ。
そして、西国にて御心安からぬ儀あらば、肥後にもまた旧誼の上で相談の口があると思し召してよい、ということ。
露骨ではない。
だが、薄くもない。
その薄からず濃すぎぬところへ、惟種は最も心を配った。
*
返りは、思ったより早く来た。
ひと月とかからぬうちであった。
だが隆房本人ではない。
それは当然であった。
大内の内を考えれば、隆房が遠く阿蘇まで表向きに動くはずがない。まして、いまはまだすべてを表へ出す時ではない。ゆえに来たのは、陶家の重臣、江良房栄であった。
房栄が阿蘇へ入った時、館の者どもは、その顔を一目見てただの使いではないと知った。兵のことも、家中のことも、どちらも分かる顔である。文だけを運ぶ男ではない。相手の腹を見て、自分の腹もまた隠せる男の顔であった。
房栄は、まず表の礼を尽くした。
大内義隆よりの礼。
阿蘇の変わらぬ誼への謝意。
そのあたりは、表の筋である。
だが、その表が一巡した後、ようやく本当の話が始まった。
その場にあるのは、惟豊、宗運、惟種。
対して、江良房栄。
部屋は暖かく、灯もよく行き届いていた。
春とはいえ、まだ夜は冷える。だがその一室には、外の冷えが幾分か薄くなるだけの暖がある。房栄は、それを表へは出さなかったが、内心ではすでに一つ阿蘇への見方を改めていた。
「よう参られた」
惟豊が低く言う。
「お招きにあずかり、恐れ入ります」
房栄が答える。
礼の運びには無駄がない。
そして、その無駄のなさがかえってこの男の油断ならなさを感じさせた。
宗運が、まず表向きのことを済ませる。
それが一通り終わった後、惟種が小さく視線をやると、房栄もまたわずかにその目を返した。
それで足りた。
この男は、表と裏を分けて話せる。
「隆房殿は」
惟種が静かに言った。
「文をご覧になられましたか」
房栄は、そこで初めて少しだけ口元を動かした。
「しかと」
「白きものも」
「しかと」
「いかがでした」
房栄は、すぐには答えなかった。
答えぬ間があるということは、軽く流す話ではないということである。
「驚かれました」
やがてそう言った。
「もっとも、驚いたからといって声を荒げるようなお方ではございませぬが」
惟種は、わずかに頷いた。
「必要なものだと」
房栄は続ける。
「ようご存じにございます」
宗運が、そこで言った。
「阿蘇としては、西国との筋をさらに太くしたいと考えております」
「銀、にございますな」
「はい」
房栄は、その答えを待っていたらしい。
こちらもまた、すでにその先を読んで来ている。
「硝石と銀。その橋が掛かれば、互いに得るものは大きい」
宗運の声は平らであった。
「ことに、これより先の世を思えば」
房栄は、その言葉をどう聞いたか、しばらく黙っていた。
“これより先”――。
それは、単に売り買いの先を言っているのではない。
西国で何かが起これば、という含みが、そこにはもう十分にある。
「隆房殿は」
房栄が言った。
「阿蘇殿の御心を、軽くは見ておられませぬ」
「そうですか」
「遠国にありながら、ここまで先を見ておる家は珍しゅうございますれば」
それは褒めでもあり、同時に牽制でもあった。
見ているぞ、と。
軽く見てはおらぬぞ、と。
惟種は、それをそのまま受けた。
「阿蘇もまた、隆房殿を軽くは見ておりませぬ」
房栄の目が、わずかに細くなる。
「それでこそ」
短い言葉であった。
惟豊は、そこまで黙って聞いていたが、やがて重く言った。
「義隆殿との誼は、これまで通り絶やさぬ」
「は」
「されど、軍事と実務の筋にて、どこへ手を通しておくべきかも、阿蘇はよう見ておる」
房栄は、深く頭を下げた。
それは、かなり踏み込んだ言葉であった。
だが惟豊は、こういう時に中途半端なぼかしを好まぬ。筋を通す時は通す。だからこそ相手もまた、その重みを量る。
「もし」
惟種が、静かに言葉を継いだ。
「西国にて御心安からぬ儀あらば、阿蘇は旧誼を忘れませぬ。まずは使者をお立て下さればよい」
房栄は、そこで初めて惟種を正面から見た。
若い。
だが、この若さがただの勢いではないことは、この館の暖、灯、白き硝石、そのすべてがすでに示している。
「そのお言葉」
房栄は言った。
「隆房殿へ、違えずお伝え致します」
*
話は、そのまま銀へも及んだ。
西国には銀の筋がある。
石見へ通ずる口のことを、阿蘇が知らぬわけがない。
表向きに大声で言う話ではないが、互いの口がそこへ向くのは自然であった。
「銀はこちら、硝石はそちら」
宗運が言う。
「いずれ、南蛮筋の品まで絡めれば、もっと太い橋になります」
「阿蘇は海も見ておられますな」
房栄が言う。
「ようやく、でございます」
惟種は答える。
「まだ未だ足らぬ。されど、足らぬままでも手は伸ばします」
房栄は、その言葉を聞きながら、内心であらためて思った。
この家は、恐ろしい。
大内は広く、古く、家格も高い。
だが、広く古い家には、そのぶん鈍るところもある。
阿蘇は違う。
まだ新しく、まだ飢えている。
そして、その飢えを埋める手が、いちいち実になっている。
「隆房殿も」
房栄は言った。
「この橋、悪くは思われますまい」
「それで十分です」
惟種は答えた。
まだ今は、それで足りる。
橋は、最初から太すぎればかえって疑われる。
細くとも、一度掛かれば、あとは往来を増やせばよい。
*
江良房栄は、その夜一泊した。
館の灯は夜でもよく届き、部屋はなお暖かかった。
冬の底はもう過ぎているとはいえ、春の夜はまだ冷える。房栄は、静かな顔を崩さぬまま、その暖かさと明るさを受けていたが、心のうちでは昼の話以上に、こうした“当たり前のような便利さ”の方へ感心を深めていた。
西国で事が起きた時、頼れる先とは何か。
兵の多さか。
城の高さか。
それとも、こうして遠く離れた肥後の家でありながら、人も物も火も整えているという、その底の太さか。
答えは、まだ口には出さぬ。
だが房栄の胸の内で、阿蘇という名は確かに一段重くなっていた。
*
翌朝、房栄は発った。
見送るのは惟豊、宗運、惟種。
「隆房殿へ」
惟豊が言った。
「阿蘇は誼を忘れぬ、と」
「しかと」
房栄が答える。
「硝石のことも、銀の橋も、違えずに」
「しかと」
惟種は、去ってゆくその背を見ていた。
これで終わりではない。
終わりどころか、ようやく最初の橋板を一枚渡したに過ぎぬ。
だが、その一枚があるのとないのとでは、後の渡り方がまるで違う。
「上手く行きましたな」
宗運が低く言う。
「うむ」
惟種は答えた。
「隆房殿はこちらを覚えた、西もまた騒がしくなる。その前に、口を作れた」
惟豊は、しばし黙っていたが、やがて短く言った。
「よい」
それで十分であった。
西国はまだ割れていない。
だが、割れてから手を伸ばすのでは遅い。
阿蘇は今、その割れ目が表へ出る前に、細くとも確かな糸を差し入れたのである。
四月の風は、もう冬ほど冷たくはない。
だが、そのやわらいだ春の下でも、世の中の底では着々と次の火が育っていた。
有馬は東で騒ぎ、
大内は西で揺れを深め、
阿蘇はその両方へ、槍ではなく橋を差し始めていた。




