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火の山の若君は、未来を夢に見る ~阿蘇家嫡流の若君、名臣甲斐宗運と乱世を切り拓く~  作者: アトラス


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第百三話 陣触れ

 天文十八年(一五四九年)六月。


 梅雨に入り切る前の海は、妙に静かであった。


 朝の風はまだ重くない。

 空も曇り切らず、薄い雲が高く流れている。

 だが、静かであるほど、来るべきものが近いと知れた。


 六月が山。

 そう言ったのは惟種である。

 その言葉を、館の者どもはもう忘れていなかった。


 そしてその朝、口之津筋よりの早船が、まだ靄の残るうちに河口へ入った。


 櫓の音が荒い。

 急ぎすぎた船の音であった。


 番所より火が上がる。

 門へ走る足音が続き、ほどなくして宗運のもとへ文が運び込まれる。


 惟豊が座に着いた時には、もう人は揃いつつあった。


 宗運。

 惟種。

 甲斐親英。

 龍造寺家宗。

 鍋島信房。

 相良晴広。

 そのほか、文を持つ者、兵の置き場を知る者、港と兵糧の筋を預かる者らが、必要なだけ静かに詰めている。


 広間ではない。

 戦の初めに要る顔だけを集めた、一段締まった座であった。


 誰も、余計な言葉を先に出さなかった。


 宗運が、ようやく文を開いた。


「来ました」


 短い一言であった。


 惟豊は黙って聞く。


「有馬、ついに旗を挙げました」


 座の空気が、そこでさらに一段沈む。


「一家ではございませぬ。大村、西郷、松浦方――いずれも動いております」


 惟種は、父の横で小さく目を伏せた。


 やはり来た。

 驚きではない。

 来ると知っていて、来たのである。


 宗運が、文の次の段を読み下す。


「海は有馬と松浦が主にございます。船、合わせておおよそ百二十」


 その数で、座はしんと重くなった。


 親英の目が、わずかに細くなる。

 見込みの内ではある。

 されど、見込みの内であることと、軽いこととは別であった。


「陸は大村、西郷」


 宗運は続けた。


「肥前筋へ兵を進め、龍造寺再建地を揺さぶる腹にございます。数、おおよそ五千」


 家宗は、その数字を聞いても顔色を変えなかった。

 だが、膝の上の手へは、はっきりと力が入っていた。


「村中は」


 惟豊が問うた。


 答えたのは家宗であった。


「隆信にて死守さます」


 低い声である。


「ただし、無理は致しませぬ。持たせます」


「言い切るか」


「は」


 家宗は顔を上げた。


「落ち着いた籠城であれば、まだ持ちます。兵を死なせて外へ打って出る時ではございませぬ。援けが届くまで、まずは堪えます」


 その横で、信房もまた頷く。


「村中を無理に救う戦ではありませぬな」


「うむ」


 惟豊が低く応じた。


「此度、主は海だ」


 誰も口を挟まぬ。


 それは、すでに春の評定で置かれた筋であり、今ここであらためて座の骨となる言葉でもあった。

 陸を捨てるのではない。

 されど、村中を助けるにも、肥前を繋ぐにも、まず海を失わぬことが先である。


 宗運が、次の文へ目を落とす。


「敵は、海で押さえ、陸で食うつもりにございます」


「であろうな」


 惟豊が言う。


「海にてこちらの新しき船を潰し、陸では村中を締め上げる。そうして息を詰まらせる腹だ」


 惟種は静かに口を開いた。


「ならば、こちらは急ぎ過ぎぬことです」


 座の視線が集まる。


「海で崩されぬ」


 その声は平らであった。


「村中を救うのは、まず船です。されど、二十で百二十へ正面から噛みつくことは致しませぬ。こちらが先に形を崩せば、それで終わります」


 晴広が、そこで低く言った。


「弱く受ける、にございますか」


「弱く見えても構いませぬ」


 惟種は答えた。


「損をせず、敵の形を崩す。此度はそれで足ります」


 座の空気が、少しだけ動いた。


「ことに此度の寄せ手は、一枚ではありませぬ。有馬のために死ぬ気の兵ばかりではない。松浦は利で座っておりますし、大村と西郷も、海までまとめて腹を一つにしておるわけではありませぬ」


 宗運が小さく頷いた。


「海で思うほど勝てぬとなれば、陸の足並みも鈍りましょう」


「はい」


 惟種は頷く。


「こちらが大勝ちする要はありませぬ。敵が“思うたほど易くない”と知ればよい。村中は、落ちぬことが役目にございます。海は、まず失わぬことです」


 家宗の喉が、わずかに鳴る。


 それは不満ではない。

 むしろ、理がようやく一つに通った時の響きであった。


 惟豊が、そこで親英へ向いた。


「海はどう受ける」


 親英は、すぐには答えなかった。


 見栄を張る時ではない。

 ここで張った見栄は、そのまま船ごとの死人へ変わる。


「外海へは出しませぬ」


 やがてそう言った。


「口之津、島原南寄り、早崎の潮を使います。深いところへ寄せ、こちらの大船を砲の芯にします」


「有明の奥へは引かぬか」


「引きませぬ」


 親英ははっきりと言った。


「奥は干満が大きすぎます。あれでは大きい船の利が薄くなる。敵の小舟を殺すなら、むしろ海峡寄りの深いところがよろしゅうございます」


 惟種が、その言葉を受けた。


「大きい十は、浮かぶ砲台です」


 宗運と家宗がそちらを見る。


「前へ飛び出させぬ。横か斜めで砲撃線を作る。丸玉で列を乱し、寄れば散弾で払う。沈めることを欲張らず、寄り合えぬ形にする」


 親英が深く頷く。


「小さい十は」


「遊撃」


 惟種は答えた。


「火攻め舟、小早、補給舟、伝令――そういう薄いところを散らす。大船の前へ出すのではなく、横から回して噛ませる」


 親英の顔つきが、そこで引き締まった。


 六月までに欲しかった二十。

 それを、どう使えば敵の百二十を百二十のまま働かせぬか。

 春に見えたはずのその理が、いまようやく戦の形として座へ落ちてくる。


 惟豊は、それを最後まで聞いたのち、今度は宗運へ言った。


「兵はどう切る」


 宗運が、別の文を開く。


「総じて見れば兵はございます」


 その前置きに、何人かが目を上げた。


「されど、ある兵を皆前へ出せるわけではございませぬ」


「うむ」


「純常備五千。城番と駐屯が二千。半常備の選抜が二千。水軍、荷役、工兵が千」


 宗運の声は落ち着いていた。


「このうち、即座に野へ出せるのは――肥前より千五百、筑後より千五百、肥後より四千。合わせて七千」


 晴広が低く言う。


「残りは」


「本国、港、城を支えます」


 宗運は答えた。


「ことに今は、大友が静かすぎる」


 その一言で、座の空気がわずかに変わる。


「静か、か」


 惟豊が問う。


「はい。されど、安心は出来ませぬ」


 宗運は続ける。


「いま豊後は動けぬから静かなだけにございます。火がまとまれば、こちらの消耗を見て必ず口を出します」


 惟豊は、短く鼻を鳴らした。


「ならば、留守は重く置け」


「承りました」


「島津には」


 惟豊が言う。


「先の約通り、援けを求めます」


 答えたのは宗運であった。


「されど肝付、伊東が不穏にございますれば、大兵は望めませぬ。得られて五百ほどかと」


「それで足りる」


 惟豊は言った。


「足りる、にございますか」


 晴広が問う。


「島津の五百は、海で使う兵ではない」


 惟豊の声は低い。


「肥後の後ろを脅かされぬための五百だ。こちらが安心して前へ出るための五百であれば、それでよい」


 宗運、惟種、親英が、そろって小さく頷く。


 それで筋が通る。

 島津の兵は主力ではない。

 後ろの不安を塞ぐ栓である。


 惟豊が、座を見渡した。


「よい」


 低い一言であった。


「陸は龍造寺、鍋島、相良で持て」


 家宗、信房、晴広が深く頭を下げる。


「はっ」


「村中は無理に救うな。落ちぬよう締め、敵を疲れさせよ」


「心得ております」


「海は宗運、惟種、親英」


 三人が頭を下げる。


 惟豊は、少し間を置いて言った。


「負けるな」


 それだけであった。


 だが、その一言は、かえって重かった。


 百二十に対して二十。

 この戦で要るのは、景気のよい言葉ではない。

 海を明け渡さぬこと。

 それだけでも、十分に難しい。


 惟豊は続けた。


「わしは動けぬ」


 座が静まる。


 誰も驚かない。

 驚く段では、もうなかった。


「館と本国を押さえる。豊後が動けば、そこで受ける。今の阿蘇に、前も後ろも軽く見る余裕はない」


 家宗が、そこで深く頭を下げた。


「留守が重ければ、前も軽うございます」


「そうあれ」


 惟豊は言った。


 惟種は、その横で父の声を聞いていた。


 前へ出ぬ。

 されど、重しはここにある。

 今の阿蘇にとって、それ以上に強い留守居はなかった。


 宗運が、最後に文を畳む。


「では、陣触れを出します」


「出せ」


 惟豊が答えた。


「海は主戦。陸はこれを支える。村中は持ち、海は失わぬ。敵の足並みが乱れた時をもって、包囲を崩す――その筋で、諸方へ」


「は」


「あと」


 惟豊の声が、もう一段低くなる。


「勝って追うとき、干潟へ入るな」


 親英が、顔を上げた。


「心得ております」


「勝ちに乗れば死ぬ。此度は敵を皆沈める戦ではない。敵の腹を冷やす戦だ」


「はっ」


 それで座は決した。


 人が立つ。

 文が走る。

 港へ、城へ、番所へ、村中へ、肥後の南へ。


 六月の静かな朝は、もう終わっていた。


 館の外では、風がまだ穏やかに木を揺らしている。

 だがその穏やかさの下で、海も陸も、もう一斉に動き始めていた。


 有馬が来た。

 大村も、西郷も、松浦方も、ついに来た。


 ならばこちらも、もう待たぬ。


 海は失わぬ。

 村中は持つ。

 敵が崩れぬなら崩させ、浮かぬなら浮かせる。

 そして、包囲が包囲でなくなる時を待って、陸が打って出る。


 その形が、阿蘇の六月の陣として、静かに、しかしはっきりと定まった。

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