内へ入る家③ あとがき
天文十七年(一五四八年)十二月。
肥前、有馬家の館。
「相良晴広殿、阿蘇家へ臣従されたとのことにございます」
その報告を受けた有馬晴純は、さほど驚かなかった。
相良が最後には阿蘇へ屈することも、晴純には予想できていた。問題は、その前にどれだけ阿蘇を削れたかである。
「……そうか。して、戦はどうであった?」
晴純は、報告に来た家臣へ尋ねた。
「はっ。それが……」
「なんだ。申してみよ」
「戦は、行われておりませぬ」
「……何?」
晴純は顔を上げた。
「戦がなかったとは、どういうことだ?」
「相良晴広殿は、阿蘇家へ一対一の勝負を申し込まれたとのこと。その勝負に敗れ、約定に従って臣従されたそうにございます」
「一対一だと?」
「はい。しかも、その勝負というのが……歌合にございました」
晴純は、しばらく家臣の顔を見つめていた。
「……歌合?」
「はっ。朝廷より烏丸光康卿を判者として迎え、相良晴広殿と阿蘇惟種殿が歌を詠み交わされたとのことにございます」
「…………」
「その結果、阿蘇惟種殿の勝利となり、相良家は阿蘇への臣従を表明されたそうにございます」
家臣が報告を終えても、晴純は何も言わなかった。
相良から届いた『手出し無用』の書状を思い出していた。
相良が阿蘇を削っている間にこちらの軍備を整え、翌年に叩く。そのつもりだった。
ところが、実際にはどうだ。
兵を一人も失わず、城も村も傷つけず、阿蘇は相良を手に入れてしまった。
晴純の顔が、みるみる赤くなった。
「……ふ、ふざけるなよ!!」
怒声が館中に響いた。
「何が歌合だ!! 武士なら武士らしく戦え!! 腰抜けどもが!!」
晴純は立ち上がり、手近にあった扇を畳へ叩きつけた。
「何が相良の矜持だ! 何が手出し無用だ! あれほど大層なことを申しておきながら、歌を詠んで負けたから従います、だと!?」
報告に来た家臣は、思わず身を縮めた。
「し、しかし、殿。相良家は、勝負の種目を阿蘇方へ委ねていたとのことで……」
「そんなことは分かっておる!」
晴純は怒鳴った。
「相良が何を考えておったかなど、知るものか! 問題は、阿蘇が何の損害も受けておらぬことだ!」
荒い息を吐きながら、晴純は地図を睨みつけた。
相良の領地も家臣も、ほとんど傷つかぬまま阿蘇の力になる。しかも、阿蘇側にも損耗はない。
「くそっ! これでは阿蘇の思うつぼではないか!」
晴純は拳を握りしめた。
「こちらが必死になって兵を整えておる間に、阿蘇は歌を詠むだけで国を増やしたというのか!」
◇
「有馬殿、落ち着かれよ」
それまで黙っていた西郷純久が、静かに声をかけた。
純久は、報告を受けるために晴純と同席していた。
「これが落ち着いておれるか!」
晴純は純久へ顔を向けた。
「相良は一兵も失わせず、阿蘇へ下ったのだぞ! こちらの算段が、すべて狂ってしまったではないか!」
「それは承知しております」
「我らは、相良が阿蘇を削ってくれるものと考えておった。その間に兵と船を整え、来年にはこちらも動くつもりだったのだ」
「はい」
「だが、阿蘇は弱るどころか、さらに大きくなった。これで来年の戦も、以前より難しくなるではないか!」
純久は静かにうなずいた。
「確かに、相良が阿蘇へ加わったことは大きゅうございます。されど、今ここで兵を動かせば、準備の整わぬ我らが阿蘇と戦うことになりますぞ」
「……分かっておる」
晴純は苦々しく答えた。
「分かっておるが、腹が立つのだ!」
純久は、それ以上は何も言わなかった。
しばらくして、改めて口を開く。
「……有馬殿。相良が阿蘇へ下ったことは、もはや変えられませぬ。今は、こちらがどう動くかを考えるべきかと」
晴純は黙っていたが、やがて大きく息を吐いた。
「……そうだな」
腰を下ろし、地図へ目を戻す。
「今さら相良を責めたところで、何も変わらぬか」
「左様にございます」
「まったく、腹立たしい話よ」
晴純は地図を見つめた。
とはいえ、阿蘇とて新しい領地を得れば、それだけ統治の手間は増える。肥前では旧少弐領の整理や龍造寺家の再建もまだ途中であり、そこへ相良まで加わったのだ。
「……ならば、そこを突くか」
晴純が小さくつぶやいた。
純久が顔を上げる。
「何か、お考えが?」
「うむ」
晴純は地図の肥前を指さした。
「しばらくは、阿蘇の統治を妨げる」
「……と、申されますと?」
「肥前で小競り合いを起こすのだ」
純久が、わずかに眉を動かした。
「阿蘇方と、でございますか?」
「そうだ。ただし、今すぐ大きな戦を起こすつもりはない」
晴純は続けた。
「国境の争いでも、旧領主同士の揉め事でもよい。阿蘇が放っておけぬ騒ぎを起こし、余計な兵や役人を割かせる」
純久は、しばらく考えてからうなずいた。
「なるほど。阿蘇の統治を遅らせ、その間にこちらの備えを進めるというわけですな」
「うむ」
「されど、小競り合いが大きな戦へ発展することも考えられます」
「それは避けねばならん。今の段階で全面戦争を始めるつもりはないからな」
「承知いたしました。その点も踏まえ、備えを進めましょう」
「頼むぞ。大村や松浦方との話も、引き続き進めてくれ」
「はっ」
「兵を鍛え、船を増やし、兵糧を蓄える。鉄砲の調達も急がせよ。阿蘇に勝つのであれば、こちらも相応の備えが必要だ」
晴純は、そこで言葉を切った。
「……場合によっては、戦を早めねばならん」
純久が晴純を見た。
「来年の夏を待たずに、でございますか?」
「そうだ」
晴純はうなずいた。
「阿蘇の成長が、あまりにも早い。このまま半年も待てば、さらに厄介な相手になっているやもしれぬ」
「では、準備をさらに急がせます」
「うむ。ただし、こちらの兵が整う前に無理な戦はせぬ。それだけは徹底させよ」
「承知いたしました」
純久は深く頭を下げた。
◇
話し合いを終えると、純久は一礼して退出した。
晴純は一人、座に残った。
目の前には、肥前の地図が広げられている。
相良まで加わり、阿蘇はまた一つ大きくなった。
晴純は、地図の上で拳をゆっくりと握りしめた。
「今に見えておれ、阿蘇よ。うまくいっているのはここまでぞ」




