第百四話 村中で持つ
天文十八年(一五四九年)六月。
村中の城は、まだ落ち着いていた。
されどその落ち着きは、静けさではない。
城の外に敵の旗が増えるたび、内の息は少しずつ細くなっていた。
朝より物見の声が絶えぬ。
西にも、北にも、陣が増える。
焚火の跡が増え、人馬の往来が濃くなり、まだ総攻めに入らぬまでも、包囲の輪はもう誰の目にも明らかであった。
城兵は二千。
多いように見えて、籠もれば多いばかりでもない。
門を守り、塀を守り、櫓に詰め、夜番を立て、矢玉を運び、兵糧を配る。
傷者が出れば看る者も要る。
火を出さぬための見回りも要る。
城に入った兵というものは、ただ二千の槍になって並ぶわけではない。
隆信は、それを分かっていた。
分かっていたが、それでも胸のうちの火までは消えておらぬ。
若い。
若いがゆえに、ただ持つだけで終わるのをよしとせぬ気がある。
此度の籠城を持ち切れば名は立つ。
だが、もし城外で一つ働き、敵の鼻を折ることが出来れば、その名はもっと強く立つ。
阿蘇の傘の下にある龍造寺とて、名を失ってよいわけではない。
いずれ立つべき家ならば、若きうちに一つでも手柄を重ねたい。
その思いは、隆信の胸の底で、どうしても消えなかった。
その日、隆信が詰めていたのは二の丸寄りの一間である。
広くはない。
だが、いま城で要る顔を集めるには足りた。
石井兼清。
納富信景。
福地信重。
小河信安。
百武賢兼。
家宗はすでに城を出ている。
阿蘇本陣に合し、援軍を率いて戻るためであった。
ゆえに、いま村中を預かる顔は隆信であり、その脇に座る者どもは、家宗の命を受けてこれを支える者どもでもあった。
小河信安が、外より戻った足でそのまま報せた。
「敵、南の寄せ手も陣を固めました」
隆信が顔を上げる。
「数は」
「昨日よりまた増えております。まだ攻め口を定め切ってはおらぬように見えますが、梯子、楯、竹束、そのほか運ばせております」
福地信重が低く言った。
「始まりますな」
「うむ」
兼清が頷く。
「今日明日を越すまい」
隆信は、その言葉を黙って聞いていた。
始まる。
それは分かっている。
だが分かっているからこそ、胸の内では別の思いも頭をもたげる。
まだ攻め口を定め切っておらぬ。
まだ陣は固まりきっておらぬ。
ならば、今なら叩けるのではないか、と。
その思いを、先に口へ出したのは百武賢兼であった。
「若」
百武の声には、もう熱がある。
「いまなら一つ打って出られます」
納富信景の目が、わずかに細くなる。
「賢兼」
「敵はまだ寄せ切っておりませぬ」
百武は続けた。
「陣が固まる前、攻め道具が揃う前に、夜陰でも暁でも、一つ突いてやればよろしい。火でも掛ければ、なお崩れます。こちらは籠もるばかりではないと見せれば、寄せ手の腹も冷えましょう」
福地信重が、低く息を吐いた。
言うことは分かる。
だが、分かることと採ることは違う。
隆信は、百武の言葉にすぐ否とは言わなかった。
むしろ、そのまま受けた。
「どこを打つ」
「南の端です」
百武は即座に答えた。
「大村勢の張りはまだ浅い。そこを崩して焚けば、西郷も松浦方も、夜のうちは必ず騒ぎます」
「数は」
「多くは要りませぬ。二百、いや百五十でも足ります」
小河信安が、そこで口を挟んだ。
「道はございます」
その一言で、座がわずかに動いた。
「南の低み、竹藪の陰を使えば、夜目には見つかりにくうございます」
百武がすぐに乗る。
「ほれ、信安もこう申す。今のうちに一つ噛んでおけば、明日の攻めも鈍ります」
隆信は、膝の上で指を組んだまま黙っていた。
打って出る。
胸は、その方へ傾いた。
ただ籠もって敵を待つのみでは、龍造寺の名が立たぬようにも思えた。
阿蘇の援けを待つばかりではないと、城内外へ示したい気があった。
「……百五十で足りるか」
隆信が問うた。
百武の顔が、わずかに明るくなる。
「足ります」
「本当に崩せるか」
「崩せます」
そこへ、石井兼清が重く言った。
「なりませぬ」
声は高くない。
だが、その一言で熱の向きが止まった。
隆信がそちらを見る。
百武もまた、口を引き結ぶ。
「兼清」
「家宗様の御下知にございます」
兼清ははっきりと言った。
「村中は持て。無理に外へ打って出るな。援けが届くまで、兵を減らすな――そう仰せつかっております」
百武が、すぐには収まらぬ声で言う。
「それは分かっております。されど、ただ待てば敵はますます固まる」
「固まるなら固まらせればよい」
今度は納富信景であった。
「敵が寄せるほど、城攻めの形もまた見える。こちらはそのために兵を二千入れておる」
「信景殿」
「賢兼」
納富の声は落ち着いていた。
「籠城とは、痩せ我慢のことではない。出ぬと決めて持つなら、それもまた戦だ。ここで百五十出せば、その百五十は明日の塀の上から消える」
百武はなお引かぬ。
「されど、若が一つ働かれれば、城内の気も立ちます」
隆信は、その言葉に何も言わなかった。
それが一番胸へ来た。
若が一つ働けば、気が立つ。
その通りである。
若い城代が自ら先に立って敵陣を衝けば、兵も湧こう。
名も立とう。
阿蘇の援けを待つだけの龍造寺ではないと、誰の目にも見せられる。
だが、福地信重が、その熱へ冷たい刃を入れた。
「気は立ちましょう」
低い声であった。
「されど、死人も立ちます」
百武が黙る。
「敵はまだ攻め切っておらぬ。ゆえに崩せる、と申される。されどそれは逆でもございます。まだ固まっておらぬ敵は、崩れても散って退くだけだ。追えばこちらが乱れ、戻れば門が乱れる」
兼清が頷いた。
「家宗様は、それを嫌われた」
「……」
「若」
兼清は、そこで初めて隆信をまっすぐ見た。
「若が手柄を立てたいとお思いなのは、よう分かります」
その言葉で、座が静まった。
誰も口にはせなんだことを、兼清はあえて言ったのである。
隆信は、わずかに眉を動かした。
だが怒りはしなかった。
怒れるほど、図星でもあった。
「されど此度、若の役目は討ち取ることではございませぬ」
兼清は言った。
「城を持たせることにございます」
納富信景が続ける。
「手柄を立てる戦と、持たせて名を立てる戦は違います」
福地信重もまた言う。
「ここで一人二人を討っても、それで城は軽くなりませぬ。若が欲しがるべきは首数ではなく、援軍が着くまで塀を残した、という働きにございましょう」
隆信は、しばし何も言わなかった。
胸の火は、まだ消えぬ。
百武の言うことも分かる。
若いまま、ただ守るだけで終わるのは苦い。
敵の鼻を明かしたい。
阿蘇の援けが来た時、ただ持っておりましたではなく、こちらも一つ働いたと示したい。
だが、兼清らの言うこともまた、まことにその通りであった。
家宗の命は、ただ「持て」である。
しかもその家宗は、援けを率いて戻るために城を出ている。
ならば城を預かる者が、その命を軽くしてよい道理はない。
百武が、なお押した。
「若」
熱のこもった声である。
「今ならまだ――」
「賢兼」
隆信が言った。
百武が口を閉じる。
若い声であった。
だが、その若い声は、先ほどまでより少しだけ重くなっていた。
「出ぬ」
短く、そう言った。
「出て勝てば手柄だ。負ければ、それで終わる」
隆信は続けた。
「此度、家宗様より村中を預けられたのはわしだ。ならば、まず持たせる。家宗様が援けと来るまで、村中を減らさぬ」
兼清、信景、信重が、そろって深く頭を下げた。
「はっ」
百武は、すぐには頭を下げなかった。
悔しさはある。
だが、若が自らそう言った以上、もう押し切るわけにはいかぬ。
やがて、低く言う。
「……承知致しました」
隆信は、その顔を見た。
賢兼もまた、自分と同じ火を抱えている。
ゆえにその悔しさもよう分かる。
だが、分かるからといって採れぬ道は採れぬ。
「その代わり」
隆信が言う。
百武が顔を上げる。
「敵が寄せれば、塀際では好きに働け」
その一言で、百武の目にようやく光が戻る。
「門は開けぬ。だが上からは存分に打つ。寄せ手が近づけば、二度と軽く見ぬようにしてやれ」
「はっ」
今度の声は大きかった。
その時、小河信安が外の気配を聞いて、ふと顔を上げた。
「……太鼓」
皆が耳を澄ます。
たしかに、遠く低く、陣太鼓の音がした。
一つではない。
西からも、南からも、答えるように鳴っている。
福地信重が立ち上がる。
「来ますな」
納富信景も腰を上げた。
「持ち場へ」
兼清が最後に言う。
「どうぞ表へ」
隆信は頷き、立った。
部屋を出れば、城の空気はもう別であった。
兵が走る。
矢束が運ばれる。
門の内で槍が揃い、塀の上では弓手が場所を取り始める。
まだ一矢も飛んでおらぬ。
だが、始まる前の城というものは、始まってからより静かに張り詰めることがある。
隆信は、塀へ上がった。
敵陣が見える。
旗が揺れている。
楯が前へ出され、梯子が運ばれ、人が流れ始めていた。
百武賢兼は、すでに塀際で槍を取り、獣のような目で外を見ていた。
兼清はその少し後ろで、まだ若い兵どもへ短く言葉を回している。
納富信景は矢と石の配りを見、福地信重は門脇の固めを確かめていた。
小河信安は、外の動きをひとつも漏らすまいと目を細めている。
城兵二千。
皆、持つためにここにある。
隆信は、眼下の敵陣を見つめた。
来い。
来るなら来い。
村中はまだ折れぬ。
家宗が戻るまで、阿蘇の援けが届くまで、この城は渡さぬ。
敵の陣太鼓が、もう一段高く鳴った。
寄せ手が前へ出る。
楯が揃う。
梯子が肩へ掛かる。
城攻めが、まさに始まろうとしていた。
その時であった。
敵陣の後ろ――海手で、にわかに大きな騒ぎが立った。
最初は、一つの叫びであった。
それが二つになり、三つになり、やがて陣の端から端へ走る。
旗が乱れる。
人馬が逆に動く。
前へ出ていた楯が止まり、梯子を担いでいた兵が、何事かと後ろを振り返る。
隆信の眉が寄る。
「……何だ」
百武もまた、塀の上で目を見張った。
敵陣の中へ、一騎が駆け込んでいた。
砂埃を上げ、倒れんばかりの勢いで、まっすぐ本陣の方へ走る。
その一騎が何を叫んだか、城の上までは届かぬ。
だが、届かずとも足りた。
次の瞬間、城を囲む敵の陣に、先ほどまでなかった崩れが、はっきりと走った。




