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火の山の若君は、未来を夢に見る ~阿蘇家嫡流の若君、名臣甲斐宗運と乱世を切り拓く~  作者: アトラス


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第百五話 血の後、外へ

天文十八年(一五四九年)六月。


 外では阿蘇が動き、肥前では村中を囲む輪が狭まりつつあった。

 海でも、いまにも戦が始まろうとしている。


 しかも豊後口では、その外の戦より先に、大友の兵がすでに動き始めていた。


 その同じ頃である。


 府内では、別の血が流れていた。


 史実より約半年早い二階崩れの変であった。


 その仔細を、ここで長く語る要はない。

 ただ、大友義鑑は死に、塩市丸もまた消えた。

 半年早く、家中の割れはついに血を噴いたのである。


 入田は落ちた。

 討たれたのではない。逃げたのである。

 どこへ落ち延びたかは、なお知れなかった。


 表向き、府内は静まったように見えた。

 されどそれは、声が止んだだけである。

 屋敷の板間にも、廊の隅にも、まだ乾ききらぬ血の匂いが残っていた。

 家中の者どもは口を噤んだ。

 だが、噤んだからといって胸の中まで静まるものでもない。


 その血の匂いの中で、義鎮は座していた。


 もはや若君ではない。

 父も弟も死に、家中は割れ、そのただ中で当主として座っている。

 静かに見えた。

 だがその静けさは、刃を鞘に納めた者の静けさではない。

 まだ抜き身のまま、辛うじて膝の上に置いてある。

 そんな静けさであった。


 その日の座にあるのは、戸次鑑連、吉弘鑑理、臼杵鑑速。

 いずれも大友の柱石と呼ぶべき者どもである。


 広間ではない。

 広くしてよい話ではないからであった。


 義鎮は、地図の上へ手を置いたまま言った。


「阿蘇へ兵を出す」


 短い。

 だが、その短さがかえって重かった。


 誰もすぐには応じなかった。


 やがて戸次鑑連が、低く口を開いた。


「若殿」


 義鎮の目が上がる。


「いまは、まだ早うございます」


「早い、だと」


「はい」


 鑑連は、少しも目を逸らさぬ。


「阿蘇がこのところ手を広げておることは、よう存じております。肥後、筑後、肥前、さらには海まで見始めておる。いずれ噛み合う相手であることも、異はございませぬ」


 一拍。


「されど、今ではございませぬ」


 義鎮は黙って聞いている。


「いま豊後口より先を押さえるとしても、道、兵糧、留守、諸将の腹合わせ、いずれも足りませぬ。勝てぬとは申しませぬ。されど、整えずしての外征は、勝っても後を痩せさせます」


「痩せる、か」


「はい。家の骨を削って阿蘇へ踏み込むことになります」


 今度は吉弘鑑理が言った。


「それだけではございませぬ」


 鑑理の声は、鑑連よりなお低かった。


「此度、府内で流れた血は、まだ洗い切れておりませぬ。父君も、塩市丸も、すでにおりませぬ。入田も落ちました。だが、だからこそ今は内を固めねばならぬ。誰に何の恨みが残り、誰が何を飲み込めずにいるか、それすらまだ定まっておりませぬ」


 さらに臼杵鑑速が続けた。


「加えて、此度の阿蘇攻めには義が薄うございます」


 その一言で、部屋の空気はさらに重くなった。


「阿蘇が豊後へ攻め込んだわけではございませぬ。いま阿蘇が膨らみつつあるのは事実。されど、それをもって今こちらから兵を出せば、好機とは申せても、大義は立ちませぬ」


 義鎮の顔は動かなかった。


 動かなかったが、その沈黙が平らでないことは、三人ともよく知った。


 戸次鑑連が、あらためて言った。


「兵というものは、怒りで出せば勝てませぬ」


 その言葉は重かった。

 しかも、正しかった。


 だが、その正しさが、かえって義鎮の胸を逆撫でした。


「今ではない」


 義鎮が、低く繰り返す。


「今ではない、か」


 誰も口を挟まぬ。


「おぬしらは、そればかりだ」


 声は低いままであった。

 それが、かえって怖ろしかった。


「父がいた頃からそうだ。何かあれば内を見よ、時を待て、軽々しく動くな――」


 そこで、義鎮の声が急に烈しくなった。


「その果てが、これではないか!」


 机を打つ音が響いた。


 座が震えたように見えた。


「父は死んだ。塩市丸も死んだ。家中は割れ、府内は血に染まった。待って、見て、控えて、その果てがこれだ!」


 鑑理が、わずかに眉を寄せた。

 父の病床より続いていた疑いの残り火が、いま義鎮の胸で一つに燃え上がっている。

 それが分かった。


 そして、ついにその言葉が出た。


「おぬしらが塩市丸を立てようなどと思わねば、ここまでにはならなかったのだ!」


 鑑連の顔が、はっきりと強張る。

 鑑理もまた、目を見開いた。


「若殿!」


 吉弘鑑理が、思わず声を上げる。


「そのような事実はないと、これまで幾度も申し上げております!」


「申したところで消えるのか!」


 義鎮は叩きつけるように言った。


「疑いが! 家中の割れが! 父と弟の血が!」


 今度は戸次鑑連であった。


「何度でも申し上げまする。塩市丸を立てて若殿を退けようなど、そのような腹は一度たりとも――」


「黙れ!」


 義鎮の声が、部屋の空気そのものを裂いた。


「ならば何故こうなった! 何故ここまで血を流した! おぬしらが父の側にありながら、あの火を消し切れなんだからではないか!」


 鑑連の拳が、膝の上で固くなる。


 言い返したかった。

 だがここで言い返せば、さらに血が増える。

 それが分かるからこそ、歯を食いしばるほかなかった。


 吉弘鑑理が、低く、だがはっきりと言った。


「無きことを有ると仰せられては、我らはどうしてよいか分かりませぬ」


 義鎮の目が、なお怒りで濁る。


「分からぬか」


「分かりませぬ」


「ならば分からせてやる」


 義鎮は立ち上がった。


 もはや座ではなかった。

 裁きに近かった。


「ようやく塩市丸は消えた。義鑑も死んだ。入田も落ちた。家中の棘を抜いたのだ」


 その言葉の一つ一つが、血を踏む音のようであった。


「それなのに、なおおぬしらは待てと申す。整えよと申す。義がないと申す」


 臼杵鑑速が、押し殺すように言った。


「それは家のためにございます」


「違う」


 義鎮は言い切った。


「それはまた家中を割る言葉だ」


 座が、凍る。


「塩市丸が死んでもなお、なおも足を引く。なおも動くなと申す。なおも大友の刃を内へ留め置く」


 義鎮は戸次と吉弘を見た。


「おぬしらの胸に、なお何がある」


「ございませぬ!」


 戸次鑑連が、とうとう声を荒げた。


「そのようなことはないと、何度も申し上げております!」


「ならば」


 義鎮の声は、かえって静かになった。


 その静けさは、さきほどよりなお恐ろしかった。


「ならば此度の戦にてそれを示せ」


 部屋の空気が、そこで完全に止まった。


「口で申すな。働きで示せ」


 義鎮は一歩、前へ出た。


「塩市丸を立てる腹など無かったと申すなら、阿蘇を砕いてみせよ。大友に二心なきことを、血で示せ。兵で示せ。首で示せ」


 吉弘鑑理の顔から、血の気が引いた。


「若殿……」


「若殿ではない」


「……」


「当主だ」


 それはもう、怒声でもなかった。

 決めきってしまった者の声であった。


 臼杵鑑速が、なお一度だけ言った。


「それでも、義は――」


「義ならある」


 義鎮は切った。


「大友の先を守る義だ。阿蘇はいま肥前へ手を入れ、海を見、いずれ豊後口へも手を伸ばす。その前に叩く。これが大友の義だ」


 鑑速は口を噤んだ。


 薄い。

 皆、それは分かっていた。

 だがこの場でそれ以上を言えば、もはや軍議では済まぬ。


 義鎮は、もう誰の反対も求めていなかった。


「これは評定ではない」


 低く言った。


「もう決めた」


 戸次鑑連、吉弘鑑理、臼杵鑑速。

 三人とも、何も言えなかった。


「鑑連」


「……は」


「兵をまとめよ。豊後口より阿蘇へ押し出す。大軍を一息に動かすな。されど、阿蘇が軽く見られぬ数を先に入れろ」


「承りました」


 その声は重かった。


「鑑理」


「は」


「兵糧と道を切れ。内へ回す分はもうよい。これよりは外へ回せ」


「承りました」


「鑑速」


「は」


「文を整えよ。阿蘇の膨張を防ぐため、と書け。大友の先を守る戦とする」


「承りました」


 それで、すべてが決した。


 決したというより、押し潰されたのである。


 人が立つ。

 足音が走る。

 文が書かれる。

 兵が呼ばれる。


 つい先ほどまで家中の血を拭っていた手が、今度は外征の支度へ向かう。

 府内には、まだ死者の名が消えておらぬ。

 それでも兵は動く。

 動かされる。


 戸次鑑連は、退出の際に一瞬だけ振り返った。

 言いたいことは、なお胸に山ほどあった。

 だが、それを言えば、また内で血が流れる。


 吉弘鑑理もまた、唇を噛んだまま頭を下げた。

 身の潔白を言葉で証せぬなら、戦で証せと命じられた。

 それが理不尽であることは、自分が一番よく知っていた。

 だが、理不尽と知りながら従うよりほかないところまで、もう来てしまっていた。


 臼杵鑑速は、最後にただ一度だけ目を伏せた。

 義の薄い戦である。

 しかも、家中の血の上に立つ戦である。

 それでも大友の家臣である以上、命が下れば動かねばならぬ。


 義鎮は、一人残った。


 西を見た。

 阿蘇の方角である。


 いま阿蘇は、有馬らと噛み合い、肥前を抱え、海の戦を目前にしている。

 そこへさらに豊後口から刃を差し込む。

 内で流れた血を、今度は外へ向ける。


 義鎮の胸には、もう迷いはなかった。

 怒りも、疑いも、血の匂いも、すべて一つに固まっていた。


 そして、低く言った。


「これより阿蘇へ攻め入る」

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こちらも覗いていただけると嬉しいです。

― 新着の感想 ―
大友が迫ると、でも家中を纏めないで動くのは悪手だよなー
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