第百六話 海の上の六倍
天文十八年(一五四九年)六月。
有明の海は、朝からよく晴れていた。
風は重すぎず、潮も読みやすい。
船を出すには申し分のない日であった。
この日の海は、有馬に勝てと言っているようにすら見えた。
有馬晴純は、本船の舳先近くに立ち、前を見ていた。
海の上には、味方の船が広く並んでいる。
有馬。
松浦方。
そのほか、此度のために集められた諸船。
大小合わせて、おおよそ百二十。
数だけで海が勝てるわけではない。
晴純とて、そのくらいは知っている。
海には風があり、潮があり、船足の違いがあり、人の呼吸の揃いがある。
だが、それらを承知の上でも、此度の差は大きかった。
百二十に対して、阿蘇は二十ほど。
しかも、こちらには海に馴れた衆が多い。
阿蘇は違う。
近ごろ船を作り始め、河口へ手を入れ、新しき船を揃えつつあるとは聞く。
だが、それだけでいきなり海の主になれるほど、海は甘くない。
晴純は、遠くに見える阿蘇方の船影を眺めた。
いる。
たしかに、いる。
だが、少ない。
少ないうえに、妙に静かであった。
深いところへ、横に長く並んでいる。
こちらへ突きかかって来るでもない。
逃げるでもない。
ただ、待っているように見えた。
「……あれか」
晴純が呟くと、脇に控えた者が答えた。
「左様にございます。阿蘇の新しき船、あれに違いございませぬ」
「二十」
「そのほどかと」
晴純は鼻で小さく笑った。
「逃げもせず、出もせぬか」
その言葉には侮りがあった。
だが、根のない侮りではない。
少ない船を深いところへ置き、じっと受ける。数で劣る側の策としては分からぬでもない。
出てくれば噛み潰される。
されど引けば士気が落ちる。
ゆえに、ああして海の上へ残っているのであろう。
怯えながら。
晴純には、そう見えた。
前では、水夫どもが櫓を揃え、兵どもが槍と弓、火の道具を確かめている。
松浦方の船もまた、潮の利くところを選んでよく並んでいた。
これだけの数が一息に前へ出れば、阿蘇の二十など、噛み合う前に飲み込める。
晴純は、甲板の中央へ進んだ。
兵どもが、その動きに顔を上げる。
海の上では、総大将の影ひとつで人の腹が違ってくる。
ことに此度の敵が阿蘇であるなら、なおさらであった。
晴純は、よく通る声で言った。
「見よ」
皆の目が前へ向く。
「あれが阿蘇の船だ」
風の上を、声が走る。
「二十ほど。いかに新しき船といえど、二十は二十に過ぎぬ」
船の上で、何人かが口元を歪める。
緊張はある。
だが、それ以上に、数の優位が腹を太くしていた。
「こちらは百二十」
晴純は続けた。
「海を知る者の六倍だ。これで負ける道理がどこにある」
あちこちの船から声が上がる。
「ございませぬ!」
「左様!」
「勝ちはこちらにございます!」
晴純は、その声を聞きながら前を見た。
阿蘇の船はなお動かぬ。
波の上に並び、ただ受けるつもりでいるように見える。
「阿蘇は近ごろ、肥前へ手を入れ、龍造寺を立て直し、海まで見始めたと聞く」
晴純の声が、もう一段強くなる。
「されど海は、陸の理では獲れぬ」
兵どもが聞いている。
松浦の衆も、耳を向けている。
「船を作っただけで海が分かるなら、この世に苦労はない。二十ほど浮かべたところで、百二十を止められるものか」
短い笑いが起きた。
それで十分であった。
「この勝負、もらったぞ」
晴純は言い切った。
「阿蘇の二十など、すぐに蹴散らす。蹴散らして、そのまま肥後を踏み荒らす。海で折れたと知れば、龍造寺も、阿蘇の傘の下の者どもも、皆浮き足立つ」
兵どもの声がさらに大きくなる。
「おお!」
「押し潰せ!」
「肥後へ!」
晴純は、そこで初めて満足げに頷いた。
これでよい。
勝ち戦は、斬り結ぶ前に半ば決まる。
こちらが勝つ腹を固め、向こうが折れる。
それで十分だ。
阿蘇の船は、なお静かである。
晴純は、その静けさをしばし見ていた。
おかしい、とまでは思わぬ。
ただ、少し妙ではあった。
こちらがこれほどの数で前へ出ているのに、慌てる様子も、逃げる様子もない。
だが、その違和はすぐに押し流された。
静かであろう。
数で負ける側は、騒げばそれだけ崩れる。
ゆえに、黙って浮いているほかないのだ。
「前へ出せ」
命が飛ぶ。
櫓が鳴る。
帆が風を受ける。
百二十の船が、じりじりと、やがてはっきりと前へ出始めた。
海の上の数というものは、寄れば寄るほど人の腹を強くする。
一艘一艘は小さくとも、多く揃えばそれだけで壁になる。
有馬と松浦方の船列は、まさにそういう壁であった。
その壁が、阿蘇の二十へ向かって進む。
晴純は舳先から見た。
阿蘇の大きい船がいくつか、深いところへ据えられている。
その横に、小さい船が散っている。
やはり、向こうから打って出てくる気配はない。
「見ろ」
晴純は脇の者へ言った。
「怯えておる」
「は」
「出る気なら、とっくに出ておる。逃げる気なら、もう引いておる」
「左様にございます」
晴純は、わずかに笑った。
「あれでは、ただの的だ」
敵の砲を、まるで恐れぬわけではない。
新しき船なら、筒もあろう。
だが二十しかない。
しかも、ああして横に寝かせたように並んでいるなら、むしろこちらから寄せやすい。
数で呑み、横から絡め、火でも掛ければ終わりである。
晴純は、自らの本船がやや前へ出ているのを感じていた。
後ろの船どもへ、自分の姿を見せるにはそれでよい。
総大将が先にある。
そのことが、兵どもの足をさらに前へ向かせる。
海風が吹いた。
潮の匂い。
櫓の軋み。
人の声。
鉄の触れ合う音。
勝ち戦の前とは、こういう匂いがするものだ、と晴純は思った。
「阿蘇の海は、ここで終わる」
誰へともなく、そう言った。
「この二十を沈めれば、あとは陸も浮く。肥後は荒れる」
脇にいた者が、深く頷く。
「はっ」
「海で折れば、それで足りる。村中も、龍造寺も、阿蘇の傘の下の者どもも、皆揺れる」
「左様にございます」
晴純は、遠くの阿蘇船を見た。
なお、静かである。
あれほど静かでいられるものか、と一瞬だけ思う。
だが、その一瞬もすぐ消えた。
静かであることと、強いことは違う。
むしろ、覚悟の定まらぬ側ほど妙に静まることがある。
こちらは百二十。
向こうは二十。
晴純は、それを疑わなかった。
「寄せよ!」
さらに声が飛ぶ。
船列が、また一段前へ出る。
阿蘇の大船が、ようやく少しだけ角度を変えたように見えた。
だが、それでもなお、向こうから打って出てくる気配はない。
遅い。
遅すぎる。
晴純の胸には、もう確信しかなかった。
勝つ。
勝って、海を折る。
折って、そのまま阿蘇を呑む。
いま目の前に浮いている二十は、そのための最初の踏み台にすぎぬ。
その時であった。
船腹の下、板の継ぎ目の奥で、何かが噛んだような、鈍い短い音がした。
晴純が眉を寄せる。
「……何だ」
脇の者も、顔を巡らせる。
次の瞬間、晴純の立つ甲板の下で、腹の底を突き上げるような衝撃が走った。
雷のような轟き。
火。
木片。
人の悲鳴。
晴純の乗る本船が、音を立てて爆ぜた。




