第百七話 静かな砲列
天文十八年(一五四九年)六月。
同じ朝、同じ海である。
有馬晴純が百二十の船を前へ出し、勝ちを疑わずにいたその少し前、阿蘇の船列はなお深いところへ静かに浮いていた。
晴れていた。
風は重すぎず、潮も素直である。
船を出すには悪くない。
だが、悪くない日というものは、味方にだけ都合がよいわけではない。
敵にもまた、同じだけ都合がよい。
惟種は、そのことをよく知っていた。
大きい船が十。
小さい船が十。
合わせて二十。
春から積み上げてきたものを、ようやく形にした二十である。
多くはない。
胸を張れる数でもない。
しかも相手は有馬と松浦方を合わせて百二十。
海に馴れた者の数も、船の数も、こちらとは比べものにならぬ。
六倍。
その差は、理で知っているだけでなく、海の上へ並べて見ればなお重かった。
惟種の立つ大船の甲板でも、誰も余計な口を利かなかった。
火薬の入れ具合を見る者。
弾を運ぶ者。
綱を確かめる者。
櫓の動きを見る者。
皆、手は動かしている。
だが、その手の奥にある腹は固い。
宗運が、前を見たまま低く言った。
「来ますな」
「来る」
惟種は答えた。
遠く、海の向こうに有馬方の船列が見える。
多い。
ただ多いというだけで、人の腹を削るだけの多さであった。
「よう集めたものにございます」
宗運が言う。
「有馬だけではないからな」
惟種は答えた。
「松浦もおる。海の数だけ見れば、向こうがこちらを侮るのも無理はない」
宗運は頷いた。
侮るであろう。
阿蘇は近ごろ船を作り始め、河口へ手を入れ、新しき船を揃えつつある。
されど、だからといって海の古参に追いついたわけではない。
数も足らぬ。
経験も足らぬ。
ゆえに、敵がこちらを“ただの二十”と見るのは自然であった。
親英が、少し離れたところから寄って来た。
「若君」
「どうだ」
「火縄は乾いております。筒も詰まりはございませぬ。されど」
「されど、何だ」
親英は一瞬だけ言葉を切った。
「外せば終いにございます」
その一言に、甲板の空気がさらに沈んだ。
そうであった。
この一撃を外せば、こちらはそのまま六倍の数に呑まれる。
丸玉で晴純の本船を割れねば、砲列は向こうに噛まれる。
噛まれれば、大きい十とて浮かぶ砲台ではなくなる。
「分かっておる」
惟種は言った。
「だから前へ出さぬ。焦らぬ。ここで撃つ」
親英は、深く頭を下げた。
「は」
惟種は海を見た。
深いところへ、大きい船十を据える。
横へ長く、少しずつ角度を違え、砲の芯を作る。
小さい十は脇へ散らし、前へは出さぬ。
火攻め舟が来れば外から噛む。
伝令は走らせる。
寄せ手の薄いところを散らす。
だが、主はあくまで大船の砲である。
それが春から積み上げた形であった。
それが、百二十を百二十のまま働かせぬための、今の阿蘇に出来るほとんど唯一の形であった。
遠くで、櫓の音が重なり始める。
有馬方が前へ出たのである。
宗運が言った。
「見れば見るほど、多うございますな」
「多いな」
「兵の腹にはこたえましょう」
「こたえて当然だ」
惟種は言った。
「こたえぬふりをすれば、その方が危うい」
宗運は、その言葉に小さく頷いた。
怖い。
それを怖くないと言い張る者は、この海では役に立たぬ。
怖いからこそ、勝手に前へ出ぬ。
怖いからこそ、合図を違えぬ。
怖いからこそ、ここまで引きつける。
甲板の上で、若い水夫が一人、喉を鳴らした。
惟種はその顔を見た。
まだ若い。
船にも、人の死ぬ音にも、そう馴れてはおらぬ顔であった。
「名は」
惟種が問う。
「ご、権蔵にございます」
「初めてか」
「は」
「よい」
惟種は平らに言った。
「怖がれ」
その若者が目を見開く。
「怖がるな、とは申さぬ。怖がって、綱を離すな。合図を聞き違えるな。それで足りる」
「……は」
若者は、ようやく深く息を吸った。
親英がそのやり取りを聞き、わずかに口元を引き締めた。
今の阿蘇の水軍は、こういう者どもまで一つにして使わねばならぬ。
古くから海だけで食ってきた衆ばかりではない。
鍛冶も、荷役も、川船の者も、寄せ集めてようやく二十を浮かべている。
それでも勝つなら、数ではなく形で勝つほかない。
有馬方の船列が、また一段近づく。
「若君」
宗運が低く言う。
「向こう、こちらを侮っておりますな」
「そう見えるか」
「見えます。前へ出る足が早うございます。慎んで測る足ではありませぬ。押せば割れると見ておる」
惟種は、それを聞いて目を細めた。
「ならばよい」
「よろしいので」
「よい」
惟種は言った。
「侮るなら、なおよい。こちらを浮いておるだけと思うなら、なおよい」
宗運はその先を言わず、ただ頷いた。
有馬方から見れば、阿蘇の船は静かであろう。
動かぬ。
逃げぬ。
出もせぬ。
ただ深いところへ横に並んで、浮いているように見えるはずである。
だが、その静けさは怯えではない。
怯えが無いわけではない。
されど、怯えたままでも形を崩さず、撃つための静けさであった。
惟種は、敵の本船を探した。
前へ少し出た一艘。
人の集まり方。
旗。
大将のあるべき場所。
あれだ、と見えた。
「親英」
「は」
「あれを外すな」
親英もまた、同じものを見ていた。
「心得ております」
「他はどうでもよい。まずはあれだ。晴純が乗っておるなら、なおさらだ」
親英の喉が、わずかに鳴った。
その一艘を折れば、後ろは揺れる。
揺れれば百二十が百二十のままではなくなる。
それが、こちらの勝ち筋である。
有馬方が、さらに寄る。
近い。
まだ早い。
だが近い。
火薬の匂いが、甲板に薄く漂っていた。
波が船腹を打つ。
綱が鳴る。
櫓が軋む。
誰も大声を出さぬ。
大声を出せば、そのまま腹の底の恐れが表へ出てしまいそうであった。
宗運が、わずかに息を吐いた。
「これで討てねば、終いにございますな」
「うむ」
「村中が持ちませぬ」
「うむ」
惟種は答えた。
だから撃つ。
だから外せぬ。
だから、ここまで引きつけた。
有馬方の船列が、いよいよ深いところへ寄ってきた。
向こうは数の力を信じている。
押し寄せれば割れると信じている。
その信を砕ける距離まで、ようやく入った。
「若」
親英が、声を落として言った。
「届きます」
惟種は答えなかった。
ただ前を見た。
敵の本船。
その周りの船。
潮の流れ。
風。
こちらの角度。
すべてが、今この一時に噛み合わねばならぬ。
甲板の上で、誰かが唾を呑んだ。
火役の者が火縄を持つ手をさらに固くする。
砲口は、すでに向いている。
大きい十は、ただ浮かんでいるのではない。
海に据えた砲列として、じっとその時を待っていた。
惟種は、前を見たまま言った。
「撃て」
次の瞬間、阿蘇の大船十の砲口が、いっせいに火を噴いた。




