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火の山の若君は、未来を夢に見る ~阿蘇家嫡流の若君、名臣甲斐宗運と乱世を切り拓く~  作者: アトラス


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第百八話 返る海

天文十八年(一五四九年)六月。


 阿蘇の砲列が火を噴いた、その直後である。


 晴純の本船は、ひとたまりもなかった。


 腹を裂かれた船は、まず甲板の下から持ち上がるように傾ぎ、ついで木片と火を撒き散らしながら、鈍い音を立てて崩れた。舳先にあった旗が折れ、人が海へ飛び、悲鳴がいくつも重なって、そこだけ海の色が変わったように見えた。


 惟種は、それを見た。


 見たが、声は上げなかった。


「二の筒、急げ」


 言ったのは、それだけである。


 親英が即座に応じる。


「二の筒、前!」


 甲板の上を、弾と火縄が走る。

 水夫どもが綱を締め、船をわずかに開かせる。

 大きい十はその場で砲の芯を保ち、小さい十がようやく横へ動き出した。


 敵は、そこで初めて慌てた。


 晴純の本船が爆ぜた。

 それだけではない。

 大将船が折れたことで、後ろの船どもが、前へ出るべきか、引くべきか、一瞬にして分からなくなったのである。


 その一瞬が、海では命取りになる。


「若君」


 宗運が低く言う。


「割れましたな」


「まだだ」


 惟種は答えた。


「割れたのは先だけだ。後ろへ広がる前に噛め」


「は」


 親英が、すでに小船へ合図を送っている。

 火攻め舟を見張るもの。

 逃げる補給舟を食うもの。

 伝令船を潰すもの。

 前から沈め切るのではない。

 横腹と薄いところを裂き、百二十を百二十のまま動かさぬ。

 春から座で言ってきた通りであった。


 海の上では、もう有馬方の声が一つでなくなっていた。


「退け!」


「前へ出ろ!」


「火だ!」


「晴純様は!」


 命が乱れる。

 声が乱れる。

 乱れた命ほど、広い数を弱くするものはない。


 阿蘇の大船が、さらに火を噴いた。


 丸玉が一艘の舷側を打ち抜く。

 別の船では、散弾が寄せかけた兵を薙ぐ。

 松浦方の小舟が横へ逃れようとして、小船二艘に食いつかれた。

 火の回った船が味方の列へぶつかりそうになって、慌てて綱を切る者まで見える。


 親英の顔つきは、もう評定の時のそれではなかった。

 人の死ぬ海を前にして、妙に冷えた顔である。


「右の三艘、逃がすな」


「はっ」


「火の回ったやつは近寄るな。横から食え」


「はっ」


「本船を見失うな。大きいのはそこから動かすなよ」


 命がよく通る。

 小船の動きも乱れぬ。

 ようやく間に合わせた二十ではあったが、いまこの時ばかりは、皆ひとつの腹で動いていた。


 惟種は、海を見た。


 勝っている。

 たしかに勝っている。

 だが、ここで酔えば終わる。


 晴純の本船が爆ぜたことで、敵は折れ始めている。

 されど折れ始めた敵ほど、変な方向へ暴れることがある。

 火攻め舟が来るかもしれぬ。

 沈み際の船がこちらへ流れるかもしれぬ。

 潰れたと見せて、なお噛みつく一団もあろう。


「寄り過ぎるな」


 惟種が言った。


「沈み船へ寄るな。火へ寄るな。人を取るにも、まず敵の刃を見よ」


 宗運が、わずかに目を細める。


「浮いた者は拾わぬので」


「敵まで拾う暇はない」


「はい」


「味方を先に見ろ」


 有馬方の船列は、もう壁ではなくなっていた。


 前は止まり、横は逃げ、後ろはぶつかり、ところどころで舵も櫓も利かぬ船が潮に押される。

 それでもなお、数が多いゆえに海はまだ敵で埋まっていた。

 ゆえに掃討はなお続いた。


 小船が一艘、櫓を失った敵船へ横から食いつく。

 槍が出る。

 悲鳴が出る。

 次いで別の船では、火の手が上がった。


「逃げるやつが多うございますな」


 宗運が言う。


「そうだろう」


「晴純が折れたので」


「うむ」


「追いますか」


 その問いに、惟種はすぐには答えなかった。


 追えば、なお獲れる。

 有馬の海の威を、ここでさらに深く傷つけることも出来よう。


 だが、その時であった。


 左手の小船から、急ぎの合図が上がった。


 親英が振り向く。


「何だ」


 その小船が、波を切って大船へ寄せてくる。

 伝令である。

 しかも海戦の最中に合図を上げる以上、ただ事ではない。


 乗り移ってきた男は、海水と汗でぐしょ濡れであった。

 息が荒い。

 だが礼もそこそこに膝をつき、声を絞った。


「豊後口より急報!」


 甲板の空気が、一瞬で変わる。


 惟種が言う。


「申せ」


「大友勢、すでに阿蘇表へ入りつつありと!」


 誰かが息を呑む音がした。


「数は」


 宗運が問う。


「約六千! こちらが海で噛み合うより先に兵を出した由!」


 親英が、舌打ちするように息を吐いた。


「静かすぎると思えば」


 宗運の顔からも、先ほどまでの戦の色が消える。


「若君」


 惟種は、すでに前を見ていなかった。

 頭の中で、海と陸が一度に動き直していた。


 七千はもう前へ出している。

 本国の留守は二千と島津五百。

 そこへ六千が来るなら、いま海で勝ったところで、噛み締めている暇はない。


「若君」


 宗運がもう一度言う。


「どう致します」


 惟種は、海の上を見た。


 敵はまだ崩れている。

 ここでなお追えば、まだ獲れる。

 だが、その「もっと」が、いま最も危うい。


 惟豊の声が、胸の底でよみがえった。


 勝ちに乗れば死ぬ。

 此度は敵を皆沈める戦ではない。


 惟種は、きっぱりと言った。


「人を拾え」


 宗運と親英が、同時に顔を上げる。


「載せられるだけ載せる。海道沿いへ出してある味方も、拾えるところから拾え」


「は」


「肥後勢は」


 宗運が問う。


「三千を返す」


 その声はもう、迷いがなかった。


「千はそのまま村中へ行かせろ。家宗へ継げ。救援は崩すな」


「追撃は」


「龍造寺に任せる」


 惟種は言った。


「晴純が折れた。海は崩れた。その後どこまで噛むかは、家宗と隆信らの現場で決めよ、と伝えよ」


 宗運が深く頷く。


「承りました」


 親英が、なお問うた。


「有馬は、このまま逃がしますか」


「逃がすのではない」


 一拍。


「今は本国を取る」


 その言葉に、甲板の空気がさらに締まった。


 勝った。

 だが、その勝ちを噛む間もなく、次の火へ向き直る。

 それが今の阿蘇の戦であった。


 惟種は、さらに命を切った。


「大きい船は列を崩すな。残敵を威圧しつつ反転の支度だ」


「はっ」


「小さい船は掃討を切り上げろ。浮いた味方、岸沿いへ散った味方、拾える兵から拾え」


「はっ」


「火の始末を急げ。拿捕した船は曳けるだけ曳け。曳けぬものは捨てろ」


 親英の命が、そのまま海へ走る。


「聞いたか!」


「味方を拾え!」


「岸へ寄れ!」


「引き上げだ!」


 小船どもが、散るように動き始めた。

 つい先ほどまで逃げる敵を食っていたものが、今度は岸筋へ走る。

 海道沿いを進んでいた阿蘇方の兵どもも、海の勝ちを知るや否や、浜へ寄ってくる。

 船に載せられる者は載せる。

 載せきれぬ者は、そのまま陸を行かせる。

 勝ち戦の後とは思えぬ慌ただしさであった。


 宗運が、伝令へ向き直る。


「村中へ継げ。肥後勢千はそのまま救援に入る。三千は本国へ返す。追うか止まるかは、家宗殿の現場で決めよ」


「はっ!」


「急げ」


 伝令船が、また波を切って走る。


 惟種は、その背を見てから、もう一度海を見た。


 有馬方はなお崩れている。

 だが、それを食い尽くしている暇はない。


「若君」


 親英が言った。


「回収、間に合いますか」


「間に合わせる」


 惟種は答えた。


「乗るだけ乗せる。乗らぬ者は陸を行け。海と陸、両方で返す」


「は」


「海は取った。次は本国だ」


 船へ兵がよじ登る。

 傷者が運ばれる。

 水を吐く者がいる。

 岸から走ってきた兵が、綱へしがみつく。

 味方の名を呼ぶ声が、海の上へ何本も飛ぶ。


 阿蘇の二十は、ようやく海を取った。

 だが、海を取ったその足で、今度は本国へ返らねばならぬ。


 惟種は、甲板の中央へ進み、あたりへ響く声で言った。


「本国へ返すぞ!」

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