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火の山の若君は、未来を夢に見る ~阿蘇家嫡流の若君、名臣甲斐宗運と乱世を切り拓く~  作者: アトラス


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第九十八話 黒き石

「……寒いわ!!」


 朝の冷えは、言葉より先に骨へ入ってきた。


 天文十七年(一五四八年)十二月も半ばを過ぎ、阿蘇の朝は、もはや秋の名残を許してはいなかった。障子の隙から入る風は細いのに、その細さゆえにいっそう容赦がない。火鉢の火は赤くとも、部屋全体を温めるには足りず、まして朝の寝起きに人の気を引き戻すには、あまりに頼りなかった。


 惟種は肩をすくめ、思わずそう漏らしていた。


 その声に、脇へ控えていた島新吉郎がびくりと顔を上げた。


「わ、若君」


 まだ幼い。

 だが、近ごろはそば仕えとしての動きもようやく板についてきていた。とはいえ、若君が急に声を上げれば、まだいちいち驚く。


「何かございましたか」


「寒い」


 惟種は真顔で言った。


「は」


「寒いのだ」


「……はあ」


 新吉郎は困ったような顔をした。

 敵が来たでもなく、文が届いたでもなく、ただ寒いと言われても返しようがない。


 惟種は、なお火鉢の方を見た。


 足りない。

 館の一室ならまだよい。

 だが、文官の詰所も、鍛冶場も、番の者の控えも、冬になれば皆同じである。手がかじかめば筆は鈍る。指が固まれば鍛冶の槌も遅れる。兵の夜番とて、寒さに削られれば、立っているだけで疲れる。


 薪はある。

 炭もある。

 だが、あることと足ることは違う。


「新吉郎」


「は」


「重兼と親英を呼んでくれ」


「樋口殿と、甲斐殿を、でございますか」


「そうだ」


「承知致しました」


 新吉郎は小さく頭を下げると、すぐに障子の向こうへ消えた。

 まだ足取りは幼い。だが、呼ばれたらまず動く、それだけはもう身についている。


 ほどなくして、先に入ってきたのは樋口重兼であった。


「お呼びにございますか」


 老いた声である。

 だが、ただ老いたばかりではない。流浪の末にようやく辿り着いたこの阿蘇で、いまは新吉郎の後ろを見、身の回りのことを整える役も担っていた。


 その顔には、はっきりと「何事だろう」という色が浮かんでいる。

 若君が朝から人を呼ぶ時は、たいてい何かが始まる。だが今回は敵襲の気配もなく、文の慌ただしさもない。だからこそ、なおさら読めぬのであった。


「寒い」


 惟種は言った。


 重兼は一瞬だけ黙った。

 だが、そこは年の功である。すぐに顔色を変えず応じた。


「……左様にございましょうな」


「寒いのだ」


「はあ」


 重兼は慎重に頷いた。


「今年は冷え込みも早うございますれば」


 そこへ、やや遅れて甲斐親英が入ってきた。


「若君、お呼びと伺いまして」


 親英は、入ってくるなりまず重兼の顔を一度見、それから惟種の顔を見た。

 その目つきには、すでに半ば諦めたような色がある。


 ――また若君が、何か訳の分からぬことを言い出したか。


 まだ言葉にもならぬうちから、そう思っている顔であった。


「親英」


「は」


「寒い」


 親英は、ほんのわずかに目を細めた。


「……はあ」


 その返事には、呆れと警戒が半分ずつ混じっている。


「若君がわざわざ私までお呼びになるからには、ただ寒いというだけでは済みますまい」


「済まぬ」


 惟種は、即座に答えた。


 親英は、やはりな、という顔をした。

 重兼は、逆にそこで少しだけ身を乗り出した。やはり、ただ寒いだけではなかったのだと分かったからである。


「館だけならまだよい」


 惟種は言った。


「だが、文官の詰所も、鍛冶場も、番の者の控えも皆寒い。冬になれば手が鈍る」


 重兼は、そこでようやく若君がただ愚痴をこぼしているのではないと悟った。


「何か、お考えにございますか」


「うむ」


 惟種は頷いた。


「薪と炭だけで回しておるから、足りぬ」


 親英が腕を組んだ。


「そこで、若君はまた何か妙なものをお考えになったので」


「妙ではないぞ」


「たいてい皆、そのように仰せになります」


 惟種はそれを受け流し、平らに言った。


「黒い石を探す」


 親英は、そこで眉を動かした。


「……黒い石、と申されますと」


「燃やせば臭う石だ」


 親英の顔に、思い当たる色が浮いた。


「ああ……筑後の方で、たまに聞きますな。臭うて煙も悪く、薪にもならぬ厄介な石、と」


「それだ!」


 親英が、呆れ半分で言う。


「まさか、それを燃やそうと」


「燃やす」


「やはり、訳が分からぬ」


 重兼は、そこで親英ほど露骨には言わぬまでも、まさしく同じ気持ちで惟種を見ていた。


「若君、それは……ほんに使えるので」


「使える」


 惟種は言い切った。


「いや、使えるようにする」


 親英は、とうとう小さく息を吐いた。


「また始まった、という顔をしておるな」


 惟種が言うと、親英は隠しもせず答えた。


「しております」


 重兼は思わずそちらを見たが、親英は構わず続けた。


「若君が“使える”と仰せになるものは、たいてい最初は誰にも分かりませぬ。されど、後になると形になっておる。分かってはおりますが、それでも訳が分からぬことに変わりはございませぬ」


 惟種は、そこでほんの少しだけ口元を動かした。


「それでよい」


 重兼は、二人のやり取りを見ながら、ようやく少し力を抜いた。

 何が始まるのかはまだ分からぬ。

 だが少なくとも、若君の気まぐれではなく、ちゃんと次の手として口にしていることだけは分かった。


「親英」


「は」


「筑後筋、大牟田の方角まで含め、臭う黒石の出るところを探らせてくれ」


「露頭を見よ、と」


「そうだ。村人どもが厄介がる石ほどよい」


 親英は、その言葉にまたひとつ眉を動かした。


「嫌われるものを探せ、という命は、ふつうは聞きませぬな」


「だからお前を呼んだ」


「それは光栄にございます」


 親英の声は、半ば本気で、半ば呆れていた。


「まずは見つける。集める。燃やす。どれほど熱が出るかを見る」


 惟種は続ける。


「館で試す。文官詰所でも試す。鍛冶場でも試す。民へすぐに回すには、まだ早い」


 親英は、そこでようやく完全に仕事の顔になった。


「承知致しました。では、地を知る者、掘る者、担ぐ者をまず揃えます」


「鍛冶の者も一人二人借りたい」


「火を見る者にございますな」


「うむ」


 重兼は、そのやり取りを聞きながら静かに思っていた。


 寒い。

 その一言から始まって、若君はもう次の火を変えようとしている。

 やはりこの人は、ただ寒さに文句を言うためだけに人を呼びつけるような人ではなかった。


 もっとも、それがどう形になるのかまでは、なお重兼にも半ば見えてはおらぬのだが。

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