表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
火の山の若君は、未来を夢に見る ~阿蘇家嫡流の若君、名臣甲斐宗運と乱世を切り拓く~  作者: アトラス


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

94/113

第九十五話 寄って来る家

天文十七年(一五四八年)十月。


秋はようやく山の気配を変え始めていた。朝の空気にはまだ夏の名残がある。だが、日が昇る前のわずかなひととき、肌に触れる風には、たしかに冷えが混じり始めていた。


館の一間にあるのは、惟豊、宗運、惟種の三人だけである。


余計な者は入れていない。


入れるほどの話ではないからではない。むしろ逆であった。


こういう話ほど、まず骨だけを定めねばならぬ。言葉が広がれば腹のうちまで軽くなる。軽くなれば、家として返すべき言葉の重みも薄れる。ゆえに、最初は三人でよい。


宗運が一通の書を机の上へ置いた。


「相良よりにございます」


惟豊は何も言わず、それを見た。

惟種もまた、書そのものではなく、宗運の顔色を見ていた。


「どうだ」


惟豊が低く問う。


「思うておった通りにございます」


宗運は答えた。


「相良は、こちらの腹を探りに来ました」


その一言で、座の空気はすぐに定まった。


惟種は胸のうちで小さく頷いた。

相良は前へ出られぬ。

有馬に乗れば阿蘇がある。

阿蘇へ兵を向ければ、今度は島津が怖い。

しかも、阿蘇のやり方を真似てみても、思うようには国の内が回らぬ。


ならば、残る道は多くない。


「臣従か」


惟豊が言う。


「あるいは従属、と申したいのでございましょう」


宗運は答えた。


「いきなり膝を折るとは申しておりませぬ。されど、名和同様の扱いが得られるなら、阿蘇の内へ入るのもまた一つの道、という含みにございます」


惟豊の目が、わずかに細くなる。


「上手いな」


「はい」


「助けを乞うてはおらぬ。あくまで、生き残るために自ら条件を探りに来ておる」


「そのようにございます」


惟種が、そこで静かに言った。


「有馬には乗れぬと見たのでしょう」


宗運は頷く。


「島津もまた、怖いのでございましょう」


「うむ」


「そして、阿蘇式を真似るだけでは足りぬことも、ようやく骨身にしみた」


惟豊は、その言葉を黙って聞いていた。


相良の苦しさは見えていた。

阿蘇のやり方をなぞろうとしても、形だけでは回らぬ。田の見方、税の流し方、兵の締め方――そのどれもが、人と蔵と道まで揃って、ようやく働く。相良はいま、そこを思い知らされておるのであろう。


「つまり」


惟豊が言った。


「外で怯えておるより、中へ入った方がよいと見たのだな」


「はい」


宗運は答える。


「阿蘇の内へ入り、領地を安堵され、しかるべき地位を得た方が、よほど家のためと見たのでございましょう」


惟種は、そこで初めて少しだけ口元を動かした。


「聡いな」


その一言は、褒めているようにも、冷たく量っているようにも聞こえた。


「相良らしい、とも申せますな」


宗運が言う。


「無駄に熱へ乗らず、最後は家を残す方へ動く」


「熱で国は持たぬ」


惟豊が低く言った。


その通りであった。


戦えば名は立つ。

だが、名が立つことと家が残ることは同じではない。多くは、むしろ逆である。家を残すとは、たいていもっと苦く、もっと理に寄った決め方を要する。


     *


しばし三人は黙っていた。


相良が来ること自体には、もう驚きはなかった。

驚くべきは、相良がどのような顔で来たか、である。泣きつくのではない。膝を擦り寄せるのでもない。あくまで、自分の家を残すために条件を見に来る。その顔で来たことは、厄介でもあり、同時に使いやすくもあった。


宗運が、やがて言った。


「受けぬという手は、ございませぬな」


「ない」


惟豊が即座に言った。


惟種もまた、何も異を唱えなかった。


相良を外へ置いておけば、有馬にも島津にも揺らされ続ける。いずれどちらかへ引かれ、こちらの南西を騒がせる火種となる。だが中へ入れれば、それはそのまま阿蘇の緩衝となる。何より、相良という家が自ら頭を低くして来るなら、今ここで受けぬのは阿蘇にとって損でしかない。


「相良は、使える」


惟種が静かに言った。


惟豊が目を向ける。


「地がある。人がある。しかも、島津を知っている」


「うむ」


「阿蘇の内へ入れれば、南西の壁になります」


宗運が、それを受けた。


「名和の時と同じく、先に頭を下げる者は立てるべきにございますな」


「そうだ」


惟豊は答える。


「遅れて屈した者より、先に寄って来た者の方が重い。それでなければ、誰も早う来ぬ」


その理は明快であった。


勝った家が外の者を抱える時、ただ呑み込むだけでは足りぬ。

「早く来た方が得だ」と見せねば、皆ぎりぎりまで様子を見る。そうなれば、そのたびに余計な戦をすることになる。


「ならば」


宗運が言った。


「領地は安堵、にございますか」


「うむ」


惟豊は頷いた。


「軽々しくは削らぬ」


惟種が、そこで一つ差した。


「ただし、そのまま好きにさせるのでは意味がありませぬ」


宗運は、すぐにその先を取る。


「阿蘇の法に従わせる。田も、税も、兵も、以後はこちらの定めで見ます」


「然り」


惟豊が言った。


「地は安堵する。だが、地の上に乗る理は阿蘇のものになる」


座は、そこで一段締まった。


領地を安堵する。

それは温情に見える。

だが実のところ、温情だけではない。地をそのまま残すからこそ、その上へ阿蘇の仕組みを流し込める。削って荒らせば、そのぶん余計な兵も米も要る。残して従わせた方が、よほど早く国の骨に組み込める。


「地位はどうする」


惟豊が問うた。


「相応に立てるべきです」


宗運は答える。


「でなければ、わざわざ来た意味が相手にも立ちませぬ」


「うむ」


「されど」


宗運はそこで言葉を切った。


「さすがに、こちらの中枢へそのまま並べるわけにも参りませぬ」


惟豊は、宗運を見た。

宗運も、目を逸らさぬ。


ここは、最初に線を引いておかねばならぬところであった。


「無論だ」


惟豊が重く言う。


「阿蘇直臣と同じ位置へは置かぬ」


宗運は黙って頭を下げた。


惟種もまた、そこに異を唱える気はない。

相良は抱える。

だが、抱えることと腹のど真ん中へ置くことは違う。


宗運が言う。


「有力衆として立て、軍役を負わせ、境目に使う」


「うむ」


「家は残す。領地も残す。されど、これよりは阿蘇の内にある家として働いてもらう」


惟豊は、その言葉を一つずつ置くように聞いていた。


まさに、それであった。

相良に必要なのは、名を潰されぬこと。

阿蘇に必要なのは、使える家を使えるまま抱えること。

この二つが噛み合うなら、受けぬ理由はどこにもない。


惟種が、そこで静かに言った。


「相良は、これで安心するでしょう」


「何にだ」


惟豊が問う。


「島津に食われる前に、阿蘇の傘へ入れることに」


惟種は答えた。


「それだけではありませぬ。外から阿蘇式を盗んで苦しむより、中へ入って仕組みごと授かる方が早いと、もう分かっているのでしょう」


宗運が、それに頷く。


「相良もまた、手を打ってはおったのでございましょうな」


「うむ」


「だが、真似るだけでは足らなんだ」


惟種は言った。


「だから来た」


     *


再び、しばし黙りが落ちた。


もう答えは見えている。

あとは、それを家の言葉にどう整えるかだけであった。


惟豊が、机の上の書へ目を落とした。


「返しは、こうだ」


その声は、もう当主の声であった。


「相良が誠をもって阿蘇へ従うというなら、阿蘇はこれを受ける」


宗運が、すぐに文の骨を頭の中で組み始める。


「相良家の家名は残す」


「うむ」


「領地も安堵する」


「うむ」


「ただし、以後は阿蘇の内にある家として、法と軍役に従う」


「それでよい」


惟種は、そのやり取りを黙って聞いていた。


当主が言う。

宗運が形にする。

自分は、その理の芯だけ見ておればよい。


「地位は」


宗運が問う。


「それなりに立てる」


惟豊は答えた。


「外様の有力衆として遇する。戦では働いてもらう。だが、中枢は別だ」


「承知致しました」


宗運が頭を下げる。


惟種は、そこで一言だけ差した。


「相良には、その線が一番よいでしょう」


惟豊が目を向ける。


「家も残る。地も残る。立場も立つ。しかも阿蘇の内で働ける」


「うむ」


「中へ入る理としては、十分です」


惟豊は、それに短く頷いた。


「ならばそのように返そう」


それだけで、この話はほぼ決した。


     *


宗運が文案をまとめるため、筆を取りに少し身を引いたのち、部屋には惟豊と惟種だけが残った。


外では、風が少し鳴っていた。

夏ほどではない。

だが冬には遠い。


「来ると思うておったか」


惟豊が低く問うた。


「はい」


惟種は答える。


「相良は立地が悪すぎます」


「島津と阿蘇、か」


「うむ」


「そして、有馬にも乗れぬ」


惟豊は、わずかに目を細めた。


「相良にとって、最も楽な道ではあるまいな」


「楽ではありませぬ」


惟種は言った。


「だが、最も生き残りやすい道ではあります」


惟豊は、そこで何も返さなかった。

ただ、その通りだとだけ思っていた。


国というものは、しばしば大きな戦で決まるように見える。

だが実のところ、多くはこうした場で決まる。どの家がどの傘へ入るか。どこで頭を下げ、どこで名を残すか。その積み重ねが、やがて戦の前から大勢を決めてしまう。


「相良が入れば」


惟豊が言った。


「南西はだいぶ静まります」


「はい」


「有馬は、嫌がろう」


「ひどく」


惟種は答えた。


その時、ほんのわずかに口元が緩んだ。

有馬が包囲の形を作ろうとしておる、その裏で相良が阿蘇へ寄って来る。相手にしてみれば、思うように事が運ばぬどころではあるまい。


「ならばなおさら、受けるべきだな」


惟豊が言った。


「はい」


     *


やがて宗運が戻り、文の骨を口に出して確認した。


相良が誠をもって阿蘇へ従うというなら、これを受けること。

相良家の家名と領地は安堵すること。

以後は阿蘇の法と軍役に従い、阿蘇の内の有力衆として働くこと。

その働きに応じて、しかるべく立場を立てること。


惟豊は、それを最後まで聞き、ただ一言言った。


「よい」


それで決まった。


宗運が頭を下げる。


「では、そのように」


文は書かれる。

使者は返る。

相良は、おそらくこの返しを待っていたのであろう。


惟種は、机の上の紙を見ていた。

ここに書かれるのは、ただの返書ではない。相良という家が、どの大きな流れへ身を置くかを決める文でもある。


戦わずして、家が一つ入って来る。

それは勝ちの一つであった。しかも、悪くない勝ちである。

地を荒らさず、人を殺さず、それでいて相手の家をこちらの骨へ組み込む。こういう勝ちは、槍で奪う勝ちより、のちに効く。


秋の風は、ようやく少し冷たくなり始めていた。

だが阿蘇の家は、その冷たさの中でもなお、外から寄って来る家を一つずつ呑み込みながら、大きくなり続けていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

同作者の別連載
『異世界エンゲージ ~毎日のパック開封でカード使いは帰還を目指す~』
こちらも覗いていただけると嬉しいです。

― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ