第九十四話 寄せ集める手
有馬晴純は、相良より返ってきた書を、二度読まなかった。
一度目で足りたからである。
断ってはおらぬ。
だが、乗るとも言っておらぬ。
言葉は丁寧で、筋も崩れてはいない。されど、そこにあるのは決意ではなく、時を稼ぐ気配であった。
晴純は、文を畳の上へ静かに置いた。
「……やはり、か」
誰へ向けたわけでもない。
ただ、その一言にだけ、抑えた苛立ちが滲んでいた。
相良が苦しいことは分かる。
阿蘇と島津に挟まれ、どちらへ兵を向けても、もう片方へ背を見せる。まして近ごろは、阿蘇のやり方を真似ようとして、内の田や税まで思うように回らぬと聞く。戦どころではない、というのも、理としては分からぬではない。
だが、それでも、と晴純は思う。
分かっていても、動かねばならぬ時はある。
阿蘇はもう、そういう相手であった。
肥前へ根を下ろした。
龍造寺を立て直した。
船を作った。
河口へ手を入れた。
そして海を見始めた。
陸の家が海へ手を伸ばすということの意味を、晴純ほどよく知る者は、この場にはそうおるまい。海に出るということは、荷と兵と火を、今までとは別の理で動かし始めるということでもある。そうなれば、有馬の息の根を支えてきた海筋そのものが、いずれは阿蘇の喉へ呑まれる。
ゆえに相良が煮え切らぬからといって、こちらまで鈍るわけにはいかなかった。
「よい」
晴純は顔を上げた。
「ならば、こちらで形を作るまでよ」
*
そのために集められたのは、大村、西郷、そして松浦方の者であった。
館の一間は広く取ってあったが、そこで交わされる空気は少しも広くなかった。皆、阿蘇のことを知っている。いや、知っているからこそ、軽々しく口を開かぬのである。
まず座にあるのは、大村純忠。
まだ若い。
晴純の子にあたる。
若いが、もはや若いだけでは済まぬ顔をしていた。
本来ならば、家の表へ出るにはなお幾分か時を置いてもよかったのかもしれぬ。されど、阿蘇の脅威があまりにも早く顕れた。肥前の北と西とが、思っていたよりずっと早く揺れ始めた。そのため大村では、旧い遅さのまま家を回しておれなくなり、純忠は史実よりも早く、すでに当主として座ることになっていた。若い肩には重すぎる時勢である。だが、その重さが何に由るものかを、純忠はよく知っていた。
阿蘇である。
相良とは違う。
島津と挟まれてではない。
もっと直接に、もっと早く、肥前そのものの形が変わり始めている。その圧を、純忠は父である晴純と同じく見ていた。
西郷純久は、その少し脇にある。
有馬の側に近く、晴純の腹の内もよく知る立場である。
松浦方から来ているのは、当主その人ではない。勘解由と名乗る男であった。海の衆らしい顔つきで、礼は尽くすが、礼の奥で常に利を量っている目をしている。
晴純は、座を見渡した。
「相良には書をやった」
誰も驚かぬ。
「だが、返りは鈍い」
純久が低く言った。
「乗らなんだので」
「断ってはおらぬ。されど、乗る腹でもない」
晴純は答える。
「要するに、あれは決め切れぬのだ。阿蘇へ兵を向ければ島津が怖い。島津へ寄れば阿蘇がある。いまの相良は、その間で立ち尽くしておる」
勘解由が、そこで低く言った。
「それはそれで、理はございましょうな」
晴純はその方を見た。
「理か」
「相良の地を思えば」
勘解由は続ける。
「阿蘇を打ったところで、その疲れたところへ南から来られれば苦しかろう、と」
「理は分かる」
晴純は言った。
「だが、理が分かったところで、阿蘇が待ってくれるわけでもあるまい」
その一言で、座は少し静まった。
まさにその通りだからである。
晴純は、そこであらためて皆を見た。
「相良が鈍るなら、それでよい」
言い切った。
「我らが動けば足りる」
純忠は、その言葉にわずかに頷いた。
驚きはない。
晴純がそう言うであろうことも、阿蘇を前にして相良の煮え切らなさに苛立っておることも、よく分かっていたからである。
「阿蘇は、もはや一つの家として見てはならぬ」
晴純は続けた。
「肥前の一角を押さえた程度と思えば、足をすくわれる。あれはすでに、肥後・筑後・肥前を一つの息で繋ぎ始めておる」
純久が、低く頷いた。
「龍造寺も立て直しましたな」
「うむ」
「少弐も滅びました」
「うむ」
「船まで出しました」
そこで晴純の目が、わずかに細くなる。
あの有明海の上の一艘が、なお胸に残っていた。
まだ粗い。
まだ数も無い。
だが、一艘で足りぬ足りぬの話ではない。あれを作ろうとし、しかもそれを当然のように進めている、その理こそが恐ろしいのである。
「だからこそ、いま動く」
晴純は言った。
「来年の夏までに、必ずだ」
その言葉は、静かであったが、座の真ん中へ深く落ちた。
そこで純忠が口を開いた。
「来年の夏までに、でございますか」
若い声ではあったが、その問いは晴純を疑うものではない。むしろ、阿蘇の脅威を同じく見た上で、その時までに何を整えるべきかを確かめる響きであった。
「兵と船、いずれを先に厚くなさるおつもりです」
晴純は、その問いにわずかに目を細めた。
よい問いであった。
若いが、熱に乗るだけではない。阿蘇の何が脅威かをきちんと見たうえで問うている。
「両方だ」
晴純は即座に答えた。
「だが先に目を配るべきは海よ。阿蘇は陸だけでなく、海へも手を伸ばしておる」
純忠は静かに頷いた。
「河口の普請と新船にございますな」
「そうだ」
「ならば大村としても、城ばかりでなく港の手当も急がねばなりませぬ」
その言葉に、純久が一度だけ純忠を見た。
若いが、こちらの腹をよく受けている。そういう目である。
「叩くとして、どこを」
純忠は続けた。
「阿蘇そのものへ一息に向かうのか。あるいは、まず肥前の手を揺らすのか」
晴純は、その問いを待っていたように答えた。
「龍造寺再建地だ」
純久が頷く。
「やはり、そこか」
「阿蘇が肥前へ手を差し入れている形の、最も見えやすいところだ」
晴純は答える。
「いまの阿蘇は、肥前を己が骨に変えようとしておる。ならば、そこを揺らす。再び地を騒がせ、兵を引きつけ、筑後や河口へ余分な手を割かせる」
純忠は黙って聞いていた。
若い当主である。
だが、阿蘇が脅威である以上、ただ血気に任せてぶつかればよい相手でないことも分かっていた。だからこそ、こうして父の見立てを受け、その先の段を確かめているのである。
「阿蘇そのものを一息に折るのではなく」
純忠が言う。
「まず、肥前で根を揺らすと」
「そうだ」
晴純は答えた。
「一息で呑める相手ではない。だからこそ、息を乱させる」
そこへ西郷純久が言った。
「ならば、来年の夏までに要るのは、兵ばかりではありませぬな」
「船もだ」
晴純は頷く。
「兵糧も、道も、火も要る」
純久は、そこであらためて座を見渡した。
「大村殿は、いかがにございます」
問われた純忠は、すぐに答えた。
「阿蘇をこのまま大きくさせてはならぬ、ということに異はございませぬ」
その言葉に迷いはなかった。
阿蘇の脅威は、すでに純忠にとっても他人事ではない。むしろその脅威が早く顕れたがゆえに、自らもまた史実より早く家を継ぐことになったのである。
「されど」
純忠は続けた。
「来年の夏までに動くとして、それまでに各家がどこまで本気で備えるか、それを違えれば、こちらが先に薄くなりましょう」
晴純は、わずかに口元を動かした。
若い。
だが、若いなりにこちらの危機感をよく受けている。もとより血の近い者である。阿蘇の早すぎる伸びが、大村の座をも早く重くしたことを思えば、あれもまた他人事では済まぬのであろう。
「だから集めた」
晴純は答えた。
「今日ここで、腹だけは合わせておく」
勘解由が、そこで低く笑うでもなく言った。
「腹を合わせる、にございますか」
「そうだ」
「松浦は利で動きます」
勘解由は言う。
「海を脅かす者は嫌う。されど、誰かのために真っ先に深手を負うのも好まぬ」
「分かっておる」
晴純は答えた。
「だからこそ、利をやる」
座がわずかに静まる。
「阿蘇を削れば、次に海へ手を伸ばす速さも鈍る。肥前の地が揺れれば、松浦の海へまで手を伸ばす余裕も薄くなる。それで足りるか」
勘解由は、すぐには答えなかった。
松浦の海にとって、それは確かに利である。
有馬のためではない。
松浦の海のためだ。
そう言い換えられるところまで、晴純はちゃんと見ている。
「……悪くございませぬな」
やがてそう言った。
晴純はそれで十分であった。
*
議は、そののちも続いた。
兵糧の積み方。
どこまでを表向きの備えとし、どこからを隠すか。
船の繋ぎ場。
伝令の筋。
来年夏までに、各々が何を整えるべきか。
誰も「連合」などという立派な言葉は口にしなかった。
だが、実のところ話しているのは、まさにそれであった。
有馬が音頭を取り、
大村がその危機感を受けて支え、
西郷が手足の動かし方を考え、
松浦方が利を量りながらも席を立たぬ。
形はまだ緩い。
熱も一つではない。
それでも、阿蘇をこのまま大きくさせてはならぬ、という一点だけは、皆のあいだに共通していた。
晴純は、そのことだけで十分だと思った。
最初から、一枚岩である必要はない。
まずは同じ方を見る。
それだけで、人は案外動く。
「来年の夏までに動く」
最後に晴純は、もう一度言った。
「それまでに各々、兵を締めよ。船を見よ。兵糧を積め。遅れた者から呑まれると思え」
誰も異を唱えなかった。
唱えぬということは、同意の証とは限らぬ。
だが少なくとも、この場で否む者はおらぬということでもある。
それで足りた。
*
皆が引いたのち、晴純は一人、座に残った。
相良は鈍い。
あの家は、まだ決め切れぬ。
島津と阿蘇のあいだで、なお揺れておる。
ならばよい、と晴純は思った。
頼れぬものをあてにして、こちらまで鈍る必要はない。
相良が動かぬなら、有馬が動かすまでである。
大村は若い。
だが、若いなりにこちらの危機感はよく受けていた。
西郷は手堅い。
松浦方も、利がある限りは席を立つまい。
形はまだ緩い。
されど、緩いからといって無いわけではない。
晴純は、あの一艘の船を思い出した。
有明海の上にいた、まだ粗く、だが粗いままでは終わらぬ顔をした船である。
あれを放っておけば、次に来るのは一艘では済まぬ。
十か、二十か。
さらにその後ろには、兵も、火も、港も、阿蘇という家そのものの太さがある。
ゆえに、こちらが先に打たねばならぬ。
「来年の夏までだ」
晴純は、誰に言うでもなく呟いた。
秋の気配は、まだ薄い。
だが、その薄い秋の下で、有馬はもう来年の火を見ていた。
阿蘇が整える前に、こちらが整える。
阿蘇が海と肥前を本当に骨へ変える前に、その骨へひびを入れる。
それが出来ねば、次に削られるのは自分たちである。
晴純は、ゆっくりと立ち上がった。
戦は、まだ始まっていない。
だが理はもう動いている。
そして有馬は、その理を来年の夏までに、必ず刃へ変えるつもりでいた。




