第九十三話 挟まる家
天文十七年(一五四八年)九月。
秋はまだ浅く、球磨の山々にはなお夏の熱が残っていた。だが、その熱とは裏腹に、相良の館へ流れ込む空気は、日に日に重くなっていた。田はある。人もまだおる。城も立っている。されど、それらを束ねるべき家の胸の内に、どうにも拭い切れぬ詰まりがあった。
この年、相良は相良なりに手を打っていた。
阿蘇のやり方を真似たのである。
田の見方を改め、税の取り方を改め、村の持たせ方を改めようとした。あちらで回っていると聞く理を、こちらでも使えぬかと試した。何もせずに手をこまねいていたわけではない。むしろ逆であった。遅れまいとして、必死で追い縋っていたのである。
だが、追うことと、届くことは違う。
阿蘇では回るものが、相良ではどこかで滞る。帳を付ければ人が足らぬ。田を見ようとすれば、それを通す者が足らぬ。税を改めれば、今度は村の持ちが悪くなる。形だけを似せても、その下にある蔵も、人の動かし方も、兵の締め方も、皆違っていた。
阿蘇は、あれを一つ一つ積んできた家である。
相良はようやく、その事実を痛いほど知り始めていた。
その日の評定の座には、相良晴広、上村頼興、上村頼孝、深水長智、赤池長任が並んでいた。
座の中央には、開かれた一通の書状がある。
有馬より届いた書であった。
阿蘇を今のうちに打つべし。
肥前を呑み、海へ手を伸ばし、諸家の首へ縄を掛けようとしている家を、このまま大きくさせてはならぬ。
力を合わせ、いまのうちに削るべし。
おおよそ、そのようなことが書いてあった。
赤池長任が、最初に口を開いた。
「理はございましょうな」
若くして前へ出る気の強さが、そのまま声に出ている。
「阿蘇は今や、肥後だけの家ではありませぬ。筑後を取り、肥前を押さえ、海へまで手を出し始めております。このまま手をこまねいておれば、いずれこちらも呑まれましょう」
晴広は、すぐには答えなかった。
長任の言うことは、間違いではない。間違いではないが、正しければそのまま動けるほど、国持ちの理は軽くもない。
代わりに、頼孝が口を継いだ。
「少なくとも、いまのまま膝を抱えておるよりはましにございます」
兄である晴広を見る目には、どこか焦れが混じっていた。
「阿蘇が恐ろしいことは、誰しも分かっておりましょう。されど恐ろしいからといって、ただ黙って見ておれば、最後は飲まれるだけです。いま有馬が声を掛けてきておるのも、皆が同じようにそれを感じておるからにございます」
晴広はなお黙って聞いていた。
黙って聞きながら、胸の内では別の計りをしている。
阿蘇は恐ろしい。
それはもはや疑いようがない。
だが、では有馬と手を結んで阿蘇を打てば、この家は助かるのか。そこへ思いを及ぼした時、晴広の胸の内には、別の重さが立つのであった。
深水長智が、静かに言った。
「戦は出来ましょう」
その一言で、座の空気が少し変わる。
「出来ぬと申すつもりはございませぬ。兵を集め、槍を持たせ、境を越えることそのものは、出来ましょう」
長智は、そこで声を少し落とした。
「されど、その先にございます」
赤池長任が、眉を動かす。
「何が申したい」
「勝ったとして、でございます」
長智は答えた。
「阿蘇を削ることが出来たとして、そのあと我らが無傷で済むとお思いか」
「無傷で済む戦などあるものか」
「ございませぬ。ゆえに申しております」
長智の声は平らであった。平らであるぶんだけ、そこに載る理が逃げぬ。
「いま我らは、阿蘇式を取り入れようとしております。田も税も、村の持たせ方も、出来る限り手を入れております。されど、まだうまく回ってはおりませぬ」
その一言には、実務を預かる者の苦さがあった。
「阿蘇では回るものが、こちらでは滞る。人が足らぬ。蔵が足らぬ。仕組みを回すだけの手も足らぬ。そこへ兵を大きく動かせば、国の内が先に痩せます」
頼孝が言った。
「では何もせぬのか」
「そうは申しておりませぬ」
「有馬の誘いを蹴れば、今度は阿蘇がこちらをどう見る」
「乗れば、島津がどう見る」
長智は、そこで初めて少しだけ語気を強めた。
頼孝が口をつぐむ。
「我らは阿蘇と島津のあいだにおります。阿蘇へ兵を向ければ、その隙に島津が来るやもしれませぬ。島津へ寄れば、今度は阿蘇がこちらを見ましょう。いまの相良に、二つを同時に受ける余力はございませぬ」
その言葉は、あまりにその通りであった。
相良の苦しさは、まさにそこにある。
阿蘇だけを見ておればよい家ではない。
島津だけを見ておればよい家でもない。
片方へ兵を向けることが、そのままもう片方へ背を見せることになる。
赤池長任も、さすがにそこは黙った。
上村頼興が、ようやく口を開いた。
「長智の申すことは重い」
年を経た声である。
だが、その重さは年だけの重さではない。家を持たせるために、何を捨て、何を残すかを何度も量ってきた者の声であった。
「有馬の書は、もっともらしく見える」
頼興は言う。
「阿蘇をいま削らねば、いずれ呑まれる――それは確かにそうやもしれぬ」
晴広が、そこで初めて父の方へ目を向けた。
「されど」
頼興は続ける。
「阿蘇を削るために兵を出し、その疲れたところへ島津が来ればどうなる」
誰も答えない。
「阿蘇を削っても、我らが痩せれば、結局は南に食われるだけよ」
その一言で、座に流れていた熱が少し冷えた。
長任も、頼孝も、反論が出来ぬ。
「では、父上」
晴広が低く問う。
「どう致すべきとお考えか」
頼興は、すぐには答えなかった。
老いた者の間というのは、しばしば長い。
だがその長さは、怯えではない。答えの重さを知っているからこそ、軽々しく出さぬのである。
「阿蘇は恐ろしい」
やがて頼興は言った。
「それは間違いない。いまのあの家は、ただ強いだけではない。恐ろしい速さで大きくなっておる」
晴広も、それは認めざるを得なかった。
田。
税。
兵。
船。
港。
人の受け入れ方。
どれ一つ取っても、阿蘇はもう昔の肥後の一家ではない。
「されど」
頼興の声が、さらに低くなる。
「恐ろしいだけの家ではない」
長智が、わずかに目を伏せた。
その先を、彼もまた同じく考えていたからである。
「名和は、どうなった」
頼興は言った。
「先に頭を下げ、地を安堵された」
頼孝がわずかに顔をしかめる。
「それは、名和は名和にございましょう」
「そうだ」
頼興はすぐに認めた。
「だが、理は同じよ」
その一言は重かった。
「いまの阿蘇は、伸びる家にございます」
長智が、そこへ静かに言葉を添えた。
「我らもあちらのやり方を取り入れようとは致しました。されど、形だけを写しても、こちらではうまく回りませぬ。あちらは、仕組みごと持っております」
晴広は、深く息を吸った。
それは、このところずっと胸の内に引っかかっていたことでもある。
阿蘇式を真似た。
だが真似ただけでは足りなかった。
田の持たせ方も、税の流し方も、兵の締め方も、結局はその下にある仕組みが違う。外から盗んでも、思うようには動かぬ。
「このまま半端に真似て苦しむよりは」
長智が言った。
「臣従して、その仕組みごと取り込む方が早うございます」
その一言で、頼孝が顔を上げた。
「臣従、と申したか」
「はい」
「相良が、阿蘇へか」
「家を残すならば」
長智の声に揺れはなかった。
「それもまた一つの道にございます」
頼孝は言葉を失ったようであった。
長任もまた、すぐには口を開けぬ。
阿蘇を恐れることと、阿蘇へ頭を下げることは違う。
しかも、臣従という言葉は、戦うよりもなお、人の胸を刺すことがある。
だが頼興は、そこでさらに踏み込んだ。
「阿蘇の中へ入り、地位を固めるのだ」
晴広が、ゆっくりと顔を上げる。
「外で怯えて削られるより、中へ入りて地を安堵され、立場を立てる方が、よほど家のためよ」
老いた声は、なお平らであった。
だが平らであるぶんだけ、その理は重い。
「阿蘇は恐ろしい。されど、いまやあの家の外に立ち続けることの方が、もっと恐ろしい」
長智も頷いた。
「名和のように、先に頭を下げるなら、地は残りましょう」
「遅れて屈すれば」
頼興が続ける。
「立場は下がる。家もまた、いまのままで残るとは限らぬ」
晴広は、しばし黙っていた。
有馬の書が脳裏をよぎる。
共に阿蘇を打て。
今のうちに削れ。
それはたしかに、武門の理としては美しく見える。
だが、家を持たせる理としてはどうか。
相良は、いま板挟みである。
阿蘇を打てば、島津が怖い。
島津へ寄れば、阿蘇がある。
そして、そのどちらと比べても、いまの相良は、田も税も思うように立て切れてはおらぬ。
ここで戦へ出ることは、ただ敵と戦うことではない。
家の内を削ってから、さらに外でも削られるということでもあった。
「……名和のように、か」
晴広は、ようやくそう呟いた。
「はい」
頼興が答える。
「名和のように、地を安堵される道があるならば、それもまた相良を残す道にございましょう」
頼孝が低く言った。
「恥にございます」
その声には、なお熱が残っていた。
「阿蘇へ膝を折るなど、相良の恥」
頼興は、その方を見た。
「恥で家は残らぬ」
短い一言だった。
「残らぬ家の面目など、あとに何が残る」
頼孝は、口をつぐんだ。
言い返せぬからではない。言い返せば、自分でも胸のどこかで分かっている現実を、なおさら突きつけられるからであった。
赤池長任が、そこでようやく低く言った。
「では、我らは阿蘇の中へ入るのですか」
晴広は、その問いを受けた。
これが最後の問いであった。
戦うか、待つか。
あるいは、入るか。
「まだ決めたとは言わぬ」
晴広は、ゆっくりと言った。
その声は若い。
だが、その若さの中に、当主としての重みがようやく落ち始めていた。
「されど」
皆が、その先を待つ。
「阿蘇へ使者を立てよ」
長智が、わずかに目を上げた。
「名和同様の安堵が得られるか、まずは探る」
有馬の書へは、すぐには返さぬ。
返せば、どちらかへ腹を決めたことになる。
いまの相良には、それは早い。
「頭を下げるかどうかは、阿蘇の返しを見てから決める」
晴広は言った。
言い切ったところで、座にはしばし沈黙が落ちた。
誰もそれを軽い言葉とは受け取らなかった。
それは、もはや戦うか否かの話だけではない。相良という家が、この先どの大きな傘の下で生き延びるか、その道を探り始めるということであった。
長智が、静かに頭を下げる。
「承知致しました」
頼興もまた、黙って頷いた。
頼孝は、まだ顔を上げなかった。
長任も、何も言わぬ。
だが二人もまた、ここでなお「では戦う」と強く押し切れぬことは、よく分かっていた。
*
評定が終わったのち、晴広は一人、廊へ出た。
外には秋の気配がわずかにある。
だが、それは涼しさというより、夏の勢いが少しずつ衰え始めたことを知らせる気配に過ぎなかった。
相良は、いまそのようなところにいるのやもしれぬ、と晴広は思った。
勢いだけでは持たぬ。
意地だけでも持たぬ。
家を残すには、時に恥と見えるものまで飲み下さねばならぬ。
阿蘇は恐ろしい。
だが、その恐ろしさは、外から見ているだけではやがてこちらを削る。ならば、中へ入って、その大きくなりゆく力の中で立つ場所を得た方が、なおましなのかもしれぬ。
晴広は、遠くを見た。
有馬の書はまだ座の中にある。
だが相良の道は、もはや有馬の思うようなまっすぐなものではなかった。
まずは阿蘇へ使者を立てる。
腹を探る。
地を安堵される道があるかを見る。
その先で、頭を下げるかどうかを決める。
苦い。
だが、家を残すというのは、たいていそういうことであった。
秋の風が、ようやく一筋だけ廊を抜けた。
その冷たさはまだ薄い。
されど相良の家は、その薄い冷たさの中で、戦うか否かではなく、生き残るためにどこへ寄るべきかを、とうとう決め始めていた。




