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第九話 若君、甘味を作る

 台所は、朝から湯気と匂いで満ちていた。


 煮える湯。

 刻まれる菜。

 焼かれる魚。

 味噌の香り。

 焦げた薪の匂い。


 **阿蘇あそ 惟種これたね**は、そこへ足を踏み入れた瞬間、思わず少しだけ目を細めた。


 前世でも台所に立つことはあった。

 だが、この時代のそれはまるで違う。火は露わで、鍋は重く、煙は天井近くに薄く溜まり、人の手が絶えず動いている。


 その忙しさの中で、台所方の女たちと下働きの男たちが、一斉に手を止めた。


「若君……?」


 驚きと困惑が、そのまま声になっていた。


 そりゃそうだ、と惟種は思う。

 病み上がりの五つの若君が、供回りを連れていきなり台所へ現れたのだ。


 その後ろには、供回りの三人――

 高森たかもり 惟房これふさ

 北里きたざと 政久まさひさ

 光永みつなが 惟清これきよ

 さらに、宗運側とのつなぎ役である 田代たしろ 宗傳そうでん も控えている。


 惟種は、台所の奥にいる年嵩の女を見た。

 年の頃は四十前後か。声をかけられずとも、この場を預かる者だと分かる顔をしている。


「そなたが台所預かりか」


 女はすぐに平伏した。


「は、はい。おそれながら、**志乃しの**にございます」


 惟種はうなずいた。


「志乃。少し台所を借りる」


 志乃は目を瞬いた。

 その反応は当然だった。


「お借りに、ございますか」


「うむ。甘いものを作る」


 沈黙が落ちた。


 北里政久が、横で口元を押さえている。笑いをこらえているのか、驚いているのか分からない。高森惟房はぴくりとも動かず、光永惟清だけが、すでに紙を取り出していた。宗傳はその全部を見ながら、口を挟まずにいる。


 最初に我に返ったのは志乃だった。


「若君、甘いもの、と申されますと……」


「飴のようなものだ」


「飴、にございますか」


「そうだ。米と麦を使う」


 そこまで言うと、志乃はさすがに困り顔になった。


「若君、飴となりますと、そう容易くは……」


「分かっておる。だから試すのだ」


 惟種は、台所の中を見回した。


 必要なものは、もう頭の中に並んでいる。

 いきなり完璧なものを作る必要はない。

 必要なのは、甘い汁が取れること。

 それが門前で売り物になりうると示せれば、十分だ。


(まずは成功を見せる)

(細かい詰めは、その後でいい)


「麦はあるな」


「は……ございます」


「米もある」


「はい」


「ならよい。まず少しだけ使う。全部は要らぬ」


 宗傳が、ここで初めて口を開いた。


「若君、これは養生のため、と申しておけばよろしゅうございますな」


 惟種は宗傳を見た。


 やはり分かっている。

 台所を押し切るにも、名目がいる。


「そうだ。まずは養生だ」


 それから少し間を置いて、言い足した。


「うまく行けば、売り物にもなる」


 志乃の顔つきが、そこで少しだけ変わった。

 台所預かりの人間は、食うことと蓄えることに敏い。養生だけではなく、売り物になると聞けば、話は別だ。


「……若君は、その作りようをご存じで?」


「夢で見た」


 もうこの言い方にも慣れてきた。

 夢で見た。

 嘘ではない。

 そして全部を説明する必要もない。


 志乃は怪訝そうだったが、笑い飛ばしはしなかった。台所の者たちもざわつきながら、若君が本気であることだけは感じ取っているようだった。


 惟種は、低い台に置かれた器と桶を指した。


「まずは麦だ。芽を出しかけたものを使う」


「芽麦、でございますか」


「そうだ。細かく砕く。汁を取る」


 前世の知識を、そのまま専門用語ではなく手順で落としていく。

 今の自分に必要なのはそれだ。


 志乃は、すぐに若い下働きへ指示を飛ばした。

 台所がまた動き出す。


 北里政久が、こっそり惟種へ顔を寄せた。


「若君、本当に甘くなるんですか」


「なる」


「麦と米で?」


「なる」


「不思議ですな」


「夢ではもっと不思議なものもあった」


 そう言うと、政久は素直に「へえ」と感心した。


 高森惟房は相変わらず無言だが、若君のそばを離れない。

 光永惟清は、惟種の言葉と台所の動きをせっせと書き留めている。


「光永」


「は」


「書くのはよいが、外へ漏らすな」


「承知しております」


「北里」


「はっ」


「笑うな」


「まだ笑ってません」


「いま笑いかけた」


「若君、よう見ておられますな」


 その軽口に、志乃がきっと睨んだ。

 政久はすぐに口をつぐむ。


 悪くない空気だった。

 台所の緊張が、少しだけほぐれている。


 麦を砕き、水に合わせ、火加減を見ながら待つ。

 惟種は、要所だけ口を出した。


「強すぎるな。煮立てすぎるな」

「そこで急ぐな」

「その汁は残せ」

「混ぜろ。底を焦がすな」


 台所方の女たちは最初、半信半疑だった。

 だが若君がただ思いつきで騒いでいるのではなく、ちゃんと順を見ていると分かると、少しずつ目の色が変わっていく。


 志乃が匙を使って、煮詰まり始めた汁をすくった。


「……若君」


「何だ」


「これ、は」


 匙先から、わずかにとろみのある汁が落ちる。


 志乃は恐る恐る舌に乗せた。

 一瞬、目が見開く。


「甘うございます」


 台所の空気が変わった。


 下働きの男が思わず前へ出る。

 北里政久が「ほんとか」と顔を寄せる。

 高森惟房でさえ、わずかに眉を動かした。


「どれ」


 惟種も少しだけ舐める。


 完璧ではない。

 前世で知る水飴ほど洗練はされていない。

 雑味もある。

 だが――


(甘い)


 それで十分だった。


(いける)


 惟種は内心で、ぐっと拳を握った。


 砂糖ではない。

 それでも、これは甘味だ。

 しかも台所で再現できた。


 志乃がもう一度、今度は少しはっきりした声で言う。


「若君……これは、本当に売り物になります」


 宗傳の目が、そこで明らかに変わった。


 実務の顔だ。

 若君の奇妙な試みを見ていた目ではなく、数と人手と口実を考える目になっている。


「まずは少量にて、若君の養生食として扱えますな」


 宗傳が言った。


「うむ」


「それで評判が良ければ、門前で少し」


「それもよい」


 志乃が口を挟む。


「子どもは喜びましょうし、薬に混ぜれば飲ませやすくもなりましょう」


 惟種はうなずいた。


「そうだ。神前にも出せる」


 志乃がますます感心した顔をした。

 台所預かりとしては、そこまで考えられていると反対しにくい。


「高森」


「は」


「これは守れ」


 惟房は真顔のままうなずいた。


「は」


「北里」


「はっ」


「門前で何が売れて、何が売れぬか、あとで聞いてこい」


「承知しました」


「光永」


「は」


「今日の手順をまとめろ。台所方の言葉も書け」


「承知いたしました」


 宗傳は、惟種を見た。


「若君、宗運様へは」


「伝えよ」


 惟種は少し考え、それから言葉を足した。


「だが、まずは“若君の養生に用いる甘味”と伝えろ」


「は」


「そのうえで、“門前に出せる見込みあり”とも」


 宗傳は深く頭を下げた。


「承知いたしました」


 ここで、志乃が少し躊躇いがちに口を開いた。


「若君」


「何だ」


「名は、何といたしましょう」


 惟種は少しだけ黙った。


 名。

 なるほど、たしかにいる。


 飴。

 汁。

 甘味。


 だが、あまり凝った名を今つける必要はない。


「まずは、水飴でよい」


「水飴、にございますか」


「うむ。水のように柔らかく、飴のように甘い」


 志乃はその名を口の中で転がし、やがて頷いた。


「よき名にございます」


 惟種は、煮詰まる鍋を見た。


 湯気の向こうに、甘い匂いが立ちのぼっている。

 小さな鍋だ。

 小さな成功だ。


 だが、世を変えるものはたいてい、こういう小さなところから始まる。


(田を起こす)

(市を寄せる)

(そして、こうして金の芽を作る)


 水飴はそれだけで終わらない。

 養生食になる。

 菓子になる。

 贈り物になる。

 門前で売れる。

 薬にも使える。


 そして何より、作れると分かった。


 それが大きい。


「宗傳」


「は」


「これは台所だけで抱えるな。いずれ別口を作る」


「門前売りのためにございますか」


「それもある」


 惟種は少しだけ目を細めた。


「台所は飯を作るところだ。売り物を作る場とは分ける」


 宗傳は、そこで完全に“理解した”顔になった。


「……左様にございますな」


 志乃もまた、納得したようにうなずく。


 惟種は思った。

 もう次の段階へ行ける。


 まずは少量。

 若君の養生の名目で出す。

 その後、門前で試し売り。

 評判を見て、専用の場を作る。


 そこまで行けば、水飴はただの台所遊びでは終わらない。


(いける)

(これはちゃんと金になる)


 北里政久が、指先についた飴を舐めて目を丸くした。


「若君、こいつは本当にうまいですな」


「勝手に舐めるな」


 惟房が低く言う。


「よい」


 惟種はそこで少し笑った。


「味見はいる」


 高森惟房が困ったように黙り、光永惟清がそのやり取りまで紙に書いている。

 宗傳は、そんな若君付きの少年たちを見ながら、小さく息をついた。


「若君」


「何だ」


「これは、宗運様だけではなく……いずれ御屋形様にも、話が参りましょうな」


 惟種は、そこで一瞬だけ黙った。


 来るだろう。

 当然だ。


 ここまで形になれば、もう「病み上がりの若君の思いつき」では済まない。


 宗運は聞きに来る。

 惟豊も、見るだろう。


「来るなら来るでよい」


 惟種はそう言った。


 惟種は甘い匂いの立つ鍋を見つめた。


 阿蘇の若君が、台所で作った小さな甘味。

 それはまだ国を変えるほど大きくはない。


 だが、たしかに次の扉を開いていた。

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