第八話 若君、手足を得る
それから数日。
惟種の熱はすっかり引き、ようやく館の中を歩けるまでに回復していた。
とはいえ、まだ五歳の身体である。前世の四十五歳とは別の意味で頼りなく、少し長く歩いただけでも足が重くなる。
(まず身体だな)
田を増やし、市を育て、玻璃を作り、いずれは兵のあり方まで変えたい。頭の中にはやりたいことがいくらでもあるが、その本人が病床から起き上がれないのでは話にならない。
まずは歩き、きちんと食べ、よく眠って、身体を戻すところからだった。
そう考えながら庭へ向かうと、廊下の先で四人の男が待っていた。
「高森惟房にございます」
「北里政久にございます」
「光永惟清にございます」
三人が順に頭を下げる。
高森惟房は十五ほど、光永惟清は十三ほど。北里政久だけは年長で、二十四になるという。
宗運が若君付きとして選んだ者たちらしい。
さらに、その後ろにもう一人いた。
「田代宗傳にございます」
こちらは明らかに三人とは立場が違う。
惟種は宗傳を見上げた。
「宗運の使いか」
「連絡役、とお考えくだされば」
「監視役ではなく?」
宗傳は少しだけ笑った。
「さて」
(監視役だな)
分かりやすい。
父にも宗運にも無理をするなと言われたばかりである。病み上がりの五歳児へ好き勝手させるほど、二人とも甘くはないらしい。
それならそれで構わない。
惟種は三人へ視線を戻した。
「高森。何ができる」
「護衛、馬、木太刀。供回りならば、お任せくだされ」
「北里は」
「山道、川筋、村々のことなら多少は」
「村々?」
「家の用向きで回ることがございます。どの村に誰がおり、誰へ話を通せば早いか。その程度ならば」
惟種は少しだけ北里を見る。
単に道を知っているのではない。村の中の人間関係まで見ているらしい。
「揉め事なども扱うのか」
「小さなものであれば」
「なるほど」
道だけでなく、村とそこに住む人間まで知っている。使い道はいくらでもありそうだった。
「光永」
「は」
「おぬしは」
「筆と覚えごとを。神事や門前についても、多少は存じておりまする」
「字は得意か」
「人よりは」
「なら、わしが話したことを書けるな」
「無論にございます」
「よし」
三人とも役に立つ。
これまでは、何か思いつけば宗運へ頼むしかなかった。宗運が人を選び、宗運が動かす。
だが今日からは、自分の言葉で動く者がいる。
それだけでも大きかった。
「まず庭を歩く」
「は」
「それから走る」
「なりませぬ」
答えたのは宗傳だった。
「…………」
「本日は歩くだけに」
「誰の命だ」
「御屋形様と宗運様。どちらをお選びになりますか」
「……歩くだけにする」
「賢明にございます」
横を見ると、高森が僅かに顔を伏せていた。
笑ったな。
たぶん。
◇
庭を何度か往復したところで、惟種は自分から歩みを緩めた。
身体そのものは軽いが、体力が戻っておらず、胸もまだ少し苦しくなる。
(これは焦っても仕方ないな)
無理をして、また寝込んでは意味がない。
そこまで考えたところで、昨夜「田、市、兵、病」と書いた紙に、市の売り物として玻璃を書き加えたことを思い出した。
作り方は分かっている。炉の構造も、必要な材料も、どこから始めればよいかも頭の中にはある。
だが。
(今のわしが「炉を作れ」と言って、誰が銭を出す?)
惟種は庭を歩きながら、顔をしかめた。
自分は阿蘇家の当主ではない。五歳の跡取りだ。
父なら命じられる。宗運なら、人と銭を動かせる。
だが今の自分には、その権限がない。
父は田畑の試みを認めてくれた。宗運も自分の話を信じ始めている。
それでも、まだ結果は一つも出ていない。
田の実りが増えるのは先の話だ。試し田を作ったところで、明日に米が増えるわけではない。
そんな中で、玻璃を作りたい、炉を築きたい、職人を集めたい、燃料も材料も欲しいと頼んだところで、すぐに銭を出してもらえるとは思えなかった。
(足りないのは、知識じゃない。信用と銭だ)
ならば、先に作ればいい。
少ない銭と今ある道具で始められ、短い時間で目に見える結果が出て、そのまま売れるものがいい。
惟種は庭の端で足を止めた。
「……水飴」
「は?」
北里が振り返った。
「いや。何でもない」
だが、頭の中ではもうつながっていた。
玻璃を作るための炉には銭が要る。その銭を動かしてもらうには、まず信用が要る。
ならば、その前に小さく稼ぐ。
水飴なら、大がかりな炉はいらない。米や麦と、館にある釜や甕を使えば試せる。
甘味は貴重だ。出来上がったものを口に入れれば価値もすぐに分かり、しかも売れる。
まず本当に作れることを見せる。
次に売って、銭になることまで証明する。
さらに何度作っても同じものができれば、偶然でもなくなる。
(わしの言うことに銭を使っても、無駄にはならない)
そう思わせられる。
水飴で小さな利益と信用を作り、それを玻璃へつなげる。玻璃でさらに銭と技術を蓄えれば、鍛冶へ進み、その先には鉄砲も見えてくる。
道は見えている。
問題は、一段目だった。
「宗傳」
「は」
「台所を借りたい」
宗傳は嫌そうな顔こそしなかったが、一拍だけ間を置いた。
「今度は何をなさるので」
「甘いものを作る」
「若君の養生ということでよろしゅうございますか」
「売れそうなら売る」
「やはり、そちらでございましたか」
「何だ、その言い方は」
「いえ。若君が食べたいだけならば、少し安心したのでございますが」
「わしを何だと思っている」
「病み上がりにもかかわらず、田畑を変え、市を考え、その次まで考えておられる五歳の若君にございます」
「…………」
反論しにくかった。
「とにかく、まず作るだけだ。大した銭はいらない」
「それならば」
宗傳もうなずいた。
そこが大事だった。
玻璃なら、最初に銭を出してもらわなければならない。だが水飴なら、今あるもので小さく始められ、失敗しても損は小さい。
だから、試させてもらえる。
「高森」
「は」
「わしについて来い」
「承知いたしました」
「光永」
「は」
「作り方を全部書け」
「全て、でございますか」
「使ったものと量、どれほど温めたか、どれほど時間を置いたか、最後にどれだけできたか。分かるものは全部だ」
光永の目が僅かに変わった。
「一度できればよいのでは」
「駄目だ」
「なぜでございますか」
「同じものを何度でも作れなければ、売り物にはならない」
「…………」
「一度うまくいっただけなら、ただの偶然だ」
「承知いたしました」
光永はすぐに紙を用意する。
田について考えたことと同じだった。作って記録し、もう一度同じように作って比べる。同じものができれば、他の者にも教えられる。
自分だけが作れる水飴など要らない。
「北里」
「は」
「麦を調べてくれ」
「館にあるもので足りませぬか」
「最初は足りる。だが、売るなら足りない」
惟種がそう答えると、北里は少しだけ考えた。
「では、近くの村まで見て参りましょうか」
「何を見る」
「麦を多く作っている村。どの程度余りがあるか。今の値。それから館まで運ぶなら、どれほど人手が掛かるか」
惟種は黙って北里を見る。
北里はさらに続けた。
「毎年作るのであれば、今年だけ麦が余っていても意味がございませぬ。今後も出せる村かどうかも見ておいた方がよろしいかと」
「…………」
そこまでは言っていない。
だが、まさに知りたかったことだった。
「頼む」
「は」
「ただし、まだ買うな」
「承知しておりまする」
「百姓へ無理に出させるのもなしだ」
「はい」
「どこに、どれくらいあって、いくらなら手に入るのか。それだけ知りたい」
「二、三の村を見れば、おおよそは分かりましょう」
「今日中に?」
「近いところなら」
「分かった。頼む」
北里は頭を下げると、それ以上何も聞かずに歩き出した。
迷いがない。
自分で必要な情報を考え、それを取りに行ける。
惟種はその背を見送った。
(……こいつ、使えるな)
麦を見てこいと言っただけで、量や値、運搬、継続性まで考えた。
前世でも、指示されたことだけをやる人間と、目的まで考えて一歩先の答えを持ってくる人間では、仕事の速さがまるで違った。
北里は後者らしい。
「若君?」
宗傳に呼ばれ、惟種は我に返った。
「何でもない。台所へ行くぞ」
「歩くだけ、というお約束では」
「走っていない」
「…………」
「歩いている」
「台所までにございますな」
「うむ」
宗傳は何か言いたそうだったが、諦めたらしい。
高森が先に立ち、光永はすでに紙と筆を持っている。北里は村へ向かい、宗傳はその後ろから惟種を見ていた。
これまで、惟種が何かを考えても、実際に人を動かすのは宗運だった。
だが今日からは違う。
高森が動き、北里が探し、光永が記す。宗傳を通じて宗運ともつながっている。
まだできることは小さく、自由になる銭も実績も、家中からの十分な信用もない。
それでいい。
最初から大きなことを任せてもらえるとは思っていなかった。
(まず、一つだ)
水飴で最初の一段を登る。
惟種は台所へ向かって歩きながら、僅かに笑った。
未来の知識だけでは国は動かない。
その日、阿蘇惟種はようやく、自分の意思で動く小さな手足を得た。そして、その手足で自分自身の信用を作る最初の一歩を踏み出した。




