第七話 若君は、先を数え始める
父が出ていってから。
部屋は、しばらく静かなままだった。
阿蘇惟種は布団の上で、長く息を吐く。
「…………」
疲れた。
宗運。
父。
続けて相手をしたせいで、頭まで重い。
だが。
悪くない。
田は試せる。
市も触らせてもらえる。
父からも止められなかった。
ただし。
宗運が見張る。
(まあ……当然か)
むしろありがたい。
未来の知識がある。
だからといって。
この時代の肥後のことまで、何でも知っているわけではない。
水の流れ。
土地の癖。
国衆の腹。
村々の事情。
そんなものは、宗運の方が遥かに詳しい。
自分が間違えば。
止めてもらえばいい。
惟種は目を閉じた。
頭の中に。
小箱へしまった紙の文字が浮かぶ。
田。
市。
兵。
病。
今は。
そこまでだ。
だが。
惟種の頭の中には。
もっと先があった。
いや。
正確には。
今、考えたのではない。
ずっと前から考えていた。
矢部維胤だった頃から。
◇
戦国時代が好きだった。
ただ武将の名前を覚えるだけではなかった。
合戦を見る。
領地を見る。
石高を見る。
港を見る。
道を見る。
誰と誰が仲が悪いのか。
誰が誰を裏切るのか。
どの土地なら米が取れる。
どこなら交易で稼げる。
何を作れば売れる。
どうすれば人口が増える。
そういうことまで調べるのが好きだった。
そして。
何度も考えた。
もし。
自分が戦国時代に生まれたら。
もし。
大名の子だったら。
もし。
弱小国人の家だったら。
もし。
九州だったら。
どうする。
誰と結ぶ。
何を作る。
どこを取る。
どう生き残る。
そして。
どうすれば。
天下まで届く。
歴史好きの妄想だった。
仕事から帰って。
深夜に飯を食いながら。
風呂の中で。
電車の中で。
眠れない夜に。
信長の野望をしながら。
何度も何度も。
頭の中で組み直した。
島津なら。
大友なら。
龍造寺なら。
毛利なら。
織田なら。
そして。
阿蘇なら。
(まさか、本当に阿蘇になるとは思わなかったけどな)
惟種は目を開いた。
笑えない。
本当に。
笑えない。
だが。
前世で何度も考えたことだからこそ。
大まかな順番は、すでに頭の中にある。
(阿蘇なら……)
惟種は、もう一度目を閉じた。
まず。
南。
島津。
(できるだけ早く、島津とは結ぶ)
戦わない。
少なくとも。
最初から敵にはしない。
島津は伸びる。
今はまだ。
九州を呑み込むほどではない。
だが。
いずれ強くなる。
そんな相手と南で延々殴り合うくらいなら。
早いうちに縁を作る。
婚姻でもいい。
不可侵でもいい。
商いでもいい。
方法は、まだ決めなくていい。
大事なのは。
(敵を減らす)
ことだ。
阿蘇は小さい。
全部を敵にする余裕などない。
そして。
次。
(大友)
ここは避けづらい。
大友は肥後へ手を伸ばす。
国衆へ手を入れる。
阿蘇が少しでも弱れば。
必ず入り込んでくる。
なら。
真正面から豊後へ攻め込む。
そんな馬鹿なことはしない。
まず。
肥後を強くする。
国衆が。
大友につくより阿蘇についた方が得だと思うようにする。
飯。
銭。
守り。
道。
市。
そういうもので。
少しずつ。
こちらへ寄せる。
それを大友が嫌がり。
肥後へ手を出してきたなら。
その時。
叩く。
(五年くらいで、そこまで持っていければ……)
前世では。
何度もそう考えた。
二年。
五年。
十年。
自分なりに区切って。
どこまで国力を上げられるか。
どこから外交へ手を伸ばすか。
何度も頭の中で組んだ。
もちろん。
現実はゲームではない。
宗運に言われたばかりだ。
土地も違う。
人も違う。
思った通りに進むわけがない。
それでも。
目安は要る。
そして。
さらに北西。
(龍造寺……)
ここも。
いずれ大きくなる。
今のうちから潰す。
そこまでは考えない。
いや。
前世なら考えていた。
ゲームなら。
育つ前に叩く。
それで終わる。
だが。
今は違う。
国がある。
家がある。
人がいる。
戦えば。
死ぬ。
(簡単に“潰す”とか考えるのも違うよな)
それでも。
放っておけば。
いずれ面倒になる。
だから。
見る。
必要なら手を入れる。
味方にできる者がいれば拾う。
そこで。
一人の名が浮かんだ。
(鍋島直茂)
惟種の口元が。
ほんの少しだけ緩んだ。
好きだった。
かなり好きだった。
戦もできる。
政もできる。
家を支え。
最後には佐賀をまとめ上げる。
九州戦国史を読んでいれば。
嫌でも目につく男だ。
(欲しい)
思った。
そして。
すぐ。
(いや待て)
惟種は眉を寄せた。
(今、何歳だ?)
自分も子どもだ。
なら。
向こうも。
まだ大した歳ではないはずだ。
(人の家の子を何だと思ってんだ、俺は)
武将一覧ではない。
能力値が並んだ札でもない。
鍋島直茂にも。
父がいる。
家がある。
主がいる。
都合がある。
会ったことすらない。
(……まあ、いつか会いたいけど)
それは本音だった。
宗運が目の前にいるだけでも。
前世の自分からすれば大事件なのだ。
鍋島直茂。
立花道雪。
島津の者たち。
そういう人間が。
本当にこの世に生きている。
(すげい時代に来たんだよな……)
少しだけ。
歴史好きだった維胤が顔を出した。
だが。
惟種はすぐに気持ちを戻す。
島津。
大友。
龍造寺。
その先。
九州。
そして。
さらに先。
(天下)
そこだけは。
前世から変わらない。
最終的には。
日本をまとめる。
天下を一つにする。
昔は。
それが戦国ゲームの終着点だった。
全国統一。
天下人。
そこで終わり。
だが。
今。
本当にこの時代へ来てしまった惟種には。
別の理由があった。
(このままじゃ、駄目だ)
日本は割れている。
国ごとに大名がいる。
大名の下でも。
さらに国衆が割れている。
港も。
兵も。
銭も。
船も。
皆。
別々だ。
そんな状態で。
海の向こうの国々と。
どうやって渡り合う。
鉄砲は。
すでに日本へ来ている。
南蛮人も来る。
商人が来る。
宣教師も来る。
船も来る。
品物も。
技も。
知識も。
そして。
その背後には。
国がある。
大きな国が。
(島津一つでどうにかできる話じゃない)
大友でもない。
毛利でも。
織田でも。
阿蘇など。
なおさらだ。
一つの大名家が。
海の向こうの国と対等に渡り合う。
無理がある。
(だから、最後にはまとめるしかない)
日本を。
一つの国として。
持っている国として。
外から来た者と。
同じ卓につく。
惟種は。
南蛮を追い払いたいわけではない。
むしろ。
来てほしい。
交易はしたい。
技術も欲しい。
薬も。
知識も。
珍しい品も。
使えるものは。
いくらでも欲しい。
だが。
(向こうの都合だけで、この国を動かされるのは御免だ)
買わせてもらう。
教えてもらう。
守ってもらう。
そんな国にはしたくない。
取引するなら。
同じ卓につく。
欲しいものは買う。
こちらからも売る。
必要なら断る。
それができる国にする。
そのためには。
天下をまとめる必要がある。
惟種は長く息を吐いた。
「…………」
壮大だ。
壮大すぎる。
天下。
南蛮。
海の向こう。
そんなことまで考えている。
なのに。
今の自分は。
病み上がりで布団の中だ。
しかも。
最初にやっていることは。
(田んぼの水を見ることなんだよな……)
思わず。
少しだけ笑った。
だが。
間違ってはいない。
国は。
突然強くならない。
天下統一も。
海の向こうと渡り合うことも。
全部。
足元からだ。
順を。
ひとつずつ積む。
(まず田)
(次に市)
その次。
惟種は少し考えた。
(……金だな)
父にも言った。
銭が欲しい。
年貢を増やす。
それは嫌だ。
百姓から取るだけでは。
結局。
国が痩せる。
なら。
外から銭を持ってくるしかない。
(売れるものを作る)
阿蘇で。
他では簡単に作れないものを。
高く売れるもの。
運びやすいもの。
腐らないもの。
偉い人間が欲しがるもの。
「…………」
惟種の頭の中に。
いくつか浮かんだ。
紙。
酒。
油。
石鹸。
薬。
その中で。
光るものがあった。
火。
炉。
砂。
灰。
溶けたもの。
冷えれば固まり。
光を通す。
透明な器。
玉。
瓶。
(ガラス…この時代では玻璃か)
惟種は小箱へ手を伸ばした。
紙を取り出す。
そこには。
田。
市。
兵。
病。
四つの字がある。
その下。
少し離して。
書いた。
金。
そして。
玻璃。
「…………」
これだ。
最初から。
大きなものなど要らない。
玻璃玉。
小さな瓶。
飾り。
そういうものでいい。
軽い。
腐らない。
珍しい。
上手く作れれば。
高く売れる。
(まず小物だ)
惟種はさらに書く。
玉。
小瓶。
売る。
そこで。
筆が止まった。
玻璃。
透明なもの。
磨く。
曲げる。
光。
(……レンズ)
そこまで考えて。
惟種の目が少し開いた。
(望遠鏡)
遠くを見る。
(これがあれば――)
筆を走らせかけて。
止まった。
「いや」
思わず声が出た。
(待て待て待て)
まだ。
玻璃すら作っていない。
透明になるかも分からない。
炉もない。
職人もいない。
材料も確かめていない。
その段階で。
望遠鏡?
(気が早すぎるだろ)
惟種は。
書こうとしていた文字を止めた。
代わりに。
小さく。
こう書いた。
まず小物。
その下に。
もっと小さく。
のちに、遠見。
これでいい。
今は。
それでいい。
惟種は紙を眺めた。
田。
市。
兵。
病。
金。
玻璃。
そして。
紙には書いていない。
島津。
大友。
龍造寺。
九州。
天下。
海の向こう。
全部。
つながっている。
だが。
一度にやるものではない。
父にも。
宗運にも。
止められた。
順番だ。
(田を起こす)
(市を寄せる)
(売れるものを作る)
(銭を増やす)
(人を増やす)
その先に。
天下。
そして。
海がある。
前世では。
何度も頭の中で作った道だ。
だが。
今度は。
本当に歩かなければならない。
(ゲームみたいにはいかない)
だから。
前世の計画を。
そのまま使うのではない。
現実に合わせる。
宗運と話す。
父に見てもらう。
間違えば。
直す。
それでいい。
その時。
障子の向こうから声がした。
「若君。薬湯をお持ちいたしました」
「…………」
惟種は紙を見た。
ずいぶん遠くまで考えた。
だが。
現実の自分は。
まだ熱病から起き上がったばかりだ。
惟種は紙を折り。
小箱へ戻した。
「入れ」
侍女が薬湯を持って入ってくる。
湯気とともに。
なんとも嫌な匂いが漂った。
「若君。冷めぬうちに」
「……うむ」
器を受け取る。
惟種は。
中身を見た。
黒い。
苦そうだ。
いや。
間違いなく苦い。
天下を取る。
日本をまとめる。
海の向こうの国々と。
同じ卓につく。
そのために。
やることは山ほどある。
だが。
惟種は器を口へ運びながら思った。
(……まずは生きるか)
一口。
「…………にがっ」
天下は。
まだ。
ずいぶん遠かった。




