第六話 父は、若君の変化を量る
阿蘇惟豊は、一度家を追われたことがある。
阿蘇家は古い。
火の山を祀る大宮司の家であり、肥後の国衆とてその名を軽く扱うことはできない。だが、古い家だから強いわけでも、名門だから人が従うわけでもないことを、惟豊は嫌というほど知っていた。
家は割れ、血族は争い、国衆は己の利を見て動く。神威だけで田は守れず、祈りだけで兵を食わせることもできない。
だから惟豊は、一度失ったものを拾い直してきた。甲斐の者たちとともに人を集め、国衆をまとめ、少しずつ阿蘇家を立て直し、ようやくここまで戻したのである。
その惟豊が、ひと月前に子の阿蘇惟将を失った。
そして今度は、惟種まで死の淵をさまよった。
当主として考えても背筋が冷える話であり、父としてならなおさらだった。
幸い、惟種は生きた。
それだけなら、ただ喜べばよかった。
だが――。
『若君が何かを得られたことについては、八分がた、本物であろうと見ておりまする』
先ほど宗運が口にした言葉が、惟豊の頭から離れなかった。
何を得たのかと問うても、宗運は答えなかった。それどころか、知られれば惟種の命を狙う者が現れるかもしれないとまで言いながら、主である自分にすら伏せたのである。
宗運ほどの男が、軽い理由でそのようなことをするはずがない。
ならば、自分の目で見るしかなかった。
◇
「父上がお見えにございます」
「……父上が?」
病床の惟種は、少しだけ身体を起こした。
父が見舞いに来ること自体は不思議ではない。自分はつい先日まで死にかけていたのだ。
問題は時機だった。
(宗運と話した直後か)
嫌な予感がする。
宗運が何を話したのか分からない。田畑のことだけなのか、それとも未来の話までしたのか。
(いや、宗運なら勝手に全部は話さない……と思うが)
そう考えたところで、別のことにも気づいた。
(……よく考えたら、わし、父上の許しを取ってないな)
宗運に任せれば何とかなる。
そう考えて、御料の田畑を使った試験まで頼んだ。もちろん宗運が勝手に動かすはずもなく、最終的には当主へ話を通すつもりだったのだろう。
だが父からすれば、病み上がりの息子が突然重臣を呼びつけ、田を調べろ、畑も見ろ、牛馬の数まで取れと言い出したのである。
(そりゃ来るか)
「お通しせよ」
「は」
襖が開いた。
入ってきた男を見た瞬間、惟種の身体の奥に残る記憶が反応した。
阿蘇惟豊。阿蘇家当主にして阿蘇大宮司、そしてこの身体の父だった。
頭で名前を確かめるより先に、父だと分かった。
惟豊から見ても、病床にいる息子が以前とは変わっていることはすぐに分かった。目つきも話し方も違い、病に倒れる前にはなかった何かを内側に抱えている。
だが今は、それを問いただすより先に確かめたいことがあった。
「父上」
惟種が身体を起こそうとする。
「寝ておれ」
「ですが」
「病人が見栄を張るな」
「……はい」
強い口調で言われ、惟種は素直に布団へ身体を戻した。
惟豊は病床の傍らへ腰を下ろすと、すぐには何も聞かず、息子の顔色や目、呼吸、手の動きまで確かめるように眺めた。
生きている。
まずは、それでよかった。
「熱は」
「かなり下がりました」
「痛むところは」
「胸が少し。身体もまだ重うございます」
「そうか」
惟豊は小さく息を吐いた。
「よかった」
短い言葉だった。
だが、その声は阿蘇家当主のものではなく、ただの父親の声だった。
「……ご心配をおかけしました」
「子が死にかけて、心配せぬ親がおるか」
「はい」
「惟将に続いて、おぬしまで逝かれたら――」
そこで言葉が止まった。
惟種も何も言えなかった。
阿蘇惟将。
この身体には、その死を悲しんだ記憶も残っている。
胸の奥が僅かに痛んだ。
「まあ、よい」
惟豊が自分から話を切った。
「生きた」
「はい」
「ならば、生きた後の話をする」
その声から父親の色が消え、阿蘇家当主のものへ戻った。
惟種は僅かに身構える。
「宗運から聞いた」
(来た)
「御料の田畑へ手を入れたいそうだな」
「……はい」
「ずいぶんと急な話だ」
「申し訳ございませぬ」
「謝れとは申しておらぬ」
「はい」
惟豊は息子をまっすぐ見る。
「なぜ田だ」
「はい?」
「大友がおる。相良がおる。島津もおる。家中も、ようやく落ち着きを取り戻したばかりだ」
「はい」
「ならば、普通は兵を考える」
惟豊は一拍置いた。
「なぜ兵ではなく、田なのだ」
試している。
惟種にも、それくらいは分かった。
少し考えてから答える。
「兵も、飯を食いまする」
「当たり前だ」
「城へ籠もるにも飯が要ります。戦へ出すにも飯が要ります」
「それで」
「ならば、まず飯を増やします」
惟豊の表情は動かない。
「兵糧など、足りなければ買えばよい」
惟種は僅かに目を細めた。
本気で言っているのではない。
それくらいは分かった。
「毎年でございますか」
「必要ならばな」
「戦のたびに?」
「そういう家もある」
「ならば、わしは嫌です」
惟豊の眉が僅かに動いた。
「なぜだ」
「買わねば戦えぬ家と、余った米を売りながら戦える家なら、後の方が強いと思います」
「…………」
「兵を増やしても、食わせられねば続きませぬ。実りが増えれば兵糧になり、余れば売れます」
「売ってどうする」
「銭にします」
「銭を得て、何をする」
「鉄を買います。塩を買います。布も要ります。ここで作れぬものは、外から買わねばなりませぬ」
「なるほど」
惟豊は少しだけ目を細めた。
「それで、市か」
惟種が瞬きをした。
「宗運から聞かれましたか」
「いや」
「では」
「今のおぬしの話なら、その次は市であろう」
「…………」
さすがに父親であり、当主だった。
「はい」
惟種は素直に認めた。
「田だけでは足りませぬ。実りを増やしても、それを銭や物へ変える場所がなければ困ります。ですから、田の次は市も変えたいと思っています」
「今度は商いか」
「はい」
「忙しいな」
「時間がございませぬので」
その言葉に、惟豊の目が僅かに動いた。
だが今は追及せず、別の問いを投げる。
「銭が欲しいなら、年貢を増やせばよい」
「嫌です」
即答だった。
惟豊の眉が上がる。
「ずいぶん早いな」
「百姓が困ります」
「国を守るためだ」
「取りすぎて百姓が逃げたら、誰が田を作るのでございますか」
「別の者に作らせればよい」
「その者も逃げるほど取ったら同じです」
「…………」
「田を捨てられれば、年貢そのものがなくなります」
惟豊は黙った。
もちろん分かっている。
取れば取るほど豊かになるほど、国の政は単純ではない。それでもあえて聞いたのは、この子がどこまで考えているのかを見たかったからだ。
惟種は少しだけ視線を落とした。
前世でも、数字を求めて現場へ負担を押しつけ、一時の成果と引き換えに人を失う光景を何度も見た。国と会社は違っても、無理に絞れば元が壊れることに変わりはない。
「取るものを増やす前に」
惟種は顔を上げた。
「取れる元を、大きくしたいです」
「元を」
「はい。田の実りが増える。畑から取れるものも増える。商人が増える。職人が増える。銭が動く。その全部が大きくなれば、同じだけ取っても入るものは増えます」
「それでも足りなければ?」
「その時に考えます」
「百姓にも商人にも、ずいぶん甘い」
「逃げられる方が困ります」
また即答だった。
「人がおらねば、国になりませぬ」
「…………」
そこで、惟豊の目が変わった。
父が子を見る目ではない。
当主が、これから国を背負うかもしれない者を見る目だった。
「誰に教わった」
「え?」
「今の話だ」
「…………」
惟種は言葉に詰まった。
歴史や会社、ゲームを通じて前世で見聞きしたものと、この身体が知る阿蘇の現実。そのすべてが混ざっている。
「夢、にございます」
「便利な夢だな」
「……はい」
「宗運も何か隠しておった」
惟種の表情が僅かに固まる。
「宗運が?」
「おぬしが何を見たのかは、まだ話せぬと言われた」
(……宗運)
未来については伏せたらしい。
惟種は心の中で少しだけ安堵した。
「父上は、怒られなかったので?」
「怒ってほしいのか」
「いえ」
「ならば聞くな」
「はい」
惟豊は息子の様子を見つめた。
隠している。
宗運も、惟種も。
だが、今すぐ暴く必要はない。
「宗運から、もう一つ聞いた」
「何でしょう」
「おぬしは、自分の言葉を全部信じるなと申したそうだな」
「はい」
「家臣が止めてもよいと」
「その方がよいと思います」
「なぜだ」
「わしも間違うからです」
惟豊が黙った。
「主が、家臣へ自分は間違うと申すのか」
「間違わぬ主などおりますか」
「…………」
言ってから、惟種は少しだけ後悔した。
父親とはいえ、相手は阿蘇家の当主である。
「……申し訳ございませぬ。言い過ぎました」
「なぜ謝る」
「少し、生意気かと」
「今さらだ」
「…………」
惟豊の口元が僅かに緩んだ。
「宗運も苦労するな」
「なぜでございますか」
「分からぬなら、そのままでおれ」
「?」
惟種は本当に分かっていないらしい。
知ったことを試したがり、思いつけばすぐ前へ出ようとするところは、以前の惟種にもあった。
「もう一つ聞く」
「はい」
「なぜ急ぐ」
惟種の表情が僅かに固くなった。
「宗運にも、時間がないと申したそうだな」
「……はい」
「何の時間がない」
惟種は答えに詰まった。
未来を知っている。
これから九州がさらに激しく争うことも、大友が力を伸ばすことも、島津がやがて巨大になることも知っている。遠い東では、戦国そのものを変える者たちが次々と台頭してくる。
阿蘇が小さなまま、ゆっくり成長していられる時間などない。
だが、それを全て話すことはできなかった。
「兄上が亡くなられました」
惟種は静かに答えた。
惟豊の目が僅かに動く。
「わしも、死にかけました」
「…………」
「昨日まであったものが、明日もあるとは限らぬのだと分かりました」
惟種は自分の手を見る。
まだ小さい。
前世では四十五年生きた。
だが、その人生も突然終わった。
「だから、できることは今から始めたいのです」
「それだけか」
惟種が顔を上げた。
惟豊は、ただ静かにこちらを見ている。
「…………」
鋭い。
やはり、この人も簡単には誤魔化せない。
「今は、それだけでお許しください」
結局、惟種はそう答えた。
惟豊はしばらく息子を見つめ、やがて小さく息を吐いた。
「宗運と同じことを申す」
「え?」
「あやつにも似たようなことを言われた」
「……申し訳ございませぬ」
「なぜ、おぬしが謝る」
「何となく」
「妙なところだけ素直だな」
惟豊はそれ以上追及しなかった。
宗運にも待った。
ならば、息子にも待てばいい。
言えぬ理由があるのなら、今は見極める時ではない。
「一度に全部をやる気か」
「そのつもりでしたが」
「でした?」
「宗運に止められました。まず御料の田畑で結果を見てからにしろと」
「それで」
「そうすることにしました」
「腹は立たぬのか」
「少しは」
惟豊が目を瞬いた。
「立つのか」
「わしとしては、急ぎたいので」
「それでも止まる」
「宗運の方が、今の阿蘇を知っています」
「自分の方が正しいとは思わぬのか」
「思う時もあります」
「ほう」
「ですが、未来で正しかったことが、今ここでも同じとは限りませぬ」
口にしてから、惟種が止まった。
惟豊も止まった。
「……未来?」
「…………」
しまった。
ほんの一瞬、部屋が静かになる。
惟種の背中に嫌な汗が滲んだ。
だが、惟豊はそれ以上聞かなかった。
ただ、その言葉を覚えた。
「まあよい」
「よいのでございますか」
「今はな」
「…………はい」
惟豊は立ち上がった。
「田畑はやれ」
惟種の顔が明るくなる。
「よろしいのでございますか」
「宗運が見ておる」
「はい」
「市も考えるだけなら好きにせよ」
「ありがとうございます」
「ただし」
やはり来た。
惟種は僅かに姿勢を正す。
「宗運が止めたら、一度止まれ」
「…………」
「返事は」
「はい」
「不満そうだな」
「少し」
「それでよい」
惟豊が小さく笑った。
「人に止められて何も思わぬ者より、止められて腹を立て、それでも考え直せる者の方がまだましだ」
「覚えておきます」
「それと」
「はい」
「急ぐのはよい。だが、おぬし一人で全部やろうとするな」
「…………」
「国は一人では動かぬ。宗運を使え。家臣を使え。百姓も商人も使え。任せられるものは任せよ」
「……はい」
「何より」
惟豊は病床の息子を見る。
「まず生きろ」
惟種の胸が僅かに詰まった。
その時、小さく咳が出た。
「けほっ」
「惟種」
「大丈夫です」
「もうよい。寝ておれ」
「ですが、まだ兵の話も――」
「寝ろ」
「父上」
「宗運にも同じことを言われたのであろう」
「…………はい」
「ならば二度言わせるな」
「はい……」
惟種は渋々、布団へ身体を沈めた。
(何なんだ、この二人)
宗運といい、父といい、すぐ寝かせようとする。
病人なのだから当然なのだが、頭だけは次から次へと動いている。
「父上」
「何だ」
「わしは、大丈夫です」
惟豊の足が止まった。
「死にませぬ」
母にも言った。
だが今度は、少し意味が違う。
生きる。
阿蘇を変える。
そのためにも、死ぬつもりはない。
惟豊はしばらく息子を見つめた。
そして短く答えた。
「そうせよ」
「はい」
「これは命だ」
「……承知いたしました」
惟豊はそれ以上何も言わず、部屋を出た。
◇
廊下には、宗運が待っていた。
「どうでございました」
惟豊は返事をせず、そのまま歩き出した。
宗運が横につく。
二人はしばらく黙って廊下を進んだ。
やがて惟豊が口を開く。
「変わったな」
「はい」
「口も達者になった」
「それは私も感じておりまする」
「おぬしのせいではあるまいな」
「心外にございます」
「どうだか」
宗運の口元が僅かに動いた。
惟豊も、それ以上は追及しない。
少し歩いてから、今度は声を落とした。
「未来、と申した」
宗運の足が、ほんの僅かに止まりかけた。
「……左様でございますか」
「やはり、そこか」
「…………」
「答えぬか」
「先ほど申し上げました通りにございます」
「分かっておる」
惟豊は怒らなかった。
「今は聞かぬ」
「ありがたく」
「ただし」
惟豊が宗運を見る。
「あれを守れ」
「無論にございます」
「何を見たのか、何を知ったのか。わしにはまだ分からぬ」
「はい」
惟豊は一度だけ、惟種のいる部屋を振り返った。
病に倒れる前とは違う。知らなかったことを知り、物の見方まで変わっている。
それでも、人を見捨てられず、無理をして前へ進み、褒められれば少し嬉しそうにし、止められれば不満そうな顔をする。
そこは何も変わっていなかった。
「惟種だ」
宗運の目が僅かに細くなる。
「左様にございますな」
「そこだけは間違えぬ」
惟豊は再び前を向いた。
「あれは、わしの子だ」
「はい」
「ならば、やらせよ」
「田畑を」
「それだけでは済まぬのであろう」
「おそらく」
惟豊は小さく息を吐いた。
「何を言い出すやら」
「私にも分かりませぬ」
「嘘を申せ。少しは知っておろう」
「さて」
「まったく」
惟豊は呆れたように言い、それから表情を引き締めた。
「宗運」
「は」
「おぬしが見ておれ」
「承知いたしました」
「夢に飲まれれば止めよ」
「はい」
「急ぎすぎれば止めよ」
「はい」
「だが」
惟豊は一度だけ足を止めた。
「本当に使えるものなら」
宗運を見る。
「止めるな」
「…………」
宗運は深く頭を下げた。
「承知いたしました」
二人は再び歩き出した。
惟豊はまだ、息子が何を得たのか知らない。宗運も、その全てを確かめたわけではない。
それでも、惟種が阿蘇を守ろうとしている。
その一点だけは、二人とも疑っていなかった。
※10/5追記
現在、第一話から順番に本文を見直し、修正しております。
そのため、次のお話をお読みいただくタイミングによっては、前後の文面が少し噛み合わない場合がございます。
修正作業中のため、何卒ご了承ください。




