第五話 宗運、若君の夢を量る
甲斐宗運は若君の病室を辞したあと、冷えた廊下をゆっくりと歩いていた。
朝の光は差し込んでいる。それでも館に漂う重苦しさは、まだ消えていない。
ひと月前に阿蘇惟将を失い、今度は残る若君の惟種まで病に倒れた。幸い命は取り留めたものの、それだけで家中の不安が消えるわけではなかった。
主家が傾く時、最初に揺れるのは兵ではない。
人の言葉が変わり、視線が変わる。誰も口には出さぬうちから国衆は利を量り、家臣は先を読み、商人は銭を引き始める。
一度でも阿蘇は弱ったと思われれば、それを元へ戻すには何倍もの力が要る。
それを起こさせないことも、宗運の役目だった。
「…………」
歩きながら、先ほどまでの会話を思い返す。
若君は変わった。
病に倒れる以前とは、物の見方も、言葉の選び方も明らかに違っている。
だが宗運が気になったのは、種籾の選び方や肥やしの話そのものではなかった。
今ある知恵を調べ、条件を変えて試し、掛かった人足や銭まで記録して結果を比べる。
良ければ残し、駄目なら捨てる。
そして成果が出れば、すぐ領内へ広げる。
若君が語っているのは、個々の技だけではない。
物事を試し、量り、使えるものだけを積み上げていく。その考え方そのものが、宗運には異様に映った。
『全部を鵜呑みにする家臣の方が怖い』
その言葉を思い出し、宗運は僅かに目を細めた。
「……厄介な若君になられた」
幼子の言葉ではない。
少なくとも、宗運が知る以前の若君なら、あのようなことは言わなかった。
未来を見た。
馬鹿げた話である。
本来ならば、熱に浮かされたうわ言として切り捨ててもよい。
だが、試せる。
それが何より厄介だった。
種を選ぶ。
田を分ける。
掛かった人手や銭を記し、結果を比べる。
それで何も変わらなければ、若君の夢はそこで終わる。
だが、本当に結果が出たら。
「…………」
宗運の歩みが僅かに遅くなった。
しかも、これが田だけで終わるとは思えない。
若君は市の話をしようとしていた。
その先には兵もあるらしい。
そして、まだ口にしていない何かもある。
一つの技なら盗める。
真似もできる。
だが、その頭から次々と新しい知恵が出てくるのであれば、話はまるで違う。
それを十年、二十年と阿蘇家だけが使い続ければ、阿蘇の行く末そのものが変わる。
肥後だけで収まる話ではなくなるやもしれぬ。
同時に、その価値を他家が知った時に何が起こるかも容易に想像できた。
大友。
相良。
島津。
さらに遠国の大名まで知れば、若君を殺そうとする者も、奪おうとする者も、味方の顔をして近づく者も現れるだろう。
知恵を盗めぬなら、その知恵を持つ人間ごと奪えばよい。
そう考える者は、必ず出る。
ならば。
本物でなければ、いずれ分かる。
試し田が失敗すれば、それで終わりだ。
だが、本物だった時は違う。
秘密が漏れてからでは遅い。
宗運の中で、答えはほとんど出ていた。
若君の話を知る者は、増やしてはならない。
少なくとも、一つでも結果が出るまでは。
「宗運様」
声を掛けられ、宗運は顔を上げた。
若い近習が廊下の先で頭を下げている。
「何だ」
「御屋形様より、昼の前に一度お顔をと」
「分かった。後ほど参る」
「は」
近習が下がっていく。
宗運は、その背を黙って見送った。
阿蘇惟豊。
宗運の主君であり、若君の父。
本来ならば、隠し事などすべき相手ではない。
それでも。
未来を見たことまで話すか。
それとも、田畑の話だけに留めるか。
主君へ秘密を持つ危険と、秘密を知る者を増やす危険。
宗運はしばらく考えた末、再び歩き始めた。
今は、後者の方が重い。
◇
御屋形のもとへ向かう前に、宗運は小部屋へ四人の男を集めた。
井手に詳しい者。
御料の田畑や村々の事情に通じた者。
牛馬や肥やしの扱いを知る者。
そして、文字と勘定のできる者。
皆、派手な働きをする男ではない。
だが口は堅く、任せた仕事を最後までやる。
こういう時には、その方がよかった。
「御料の田と畑をいくつか選べ」
「は」
「近すぎず、されど見回れる範囲にせよ。今まで通りに作る田も残し、手を加える田も分ける」
男たちは黙って聞いている。
「使った種、肥やし、人足、掛かった銭、取れた米や麦の量。分かるものは全て記せ」
勘定のできる男が僅かに目を見開いた。
「そこまで記すのでございますか」
「記さねば、何が良かったのか分からぬ」
「……は」
「井手は水の入りと抜けを見よ。今すぐ大きく変える必要はない。まず、どこに問題があるかを出せ」
「承知いたしました」
「牛馬についても同じだ。どこに何頭おり、何に使われ、厩の肥やしをどうしているか調べよ」
「は」
宗運は一人ずつ顔を見る。
若君が未来を見た。
そんな話をする必要はない。
彼らが知るべきなのは、自分たちに与えられた仕事だけだ。
「それと、種を分ける方法も試す」
「種を?」
「水へ入れ、浮くものと沈むものを分ける。さらに少量だけ塩を加えた水でも試せ」
「塩を使われますか」
「うむ。ただし多く使うな。どれほど違いが出るかを見るだけでよい」
「浮いた米は」
「捨てるな。食えるものは食え。種に使わぬだけだ」
「は」
若君から聞いた時には、宗運自身も一瞬捨てるものと思った。
だが、言われてみれば当然の話である。
食える米まで捨てる理由はない。
「植え方もいくつか試す。間隔を揃える田と、これまで通りの田を分けよ。勝手に全てを変えるな」
「違いを見るためにございますか」
勘定役の男が問う。
宗運は僅かにそちらを見る。
「そうだ」
どうやら、この男は使えそうだった。
「何を変え、何が変わったのか。それが分からぬ試しに意味はない」
「承知いたしました」
「それから」
宗運の声が僅かに低くなる。
「若君の名は出すな」
男たちが顔を上げた。
「御料の田畑を改める。私が命じた。それでよい」
「若君のお考えでは――」
「聞こえなかったか」
「……はっ」
「余計なことは申すな」
「ははっ」
四人が頭を下げる。
「始めよ」
男たちが部屋を出ていく。
宗運は一人残り、閉じた襖を見つめた。
若君の話が本物かどうか。
まだ分からない。
だからこそ試す。
結果が出なければ、そこで終わる。
だが結果が出たなら。
その時は、話が変わる。
◇
「入れ」
阿蘇惟豊の声がした。
「は」
宗運が襖を開けると、部屋の奥には阿蘇家当主、阿蘇惟豊が座していた。
このひと月で、少し老けたように見える。
惟将を失い、さらに惟種まで死の淵をさまよった。
父である前に、阿蘇家の当主でいなければならない男だ。
宗運が膝をつくより先に、惟豊が口を開いた。
「惟種は」
「快方へ向かっておりまする」
「そうか」
その一言とともに、惟豊の肩から僅かに力が抜けた。
「まだ無理は利きませぬ。少し話せば、すぐに息も上がりまする」
「ならば、休ませよ」
「そのように」
「言うことを聞くか」
「なかなか」
「……そうか」
僅かな苦笑には、当主ではなく父親の色が混じっていた。
だが、それも一瞬だった。
「宗運」
「は」
「目を覚ましてすぐ、そなたを呼んだと聞いた」
「はい」
「何を話した」
来た。
宗運は表情を変えなかった。
「田畑について、いくつか思うところがあるようにございます」
「田畑?」
惟豊の眉が寄る。
「惟種が?」
「はい」
「病み上がりに、田畑の話をしたのか」
「そのように」
「何を申した」
「種を選び、水を見る。植え方や肥やしも変えてみたいと。まず御料の一部で試すよう申されました」
「…………」
惟豊はしばらく黙っていた。
「そのようなことを、いつ覚えた」
「存じませぬ」
「そなたが教えたのではないのか」
「いいえ」
惟豊の目が僅かに鋭くなる。
「では、誰だ」
「分かりませぬ」
嘘ではない。
若君自身が未来で見たと言っている。
だが、それを今ここで口にするつもりはなかった。
「宗運」
「は」
「何か隠しておるな」
「ございます」
宗運は否定しなかった。
否定すれば、かえって惟豊を侮ることになる。
惟豊の目が細くなる。
「わしにか」
「はい」
「理由を聞いてもよいか」
「まだ、申し上げてよいことか量りかねておりまする」
「…………」
主君に対して言うには、あまりに重い言葉だった。
それでも宗運は視線を逸らさない。
ここで誤魔化す方が、不忠だと思った。
「惟種に関わることか」
「はい」
「命に関わるか」
宗運は一拍置いた。
「場合によっては」
惟豊の顔から表情が消えた。
「病のことではないのだな」
「ございませぬ」
「ならば何だ」
「今は、お許しくだされ」
長い沈黙が落ちた。
惟豊は宗運を見ている。
宗運も視線を逸らさなかった。
やがて惟豊がゆっくりと息を吐いた。
「そなたがそこまで申すのなら、軽いことではないのであろうな」
「はい」
「危ういのか」
「今は分かりませぬ。ただ、もし私の考えている通りのものであれば、軽々しく人へ話してよいものではございませぬ」
「わしにもか」
「御屋形様にも、今は」
再び沈黙が落ちる。
怒ってもおかしくない。
宗運には分かっていた。
ここで惟豊が命じれば、自分は話さねばならない。
主命だ。
拒めば、それこそ家中の秩序を壊す。
だが惟豊は、すぐには命じなかった。
「宗運」
「は」
「そなたは、わしの家臣だ」
「はい」
「惟種の家臣でもある」
「はい」
「どちらを見ておる」
「阿蘇家を」
宗運は即座に答えた。
「…………」
「若君のためでも、御屋形様のためでもございませぬ。阿蘇家にとって、今は伏せるべきだと考えておりまする」
惟豊は長く宗運を見ていた。
「若君の話が偽りなら、ほどなく分かります」
「田が答えるか」
「はい。何も変わらぬのであれば、それで終わりにございます」
「では、本当なら」
「…………」
宗運は答えかけ、止めた。
今、この場で大きすぎる言葉を口にする必要はない。
「阿蘇家にとって、かけがえのないものになるやもしれませぬ」
「だから隠すか」
「はい」
「わしからも」
「今は」
惟豊は再び黙り込んだ。
やがて、少し声を落とす。
「惟種は、変わったか」
「変わられました」
「悪い方へか」
「少なくとも、今はそう見ておりませぬ」
「どのように」
「物の順を考え、まず小さく試し、結果を見てから広げようとなされます。自らの考えが間違っている可能性も認め、私が止めることも許されました」
「惟種が、そのように」
「はい」
惟豊の顔に僅かな戸惑いが浮かぶ。
父だからこそ分かるのだろう。
これまでの息子とは違う。
「それで、そなたは従った」
「はい」
「なぜだ」
「理がございましたゆえ」
「それだけか」
宗運は僅かに口元を緩めた。
「全部を鵜呑みにする家臣の方が怖いとも申されました」
「…………」
惟豊が目を瞬いた。
「まことに、惟種が申したのか」
「はい」
「熱で頭がおかしくなったのではあるまいな」
「私も、最初はそう思いました」
「今は?」
宗運は少しだけ考えた。
未来を見たという話そのものを、全て信じたわけではない。
だが、若君が病を境に何かを得たことについては、すでに疑いが薄れている。
「八分がた」
「何?」
「若君が何かを得られたことについては、八分がた、本物であろうと見ておりまする」
惟豊の表情が変わった。
宗運がそこまで言うとは思っていなかったのだろう。
「何を得た」
「それを、今は申し上げられませぬ」
「…………」
「ただ、もし私の見立てが正しければ、若君をこれまで以上にお守りいただきたく存じます」
「命を狙われるほどのものか」
「知られれば、そうなるやもしれませぬ」
惟豊は何も答えなかった。
先ほどまで見え隠れしていた父親の顔が消え、阿蘇家当主として宗運の言葉を量っている。
やがて、低く言った。
「……分かった」
「御屋形様」
「今は聞かぬ」
宗運が僅かに頭を下げる。
「ただし」
惟豊の目が宗運を射抜いた。
「惟種に害が及ぶと見た時は、わしにも話せ」
「無論にございます」
「そして、そなた一人で抱え切れぬと思った時もだ」
「は」
「わしは父だ。されど、それより先に阿蘇家の当主でもある」
「承知しておりまする」
宗運は深く頭を下げた。
顔を上げると、惟豊はまだ厳しい表情をしている。
「最後に一つ聞く」
「は」
「惟種が得たものを、そなたはどう思っておる」
宗運は静かに息を吸った。
未来。
まだ、その言葉を口にするつもりはない。
だが、今の自分の評価なら答えられる。
「まだ何一つ形にはなっておりませぬ。田の実りも増えておらず、若君のお話が全て誤りである可能性も残っておりまする」
「それでも動く」
「はい」
「なぜだ」
宗運は一拍だけ置いた。
「捨てるには」
静かに言った。
「惜しい夢にございます」
「…………」
惟豊は長く宗運を見つめた。
そして、ゆっくりとうなずく。
「ならば、そなたが量れ」
「は」
「惟種も。その夢も」
「承りました」
宗運は深く頭を下げた。
この日、阿蘇惟豊は息子が何を得たのかを知らず、宗運もまだ全てを信じ切ってはいなかった。
それでも、宗運の中では一つだけ決まっていた。
もし本物なら。
これは、誰にも知られてはならない。
※10/3追記
現在、第一話から順番に本文を見直し、修正しております。
そのため、次のお話をお読みいただくタイミングによっては、前後の文面が少し噛み合わない場合がございます。
修正作業中のため、何卒ご了承ください。




