第四話 田を起こし、市を寄せる
襖が静かに開き、甲斐宗運が部屋へ入ってきた。
昨夜と変わらぬ、無駄のない動きだった。
入道姿ではあるが、寺の僧には見えない。経を読む者というより、兵と米を数え、人を見て、その時々で必要なものを動かす者。
惟種には、そんな印象の方が強かった。
「宗運、参れ」
「は」
宗運は病床の前まで進み、静かに膝をついた。
「お加減はいかがにございます」
「昨夜よりは、ましだ」
「それは重畳」
そう答えながらも、宗運の目は惟種の顔色と呼吸を見ていた。
まだどこまで話せるのかを量っているのだろう。
惟種には、その慎重さがありがたかった。
「昨日の話だ」
「田にございますな」
「うむ。考えをまとめた」
昨夜、二人はまず田から試すと決めた。
今朝になって惟種はさらに考えを整理し、田、市、兵、病という四つの柱に分けたが、今日はその全てを話すつもりはない。
まずは田だ。
「宗運。わしがやりたいのは、新しい田を増やすことだけではない。今ある田や畑から、今より多く取れるようにしたい」
「田だけではなく、畑も」
「そうだ。米だけ増えても仕方がない。麦も豆も野菜もいる。それに牛や馬も使える」
宗運の眉が僅かに動いた。
「牛馬まで含めるのでございますか」
「耕すにも運ぶにも使える。それに糞も肥やしになる。人のものも、牛も馬も、藁も刈った草も、使えるものはできるだけ捨てぬ」
「肥やしそのものは、今も使われておりまする」
「そうだろうな」
惟種はうなずいた。
「だから、まず今の阿蘇で何をしているのか知りたい」
「今の阿蘇を、でございますか」
「うむ。草木灰を使う村もあれば、刈った草を敷くところもあるだろう。人の糞尿や厩の肥やしを使うところもあるはずだ。それを一度調べたい」
宗運の視線が僅かに鋭くなる。
「若君のご存じの方法へ、全て改めるのではなく」
「そんなことをする必要はない」
惟種は即答した。
「わしが知らぬだけで、すでに良いやり方をしている村もあるはずだ。ならば、それを使えばよい」
「なるほど」
「未来のやり方だから優れているとは限らぬ。この土地には、この土地のやり方がある」
前世で知った農法をそのまま持ち込めばいい。
昨夜までは、どこかでそう考えていた。
だが宗運と話しているうちに、それでは駄目だと分かってきた。
土地が違う。
水が違う。
気候も違えば、人の手も違う。
ならば、今ここにあるものを知らずに新しいものだけ持ち込む方がおかしい。
「まず調べる。その上で、使えそうなものを足す」
「それならば、話は早うございますな」
宗運が静かにうなずいた。
「では、最初に何をお試しになります」
「種だ」
「種籾にございますか」
「うむ。実りの良いものを種に使いたい」
「どのように見分けます」
「水に入れる」
宗運が首を僅かに傾けた。
「水へ」
「浮くものと、沈むものがあるだろう。沈むものを種に使う」
「浮いたものは捨てまするか」
「なぜ捨てる」
惟種は思わず宗運を見た。
「食えるなら食えばいい。種に使わぬだけだ」
「……なるほど」
「米を捨てるなど、もったいない」
宗運の口元が、ほんの僅かに緩んだ。
「そこは随分と大事なのでございますな」
「大事だ」
食べ物を増やそうという話をしながら、食える米を捨ててどうする。
そこだけは譲れなかった。
「それと、ただの水より細かく選り分ける方法もあったはずだ」
「どのような」
「塩を溶かした水を使う」
「塩を」
「うむ。ただし全部ではやらぬ。塩は安いものではないし、どれほど濃くすればよいかも正確には覚えておらん。まずは少量で試す」
「左様にございますな」
宗運は早くも頭の中で銭勘定をしているらしい。
その顔を見ながら、惟種は続けた。
「植え方も変えてみたい」
「どのように」
「縄を張って、なるべく間隔を揃える。縦も横もな」
「揃えることに、何か意味がございますか」
「草を取りやすくなる。それに日も風も入りやすいはずだ。間隔をいくつか変えて、どれが一番よく育つか比べてもいい」
宗運はしばらく惟種を見ていた。
「若君」
「何だ」
「先ほどから、比べるという言葉が多うございますな」
「そうか?」
「はい」
惟種は少し考えた。
言われてみれば、確かにそうだった。
「……多分、それが一番大事なんだ」
「一番、でございますか」
「うむ。同じような田をいくつか使う。一つは今まで通り。一つは種だけ変える。もう一つは植え方や肥やしも変える」
「それぞれを分ける」
「そうだ。その上で、どれだけ取れたかを比べる」
惟種はそこで少し考え、付け加えた。
「いや、取れ高だけでは足りぬな」
「と申されますと」
「どれだけ人手が掛かったか。銭はいくら掛かったか。それも残す」
「…………」
「米が増えても、そのために倍の人を使うなら、阿蘇中へは広げられない。本当に得なのかまで見なければ意味がない」
宗運の目が、僅かに細くなった。
「若君が見た未来というものが、少し分かってきた気がいたしました」
「何がだ」
「技そのものより、試し方にございます」
「…………」
惟種は答えなかった。
そこまで大層なことを考えていたわけではない。
前世では、新しいことを始めれば数字を取るのが当たり前だった。
売上。
人件費。
作業時間。
達成率。
面倒ではあった。
だが、何も比べずに「良くなった気がする」で終わらせれば、ろくなことにならない。
「まあ、そんなところだ」
惟種は少し誤魔化すように答えた。
「他にも、水の入れ方や草取り、肥やしは試したい。だが、その前に今どうやっているのか調べる」
「はい」
「牛馬がどこに何頭いるのか。何に使っているのか。二毛作をしている土地があるなら、していないところと何が違うのか。それも知りたい」
「二毛作なら、すでに行うところはございます」
「やはりあるか」
「されど、どこでも同じようにできるものではございませぬ。水も土も、寒さも人手も違いまする」
「なら、その違いを調べればいい」
宗運が惟種を見る。
「わしが二毛作を教えるのではない。できているところから学ぶ」
「……なるほど」
「うまくいっている村があるなら、その理由を調べる。他でも使えるなら広げる。使えないなら、その土地だけで使えばいい」
宗運が静かにうなずいた。
「阿蘇の中だけでも、調べることは随分ありそうですな」
「そうだ。だから全部を一度に変えない」
まず調べる。
小さく試す。
比べる。
記録する。
そして、本当に良いものだけ広げる。
口にしているうちに、惟種自身の中でも考えが少しずつ形になっていった。
だが、悠長に何年も試している余裕があるわけではない。
大友も相良も、阿蘇が十分に力をつけるまで待ってはくれない。
「宗運」
「は」
「最初から、かなり無理をする」
「左様に見受けられます」
「試し田では、五割増を狙いたい」
「…………」
宗運の表情が変わった。
「五割、でございますか」
「阿蘇全体を一年で五割増やすと言っているわけではない。条件の良い試し田でだ」
「それでも、随分と大きな数字にございます」
「分かっておる。種を変えただけで五割増えるなどとは思っておらん」
惟種は指を折るように続けた。
「今ある良いやり方を拾う。種を選ぶ。水を見る。植え方を変える。肥やしも試す。草も取る。一つ一つでは僅かな違いでも、重なれば大きくなるかもしれぬ」
「届かなければ?」
「何がどれだけ効いたかを残す」
宗運が黙る。
「五割増えなかったから全部失敗、ではない。一割増えたやり方が分かれば、それは残せる。二割ならなおよい」
「…………」
「一つの技で五割増やすのではない。小さな改善を積み重ねて、最後にそこを狙う」
宗運は少し長く黙っていた。
やがて、静かに口を開く。
「若君」
「何だ」
「五割は、軽々しく他へ申されぬ方がよろしいでしょう」
「やはり大きすぎるか」
「大きいというだけではございませぬ」
宗運は僅かに声を落とした。
「もし本当にそれほど増えれば、他家が放っておきませぬ」
惟種も、それは考えていた。
多少収穫が増えた程度なら、天候が良かったで済む。
だが、阿蘇領だけ明らかに取れ高が増え続ければ、必ず理由を探る者が出てくる。
農民から聞く。
商人から聞く。
人を入れる。
そして真似をする。
「隠せるか」
「領内へ広めれば、いずれは漏れましょう」
「だろうな」
「されど、最初から全てを知らせる必要もございませぬ」
宗運の声は落ち着いていた。
「誰に何を教えるか。どこまで広げるか。それは、結果が出てから考えまする」
「任せてもよいか」
「若君は作る方をお考えくだされ」
「では、広げ方はそなたに任せる」
「また随分と重いものを渡されますな」
「頼りにしている」
「その言葉を先に使われますと、断りづらうございます」
惟種は少し笑った。
「では、もう一つ頼む」
「まだございますか」
「記録する者が欲しい」
「記録を」
「何をしたか覚えていなければ、比べようがない」
宗運は一瞬だけ考え、すぐにうなずいた。
「文字と勘定のできる者を一人付けましょう」
「話が早いな」
「若君のお考えが、少し分かって参りましたので」
「それは助かる」
「試し田と試し畑は、御料から選びまする。失敗しても他の者へ大きな負担が掛かりませぬ」
「うむ」
「井手を知る者。田畑を知る者。牛馬や肥やしに詳しい者。そして文字と勘定のできる者を集めます」
「頼む」
「それと、うまくいった後はどうなされます」
「見せる」
「見せる?」
「百姓に命じて無理に変えさせても、反発するだろう」
「左様にございますな」
「なら、今まで通りの田と並べて見せればいい。本当に多く取れるなら、次は向こうから聞きに来る」
宗運の口元が僅かに緩む。
「増えていれば、ですが」
「そうだ」
惟種も笑った。
「まず成功しないとな」
「ようやく若君らしいことを申されました」
「どういう意味だ」
「昨夜から、まるで十年先まで全て見えておられるようなお話ばかりでしたので」
「見えているのは、完成した形だけだ」
惟種は少し表情を曇らせた。
「そこへどうやって行くかは、わしにも分からぬ」
「…………」
「だから、そなたがいる」
宗運はしばらく惟種を見つめていた。
やがて、深く頭を下げる。
「承りました」
「頼む」
「御屋形様には、私から話を通しまする」
「全部を?」
「まさか」
宗運の返事は早かった。
「若君が病床にありながら田畑の実りを案じられ、御料の一部で新しい手入れを試したいと申された。それで十分にございます」
「それで通るのか」
「通る形で通すのが、政にございます」
「…………」
惟種は黙った。
未来を知っているだけでは足りない。
誰を動かすのか。
どこまで話すのか。
どのような理由を付けるのか。
そこまで考えなければ、知識は何一つ形にならない。
「分かった。そこも任せる」
「は」
惟種はさらに口を開こうとした。
だが、その前に胸の奥が痛み、小さく咳き込む。
「……っ」
「若君」
「まだ市の話がある」
「なりませぬ」
「まだ何も――」
「顔に書いてございます」
「…………」
宗運は病床の惟種を見る。
額には再び汗が浮かび、呼吸も先ほどより速くなっていた。
「田も畑も逃げませぬ。牛も馬も、市も逃げませぬ」
「市は人が逃げるぞ」
「揚げ足を取られますな」
「本当のことだ」
「いずれにせよ、お休みくだされ」
惟種は不満そうに宗運を見たが、身体の重さには勝てなかった。
「……分かった」
「よろしゅうございます」
「だが、すぐ動いてくれ。一年でも惜しい」
その言葉に、宗運は静かにうなずいた。
「成果を見るまで一年掛かるのであれば、一日でも早く始めるべきにございましょう」
「そういうことだ」
宗運は立ち上がった。
「では、人を選んで参ります」
「頼む」
「若君は、お休みくだされ」
「分かっておる」
宗運は一礼し、襖へ向かった。
開く直前、惟種が呼び止める。
「宗運」
「は」
「わしの言ったことを、全部正しいと思うなよ」
宗運が振り返る。
「間違っているものもある。今の阿蘇には合わぬものもあるだろう」
「承知しておりまする」
「ならよい」
「ですから、試すのでございましょう?」
「…………」
惟種は少し笑った。
「そうだったな」
宗運も僅かに頭を下げ、そのまま部屋を出ていった。
◇
その日のうちに、宗運は人を呼び集めた。
井手に詳しい者。
御料の田畑を知る者。
牛馬や肥やしに詳しい者。
そして、文字と勘定のできる者。
まずは阿蘇で何が行われているのかを調べる。
その上で試し田と試し畑を選び、これまで通りの場所と、新しい方法を試す場所を分ける。
何をしたのか。
どれだけ人手が掛かったのか。
どれだけ銭を使ったのか。
そして、どれだけ取れたのか。
全て残す。
まだ米一粒、麦一粒増えたわけではない。
若君の言葉が本当に正しいのかも分からない。
それでも、試すための人が集まり始めた。
病床の若君が口にした未来は、その日初めて、阿蘇の土地で形になろうとしていた。




