第三話 若君、紙に未来を書く
朝の光で目を覚ました時、阿蘇惟種は、しばらく自分がどこにいるのか分からなかった。
煤けた梁のある低い天井に、障子越しの白い光が差し込んでいる。鼻先には、まだ薬草と湯の匂いが残っていた。
昨夜と同じ部屋だ。
阿蘇の館――戦国の肥後。
「…………」
惟種はゆっくりと息を吐いた。
身体はまだ重い。熱は峠を越えたらしいが、芯にまとわりつくような怠さが残っており、少し身を起こしただけでも胸が苦しくなる。手足にも力が入らない。
間違いなく、子どもの身体だった。
昨夜は熱と混乱の中で、考えるより先に動いた。目を覚まし、自分が阿蘇惟種だと知り、頭の中に残る歴史を思い出した瞬間、甲斐宗運を呼ばなければならないと思った。
そして宗運に、未来の話をした。
そこまでは覚えている。
だが朝になり、少し頭が冷えると、昨夜とは別の感情が湧いてきた。
(……本当に、こうなったんだな)
矢部維胤として生きた四十五年の記憶は、何一つ消えていない。
会社も、部下も、上司も、仕事も、読んできた歴史書も覚えている。
しかし、それだけではなかった。
父である阿蘇惟豊の顔を思えば、自然と「父上」という感覚が湧く。館の廊下がどこへ続いているのかも、なんとなく分かる。昨夜、自分を案じていた女の声を思い出せば、胸の奥に説明のつかない安堵が生まれた。
矢部維胤としての記憶と、阿蘇惟種としての記憶。
二つがある。
(俺は……どっちなんだ)
少し考えてみたが、答えなど出るはずもなかった。
(……分からん)
なら、今考えても仕方がない。
前世でも同じだった。答えの出ない案件を抱えて一日中唸ったところで、締切は待ってくれない。
大事なのは、なぜこうなったのかではない。
こうなった以上、どうするかだ。
「若君」
柔らかな声がして、惟種は顔を向けた。
三十を少し越えたほどの女が、こちらを見ている。疲れた目元をしていたが、衣にも仕草にも気品があった。
名前を思い出そうとしても、すぐには出てこない。
それでも、この身体は知っている。
母だ。
「気分はいかがですか」
「……昨日よりは、ましです」
宗運と話した時より、自然と声が柔らかくなった。
母は、胸の奥につかえていたものを吐き出すように長く息をついた。
「ようございました。本当に……ようございました」
その言葉に、惟種は何も返せなかった。
ひと月ほど前に阿蘇惟将が死んだ。そして今度は、自分が死にかけた。
この人は短い間に二度、子を失うかもしれない時間を過ごしたのだ。
「昨夜は、宗運殿をお呼びになったとか」
「はい」
「何をお話しに?」
口調は穏やかだったが、気にならないはずがない。
死にかけていた若君が目を覚ました途端、家中の重臣を呼び、人払いまでして話をしたのだ。
「夢の話です」
「夢……」
「熱のうちに、少し変わった夢を見ました」
嘘ではない。
全てを言っていないだけだ。
母はしばらく惟種の顔を見つめていたが、それ以上は追及しなかった。
「無理はなさらぬように。まだお身体は戻っておりませぬ」
「はい」
小さくうなずいた母の表情が、ふと曇った。
「惟将様をお見送りしてから、館はずっと重うございます。御屋形様は気丈に振る舞っておられますし、宗運殿も家中を支えてくださっております。それでも、皆が恐れているのです」
惟種には、その理由が分かっていた。
惟将が死に、残る嫡子である自分まで倒れた。父の惟豊が健在でも、家の先が揺らげば国衆は様子を見る。
大友も、相良も、その先の島津も待ってはくれない。
「母上」
「はい」
「わしは、死にません」
「…………」
母が目を見開いた。
やがて泣くまいとするように唇を結び、小さくうなずく。
「……そう申してくださるだけで、母は十分にございます」
惟種は、それ以上何も言えなかった。
しばらくして母は薬湯を置き、何度も休むよう念を押してから部屋を出ていった。
再び静けさが戻る。
惟種は天井を見上げた。
そして一人になったところで、ふと別の不安が頭をもたげた。
(……史実の阿蘇惟種は、それほど長生きしていなかったはずだ)
死因までは、はっきり覚えていない。
戦だったのか、病だったのか。
そこまでは曖昧だった。
(病で死ぬ可能性もあるのか)
嫌な汗が出た。
前世では四十五歳で倒れ、そのまま死んだ。
今度は戦国時代で、病み上がりの子どもの身体にいる。
戦だけを見ていればいいわけではない。敵だけを考えればいいわけでもない。
何をするにしても、まず自分自身が生き残らなければならない。
その時、前世で染みついた習慣が顔を出した。
――まず、書け。
案件が重なった時も、問題が増えすぎた時も、維胤はまず紙に書き出した。
頭の中だけで抱えず、並べて、分けて、優先順位を決める。
人間の頭など信用しない。
まして今は、四十五歳の会社員と戦国の若君、二つの記憶が一つの頭へ詰め込まれているのだ。
「紙と、筆を」
控えていた侍女が驚いたように顔を上げた。
「若君、まだお休みになられた方が……」
「覚え書きをするだけだ」
「されど」
「寝たままでも書ける」
本当は大人しく寝ていた方がいい。
それくらいは自分でも分かっている。
だが、頭の中が散らかったままでいる方が気持ち悪かった。
侍女は困った顔をしながらも、やがて紙と筆を運んできた。
惟種は目の前に置かれた紙を見る。
前世のコピー用紙とは違い、薄く、表面も少しざらついている。いかにも貴重そうだった。
(無駄にはできないな)
筆を取り、子どもの指で慎重に四つの文字を書く。
田。
市。
兵。
病。
「…………」
惟種は並んだ四文字を見つめた。
まず、田。
何をするにしても、最初は食い物だ。
米だけではない。麦も野菜も、家畜も魚も、この国で人の腹を満たすものを増やす。
収穫を増やし、飢えを減らし、人を養える余りを作る。
(国は、まず飯だ)
人を増やすにも、兵を動かすにも、すべてはそこから始まる。
次に、市。
飯だけあっても国は動かない。
道を作るにも、人を雇うにも、鉄を買うにも銭がいる。
ならば商いを育て、商人と職人が集まる場所を作る。物が動けば、人も銭も動く。その銭が、次の力になる。
海へ出るのは、その先だ。
南蛮貿易まで行ければ面白い。
だが、今から欲張る必要はない。
そこで、兵。
戦のたびに農民を田畑から引き剥がしていては、せっかく増やした食い物がまた減る。
ならば、いつかは兵と農を分けたい。
戦うことを仕事にする兵を抱える。
常備兵だ。
その兵を食わせるために田がいる。
給金を払うために市がいる。
未来の知識が使えるなら、鉄砲も欲しい。
その先には大筒だってある。
(欲しいな)
そりゃ欲しい。
戦国時代に来たのだ。
鉄砲も大筒も考える。
だが、惟種はすぐに首を振った。
(飯も食えない兵に鉄砲を持たせてどうする)
順番だ。
田で飯を作る。
市で銭を作る。
その二つがあって、ようやく兵を養える。
そして最後。
病。
「…………」
惟種の目が、その一文字で止まった。
これは他人事ではない。
自分は数日前まで病で死にかけ、前世では働きすぎて身体を壊した。
二度目の人生まで、同じように身体を壊して終えるつもりはない。
この時代では、病で人が簡単に死ぬ。
幼い子も、母親も、働き盛りの者も、兵も例外ではない。
ならば、人を死なせない国にする。
水を清くする。
傷を清める。
病が広がらぬようにする。
医者を育て、薬を探す。
未来の知識が本当に使えるのなら、もっと先もある。
天然痘。
ぺにしりん。
惟種はそこまで書き、筆を止めた。
(作れるのか、これ)
名前は知っている。
何のためのものかも分かる。
だが、知っていることと作れることは違う。
昨夜、宗運に言った通りだ。
この時代で使えるかどうかは、試してみなければ分からない。
惟種は「病」の下へ、もう一つだけ書き加えた。
子どもを死なせない。
「…………」
その文字を見ているうちに、先ほどの母の顔が浮かんだ。
短い間に二人の子を失うかもしれなかった母。
病床の自分を見つめていた、あの顔。
幼い子どもが当たり前のように死ぬ時代だ。
それを少しでも変えられるのなら、意味はある。
そして、その下へさらに一行。
長く生きる。
あまりにも直接的だった。
(まあ、いいか)
重要なことだ。
阿蘇家を守るにも、肥後をまとめるにも、何をするにも、自分が途中で死んでしまえば終わる。
派手に討ち死にしない。
病であっさり死なない。
前世のように、働きすぎて潰れない。
今度こそ、長く生きる。
惟種は改めて紙を眺めた。
田。
市。
兵。
病。
四つは、別々ではない。
田で飯を増やす。
市で銭を生む。
その二つで兵を養う。
そして病から、国を支える人間を守る。
自分も含めてだ。
「…………」
まだ構想にすぎない。
どこまでできるのかも分からない。
自分の知識が、この時代でどれほど通用するのかも分からない。
だが、目指す場所だけは見えた。
「まずは、この四つだな」
惟種は紙の端へ、大友、相良、島津と書いた。
今の阿蘇家が見なければならない相手だ。
だが、その下には何も書かなかった。
都。
天下。
そんなものを、今から考えてどうする。
まず足元だ。
その時、障子の向こうから声がした。
「若君。甲斐宗運様が、お見えにございます」
「…………」
惟種は、もう一度だけ紙を見る。
田。
市。
兵。
病。
昨夜までは、ただ頭の中に散らばっていたものが、今は四つの文字になって目の前に並んでいる。
だが、全てを一度に始めるつもりはない。
宗運と決めた通り、一つずつ試す。
「少し待たせよ」
「は」
侍女の気配が遠ざかる。
惟種は紙を折りたたみ、布団脇に置かれた小箱へ入れた。
こういうものを誰にでも見えるところへ置かない。
それも前世で覚えた習慣だった。
惟種は一度、ゆっくりと息を整えた。
四つの柱は決めた。
だが、最初から全てを求めるつもりはない。
まずは、一つ。
田だ。
「宗運を通せ」
声も身体も、まだ幼い。
それでも、昨夜よりは少しだけ先が見えていた。
後に阿蘇という国を支える四つの柱は、この朝、病み上がりの若君が書いた一枚の覚え書きから始まった。




