第二話 宗運は夢を疑い、夜を預かる
天文十四年、二月。
甲斐宗運は、若君の病室へ向かう廊下を早足で進んでいた。
館の中は静かだった。
だが、安らぎの静けさではない。
息を潜める者たちが作る、薄く張り詰めた膜のような静けさだった。
病は館を弱らせる。
まして、それが若君の病であればなおさらだ。
ひと月前、阿蘇惟将が世を去った。
家を支えるはずだった嫡流の一角が失われ、残る嫡子は阿蘇惟種ただ一人。
その惟種まで失えば、家中は必ず揺らぐ。
国衆は様子を見始める。
外の敵は、必ず肥後へ手を伸ばす。
北には大友。
南には相良。
その向こうには、力を蓄えつつある島津。
火の山の下にあるこの国は、神に守られた地であると同時に、誰もが欲しがる地でもあった。
宗運は、夢を見る男ではない。
米を数え、兵を数え、人の心を量る。
敵と味方の間合いを読み、損得を見定め、そのうえで一手を決める。
それが己の役目であり、性分でもあった。
だからこそ、病床から目覚めた若君が、最初に「宗運を呼べ」と言ったと聞いた時、胸に浮かんだのは安堵ではなかった。
警戒だった。
――何を見た。
高熱のあと、人は変わることがある。
命を拾った代わりに、心が壊れることもある。
神を見たと言う者もいれば、死者の声を聞いたと言い張る者もいる。
若君が生き延びた。
それは良い。
だが、生き延びた先に何が残ったのか。
それを見定めねばならなかった。
襖の前で、宗運は一度だけ息を整えた。
中から泣き声は聞こえない。
それだけで、胸の奥がわずかに軽くなる。
襖が開いた。
灯火の揺れる病室。
その中に、病み上がりの若君がいた。
細い。
青白い。
頬にはまだ熱の名残がある。
だが、その目だけは妙に澄んでいた。
宗運は膝をつく。
「若君。ご快復あそばされたか」
若君――阿蘇惟種は、宗運をまっすぐ見た。
「快復かどうかは分からぬ」
その声音に、宗運は内心で眉をひそめた。
落ち着きすぎている。
死の淵から戻った幼子の声ではない。
怯えも甘えも薄く、まるでどこか遠くを見て戻ってきた者のようだった。
「されど、夢を見た」
「夢、にございますか」
宗運は半ば納得した。
熱に浮かされた者が、神や死者や山の夢を見るのは珍しくない。
だが、次の言葉でその考えは少し変わった。
「ただの夢ではない。火の山が鳴り、田が枯れ、人が飢え、鉄が火を噴く夢だ」
火の山。
田。
飢え。
鉄。
宗運は静かに若君を見返した。
もし単なる悪夢なら、もっと言葉は散らかる。
だが今の惟種の言葉には、妙な筋があった。
「熱のうちの、うわ言かもしれませぬ」
「かもしれぬ」
惟種は、あっさり認めた。
宗運の目がわずかに細くなる。
神託だと言い張らない。
夢を信じろとも言わない。
それが、かえって厄介だった。
「だが、その中に、捨ててはならぬものがあった」
宗運は黙った。
この若君は、夢を信じさせようとしているのではない。
夢の中から使えるものを拾え、と言っている。
少なくとも、そう聞こえた。
「宗運。そなたにだけ話す」
宗運は障子際の気配へ目をやった。
侍女も近習も、皆が固唾を呑んでこちらを見ている。
「皆、下がれ。若君の御前である。聞いたことは口にするな」
人払いが済むと、部屋には灯火の揺れる音と、若君の浅い呼吸だけが残った。
宗運は改めて膝を進める。
「これで、内々の話にございますな」
惟種は小さくうなずいた。
「……宗運。わしは、おかしなことを申すぞ」
「若君がおかしなことを申されるのは、病み上がりゆえでございましょう」
「だが、聞くか」
「阿蘇家の先を思う言葉であれば」
若君は、そこで少し黙った。
灯火が揺れる。
その光が、幼い頬の赤みを浮かび上がらせていた。
「わしはな。未来の景色を見た」
未来。
宗運は、すぐには否定しなかった。
世は理だけで動くわけではない。
夢や兆しを恐れ、神意を読み、山鳴りの一つにも意味を見いだして動く者たちを、宗運は幾度も見てきた。
大事なのは、その夢が真か偽かではない。
使えるかどうかだ。
「その未来とやらで、若君は何をご覧になりました」
惟種は静かに答えた。
「田は増やせる」
宗運の眉が動いた。
「飢えは減らせる。市はもっと賑わう。兵も、今より強くできる」
田。
市。
兵。
夢の話にしては、ずいぶんと地に足がついている。
「……ほう」
「だが、いきなりはできぬ」
惟種は続けた。
「ひとつずつ試すしかない。小さく、誰にも悟られぬように」
宗運の胸の内で、何かがわずかに鳴った。
この幼子は、本当に若君か。
そう疑いたくなるほど、物の言い方が整っている。
だが目の前にいるのは、確かに阿蘇惟種だった。
「若君」
「何だ」
「夢をそのまま信ずるほど、私は甘くありませぬ」
「うむ」
「されど、夢の中に理があるなら、試す価値はございましょう」
惟種の目が、ほんの少しだけ和らいだ。
その反応で、宗運は悟る。
この若君は、最初から全面の信を求めてはいない。
ひとつでいい。現実に下ろしてみろ、と言っているのだ。
「田の話なら、小さく試せます。水のことも同じ。市も、諸役を調整するところから始められましょう」
「そうだ」
「兵のことは、その先にございます」
「……うむ」
惟種の返事が、わずかに鈍った。
宗運は気づく。
声の張りが落ちている。
目の奥に、疲れがにじみ始めていた。
当然だ。
病み上がりなのだ。
いくら口が達者でも、身体はまだ幼く、熱も抜けきっていない。
「これを御屋形様にどう申し上げるかは、別の話にございます」
惟種は小さくうなずいた。
「父上には、まだ全ては申さぬ」
「賢明にございます」
「まずは……試せるものを試す」
「左様」
「宗運、おぬしがやれ」
宗運は深く頭を下げた。
「承りました」
その場しのぎではなかった。
若君を安心させるためだけでもない。
従った方がよい、と宗運の勘が告げていた。
阿蘇のためになるかもしれぬ。
少なくとも、確かめる価値はある。
惟種は、ほんの少しだけ息を吐いた。
張っていた糸がゆるむような息だった。
宗運は、その顔を見つめる。
疲れている。
いや、疲れ果てている。
それでも若君の目は、まだ遠くを見ていた。
「若君が見た未来、その先には何がございます」
宗運は、試すように問うた。
惟種はしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「……強き敵がいる」
「大友にございますか。島津にございますか」
「もっと先だ」
宗運は目を細めた。
「大内や尼子でございましょうか」
「いずれ、都をうかがうほどの男が現れる」
都。
肥後の山中から見れば、あまりにも遠い言葉だった。
「その男と、戦うのでございますか」
惟種は、小さく首を横に振った。
「まだ分からぬ。戦うやもしれぬ。語るやもしれぬ」
「語る、にございますか」
「……だが、見上げるだけでは終わらぬ」
宗運は、声には出さず息を呑んだ。
大きすぎる話だ。
笑い飛ばしてもよい。
そうすべき話ですらある。
だが、笑えなかった。
この若君は、本気で遠くを見ている。
いまはただ、そこへ至る道筋が見えていないだけなのだ。
「若君は、まず何をなさるおつもりで」
惟種は答えた。
「最初は、阿蘇の家を守る」
「はい」
「次に、肥後をまとめる」
そこまで言って、惟種の瞼がわずかに落ちた。
限界だ。
宗運はすぐに悟った。
「若君」
「……何だ」
「今宵は、もうお休みくだされ」
惟種はわずかに眉を寄せた。
まだ話したいのだろう。
だが、その強情も身体の重さには勝てなかった。
「宗運……」
「は」
「次は、田の話をする」
宗運は、思わず口元をゆるめかけた。
「田、にございますか」
「国は……まず、飯からだ……」
そこまで言うと、惟種の声はほどけるように細くなった。
目を閉じる。
浅かった呼吸が、少しずつ眠りのものへ変わっていく。
宗運はしばらく、その寝顔を見ていた。
病み上がりの子どもだった。
頬はまだ赤く、指は細い。
布団の中の身体は、あまりにも頼りない。
だが、その口から出た言葉は、頼りないどころではなかった。
田を増やす。
市を育てる。
兵を変える。
阿蘇の家を守る。
肥後をまとめる。
見上げるだけでは終わらぬ。
宗運は静かに立ち上がった。
夢か。
うわ言か。
それとも、神の悪戯か。
まだ分からない。
ただ、試せる言葉ではあった。
それが何より厄介で、何より面白い。
襖の前で一度振り返る。
病床の若君は、もう深く眠っている。
けれど宗運には分かっていた。
この夜、ただ若君が助かっただけではない。
阿蘇家の行く末に、ひとつ別の道が生まれたのだ。
ならば自分は、その道が本当に道となるかどうかを量らねばならぬ。
宗運は襖を静かに閉めた。
まずは田。
次いで市。
それから兵。
馬鹿げた夢だ。
だが、馬鹿げた夢ほど、人を動かす。
廊下の冷えた空気の中で、宗運は小さく息を吐いた。
「……さて、どこまで本物やら」
そう呟いた声の奥に、ほんのわずかな昂りが混じっていた。
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