第二話 宗運は夢を疑い、夜を預かる
2026/10/3 改修してます。
天文十四年(一五四五年)、二月。
「わしはな。未来の景色を見た」
病床の若君からそう告げられても、甲斐宗運はすぐには答えなかった。
宗運は、夢を見る男ではない。
米を数え、兵を数え、人の心を量る。敵と味方の間合いを読み、その時に使えるものを使って阿蘇家を残す。
それが己の役目であり、性分でもあった。
目の前にいるのは、何日も高熱にうなされ、つい先ほどまで生死の境をさまよっていた幼い若君である。
熱に浮かされた者が神を見た、死者の声を聞いたと言い出すことは珍しくない。宗運は、そうした話を頭から否定する男ではなかったが、だからといって鵜呑みにする男でもなかった。
「その未来とやらで、若君は何をご覧になりました」
ようやく宗運が問うと、惟種は少し考えるように目を伏せた。
「……いろいろだ」
「いろいろ、にございますか」
「うむ。あまりにも多い。わし自身、まだ頭の中がまとまっておらぬ」
それは嘘ではなかった。
矢部維胤として生きた四十五年の記憶と、この身体に残る阿蘇惟種の記憶が、未だ熱の残る頭の中で入り混じっている。
知っていることは多い。
だが、その全てを今すぐ説明できるわけではない。
まして、知識として知っていることと、この時代で実際にできることは別だった。
「されど、一つだけ分かる」
「何でございましょう」
「今より、もっと米を作れる」
宗運の眉が僅かに動いた。
「米を、でございますか」
「うむ。田から取れる米は増やせる。飢える者も減らせるはずだ」
「…………」
宗運は若君の顔をじっと見た。
未来を見たと言い出したかと思えば、最初に出てきたのが天下でも戦でもない。
米だった。
「どのようになされるおつもりで」
「いくつか知っておる。田への水の入れ方も、土の扱いも、肥やしも、作り方もだ。だが……」
惟種はそこで言葉を切った。
「だが?」
「この時代で、そのまま使えるかは分からぬ」
宗運の目が僅かに細くなる。
「分からぬ、と」
「未来では当たり前でも、今ここに同じ物があるとは限らぬ。道具も違う。人も違う。土地も違う。それに、わしが覚えておることそのものが間違っているやもしれぬ」
宗運はしばらく黙っていた。
やはり、おかしい。
目の前の若君は、どこかおかしい。
未来を見たと言いながら、自分の言葉を絶対だとは言わない。神のお告げだとも言わず、自分が間違っているかもしれないと先に認めている。
「若君」
「何じゃ」
「未来が見えるというお話を、そのまま信ずるほど、私は甘くありませぬ」
「うむ」
惟種はあっさりとうなずいた。
宗運は、その反応を見逃さなかった。
「されど、そのお話に理があるのであれば、試す価値はございましょう」
惟種の表情が僅かに変わった。
「ほう、試してくれるか」
「ただし、一つずつにございます」
「一つずつ?」
「若君のお話が全て本当であったとしても、田も市も兵も一度に変えれば家中が騒ぎまする。人は、昨日までと違うことを突然始めれば、それだけで身構えるものにございます」
「……なるほど」
「まして若君は病み上がり。目を覚ました途端に何もかも変えよと仰せになれば、御屋形様も重臣方も、まず若君のお身体を疑われましょう」
「熱で頭がおかしくなったと思われるか」
「某でも、今なお半分はそう疑っておりまする」
「おぬし、正直じゃな」
惟種が思わず笑うと、宗運は僅かに頭を下げた。
「若君の御前ゆえ」
「普通は逆ではないのか」
「さて」
宗運の顔は変わらない。
だが、ほんの僅かに場の空気が緩んだ。
惟種は小さく息を吐いた。
やはり、この男でよかった。
未来の知識がいくらあっても、それをそのまま命じれば人は動かない。現実の土地、現実の人間、現実の銭に合わせて形にする者が必要だった。
それを目の前の男は、もう始めている。
「ならば、どうする」
惟種が尋ねた。
宗運は少し考えたあと、静かに答えた。
「まずは田にございますな」
「うむ」
「広い土地は使いませぬ。失敗しても困らぬ程度の田を選びましょう。若君がお考えになった方法をそこで試し、隣の田と比べればよろしい」
「比べる……」
「収穫が増えたのか。手間は増えたのか。銭はいくら掛かったのか。それを見れば、夢か否かなど関係ございませぬ」
「…………」
惟種は思わず宗運を見つめた。
これだ。
試して、比べる。
結果が出れば広げる。
駄目ならやめる。
自分が頭の中でぼんやり考えていたことを、宗運はたった数言で実際に動かせる形へ落としている。
「宗運」
「は」
「おぬし、頼りになるな」
「何を今さら仰せになります」
「いや……そうなのじゃが」
前世から好きだった武将本人に、面と向かってこんなことを言う日が来るとは思わなかった。
妙な感覚だった。
宗運はそんな惟種の胸の内など知るはずもなく、そのまま話を進める。
「御屋形様へは、某からお話しいたしましょう」
「父上に、未来の話をするのか」
「その必要はございませぬ」
宗運は即座に答えた。
「田の作り方について若君が興味を持たれ、小さく試したいと仰せになった。それだけで十分にございます。銭も人も大して掛からぬのであれば、御屋形様もお許しになりましょう」
「なるほど」
「結果が出れば、その時に次を考えればよろしい」
「結果が出なかったら?」
「やめまする」
「早いな」
「使えぬものに、いつまでも人と銭を使うわけにはまいりませぬゆえ」
惟種は思わず笑った。
「それでよい」
未来の知識だから正しい。
そんな理由だけで国を動かすつもりはなかった。
少なくとも、今の自分が覚えている未来が全て正確だという保証など、どこにもない。
ならば試せばいい。
駄目なら捨てる。
使えるなら残す。
「では、田からじゃ」
「は」
「田がうまくいけば、次は市も考えたい」
「まず田がうまくいってからにございます」
「……はい」
思わず前世の癖で返事をした惟種に、宗運の眉が僅かに動いた。
「はい?」
「何でもない」
「左様で」
宗運は追及しなかった。
惟種は誤魔化すように咳払いをする。
「それから兵も――」
「若君」
「何だ」
「お休みくだされ」
「まだ話の途中だ」
「存じておりまする」
「ならば――」
「若君」
先ほどより少しだけ強い声だった。
惟種が口を閉じる。
宗運は病床の若君を静かに見た。
話し始めた頃より、明らかに顔色が悪い。額には再び汗が浮かび、呼吸も少し速くなっている。
どれだけ口が達者になろうと、身体は高熱から目覚めたばかりの幼子なのだ。
「田も市も兵も、若君がお倒れになれば何一つ進みませぬ」
「……む」
「まずは御身体を治されませ」
正論だった。
惟種はしばらく不満そうに宗運を見ていたが、やがて諦めたように身体を布団へ沈めた。
力を抜いた途端、それまで押さえ込んでいた疲労が一気に押し寄せる。
「宗運」
「は」
「次は、田の話をする」
「承知いたしました。明日以降に致しましょう」
「種籾のこともある。肥やしも……水も……」
「それも、お目覚めになってからお聞きいたします」
「うむ……」
惟種の瞼がゆっくりと落ちていった。
「国は……まず、飯からだ……」
声が次第に細くなり、それきり聞こえなくなった。
宗運はしばらく、その寝顔を見つめていた。
先ほどまで未来だ、米だ、市だと語っていた姿が嘘のように、眠ってしまえばただの幼い若君にしか見えない。
未来を見る若君。
馬鹿げた話だ。
本来なら、熱に浮かされたうわ言として聞き流してもよい。
だが、若君が話したことは試せる。
試して、結果を見ればよい。
それだけのことだった。
宗運は静かに立ち上がり、襖へ向かった。
開ける直前、もう一度だけ病床を振り返る。
「……まずは田、か」
小さく呟き、宗運は部屋を出た。
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