第一話 熱病の果てに
まずはこの作品をお読みいただき、ありがとうございます。
本作は、「もしこうだったら面白いかもしれない」という発想から生まれた物語です。
その状況から何が起こるのか、どうすればうまくいくのかを、拙いながらも自分なりに考えて書いています。
そのため、読んでいる中で「ここはどうなんだろう」と疑問に思われる部分もあるかもしれません。
できる限り史実に沿って進めるつもりではありますが、物語として楽しんでいただければ幸いです。
※ちなみに主人公は、おおよその歴史観念を無視して動きます。
矢部維胤は、今年で四十五になる。
独身。
趣味は戦国時代。
なかでも九州戦国史には目がなかった。
島津の釣り野伏。大友の南蛮貿易。阿蘇の神威。龍造寺の膨張。
鍋島直茂や立花道雪の名を見れば、今でも胸が少しだけ熱くなる。
もっとも、最近の維胤に歴史書を開く時間などなかった。
机に置かれる部下の退職願は、自分の有休申請より多い。
いや、有休申請とは何だったか。
そんなものを最後に出した日すら、もう思い出せない。
「……せめて一日でいいから、信長の野望やりてえな」
誰もいない深夜のオフィスで、そう呟いたのが最後だった。
維胤はいわゆるブラック企業の中間管理職である。
上からは無茶な数字を押しつけられ、下からは相談と不満と涙が集まる。
怒鳴れば済む話を怒鳴れず、切れば済む話を切れず、結局は自分が頭を下げ、残業し、尻拭いを続けてきた。
昔は違った。
学生の頃は、戦国時代が好きだった。
史料集を読み漁り、歴史書に付箋を貼り、ゲームでは何度も九州統一を試した。
もっとも、全国統一前に満足してやめるのが常だったが。
祖父からは、よくこう聞かされた。
「うちの先祖をたどれば、阿蘇家に行きつくぞ」
もちろん、本当かどうかは分からない。
よくある田舎の家系自慢だろうと笑っていた。
だが、笑い飛ばしてきたその名が、最後の最後に頭をよぎることになるとは思わなかった。
その夜、維胤は床に倒れた。
胸が焼けるように痛む。
視界が白く滲む。
冷たいタイルの感触が、やけに遠い。
誰か、と声にならない声で思った。
部下の顔が浮かんだ。
未処理の案件が浮かんだ。
そして、なぜか阿蘇の山並みが浮かんだ。
火の山。
神の山。
古くから人を育て、呑み込んできた山。
そこで、意識は途切れた。
◇
――熱い。
最初の感覚は、それだった。
喉が焼けつくように乾き、身体は鉛のように重い。
額も胸も背も汗で濡れ、息を吸うたび肺の奥がじりじりと痛んだ。
耳元で声がする。
女のすすり泣き。
若い男の慌てた声。
何かを祈るような低い呟き。
「まだ熱が……」
「薬湯を」
「若君、どうか……」
若君。
その言葉に、維胤は薄く目を開けた。
低い天井。
黒ずんだ梁。
揺れる灯火。
病院ではない。会社でも、自宅でもない。
鼻先をくすぐるのは薬品の匂いではなく、煎じた草と、畳と、古い木の匂いだった。
視線を動かすと、枕元の女がはっと息を呑んだ。
三十ほどに見える。顔色は悪く、目元は泣き腫らしていた。
脇には若侍がふたり、固い顔で膝をついている。
「……みず」
そう言ったつもりだった。
だが、出た声は自分のものではなかった。
細い。
高い。
ひどく幼い。
誰だ、これは。
女が慌てて器を差し出す。
維胤は反射的にそれを受け、口をつけた。
ぬるい水だった。
それでも、生き返るようだった。
「ここは……」
また声が違う。
違うのに、なぜか馴染む。
身体の奥が、この声を自分のものだと知っている。
若侍のひとりが平伏した。
「阿蘇の館にございます、若君」
阿蘇。
その二文字が、頭蓋の内側に打ち込まれた。
途端に、見知らぬ景色が流れ込んでくる。
巨大な火口。
噴煙の下に広がる田畑。
神事の列。
館の長廊下。
厳しい顔をした男。
咳き込みながら床に伏せる子ども。
重臣たちの押し殺した声。
――若君がこのまま死ねば、阿蘇家はどうなる。
俺は矢部維胤だ。
いや、違う。
阿蘇惟種。
阿蘇家の若君。
二つの記憶が、濁流のように混ざっていく。
終電のないオフィス。
灯りの揺れる病室。
エクセルの数字。
年貢の勘定。
部下の退職。
家臣の離反。
頭の中で、二つの人生がぶつかり合った。
「若君……?」
声をかけられ、惟種は小さく息を吐いた。
混乱している。
だが、理解してしまったことがある。
この身体は、病に伏していた。
高熱が何日も続き、命も危うかった。
家中では、若君まで死ねば先行きが見えぬと不安が広がっている。
それも当然だった。
阿蘇惟将は、ひと月前に世を去っている。
家の柱となるべき嫡流の一角を失い、残る嫡子は阿蘇惟種ただ一人。
その惟種まで熱病で倒れたのだ。
館に満ちていたのは、若君を案じる空気だけではない。
このまま死なれれば、阿蘇家はどうなるのか。
その怯えが、誰の顔にも滲んでいた。
しかも、外は待ってくれない。
大友がいる。
島津がいる。
相良がいる。
内に揺らぎがあれば、外は必ずそれを嗅ぎつける。
ブラック企業の中間管理職だった男には、その空気が嫌になるほど分かった。
組織が危ない時の匂いは、時代が変わっても変わらない。
惟種は自分の手を見た。
小さい。
白い。
子どもの手だ。
信じがたい。
だが、戦国の阿蘇にいるのだとしたら。
――まだ、間に合う。
その感覚だけが、不思議なほど強く胸に残った。
「……父上は」
女が答えた。
「御屋形様はご政務にございます。若君がお休みの間も、館は止まりませぬゆえ……」
それはそうだろう。
当主が生き、政が動いているなら、幼い若君ひとりの病で全てが止まるはずもない。
では、この状況で最初に動かすべき相手は誰か。
惟種の中の維胤が、即座に答えを出した。
現場責任者。
実務の中枢。
当主に上申し、家中を動かせる男。
「……宗運を呼べ」
部屋の空気が止まった。
若侍たちが顔を見合わせる。
女も目を丸くした。
「若君。甲斐宗運様を、でございますか」
「そうだ」
思った以上に声は落ち着いていた。
病み上がりの子どもの声なのに、妙に揺らがない。
「今すぐでなくてよい。館におるなら呼べ。おらぬなら戻り次第、わしのもとへ」
自分で言ってから、少しだけ可笑しくなった。
四十五年、会議と謝罪と調整ばかりしてきた男の物言いが、子どもの身体から自然に出ている。
若侍のひとりが、はっとしたように頭を下げた。
「は、ははっ! すぐに!」
駆けていく足音が廊下へ消える。
女はまだ不安そうだった。
それでも、その瞳の奥には戸惑いと同時に、わずかな光が宿っていた。
死にかけていた若君が、目覚めてすぐ重臣を呼んだ。
何かが変わったと感じても、おかしくはない。
惟種は天井を見上げた。
甲斐宗運。
阿蘇家の重臣。
有能で、慎重で、現実を見る男。
維胤の知る歴史の断片と、この身体に残る感覚が、同じ答えを告げている。
最初に話す相手は、あの男しかいない。
父である阿蘇惟豊に直に語るには、まだ早い。
病み上がりの若君が突然、未来の夢を見たなどと言えば、熱に浮かされていると思われるのが落ちだ。
だが宗運なら、信じるかどうかは別として、使える話かどうかを切り分けるはずだった。
そういう人間が、組織には必要なのだ。
どれほど理想があっても、それを現場に落とす者がいなければ何も変わらない。
会社でも。
戦国でも。
しばらくして、廊下の向こうが騒がしくなった。
足音は急いでいる。
だが乱れてはいない。
襖が開いた。
入ってきたのは、三十を少し過ぎたばかりに見える男だった。
痩せすぎず、太すぎず。
実戦も政務もこなす者の、無駄のない体つき。
目は鋭い。
だが、いたずらに荒々しくはない。
館の重圧と緊張を、そのまま背負ってきたような顔をしていた。
男は病床に目を向けると、すぐに膝をついた。
「若君。ご快復あそばされたか」
声は低く、よく通った。
喜色は薄い。
まずは現実を見極めようとする声音だった。
惟種はその男を見返した。
この人なら話せる。
そんな確信があった。
「快復かどうかは分からぬ」
宗運の眉がわずかに動く。
「されど、夢を見た」
「夢、にございますか」
「ただの夢ではない。火の山が鳴り、田が枯れ、人が飢え、鉄が火を噴く夢だ」
部屋の空気が張りつめた。
女たちが息を呑み、若侍たちの顔色が変わる。
だが宗運だけは動かなかった。
その目だけが、少し深くなる。
「熱のうちの、うわ言かもしれませぬ」
「かもしれぬ」
惟種はあっさり認めた。
「だが、その中に、捨ててはならぬものがあった」
宗運は黙った。
否定しない。
かといって、すぐに信じもしない。
やはりこの男だ、と惟種は思った。
「宗運。そなたにだけ話す」
「……は」
「人を遠ざけよ」
宗運は一度だけ惟種の顔を見つめ、それから静かに振り返った。
「皆、下がれ。若君の御前である。聞かなかったことは、口にするな」
女も若侍も、戸惑いながら頭を下げて退出する。
襖が閉まり、部屋には灯火の揺れる音と、病み上がりの荒い呼吸だけが残った。
宗運は改めて膝を進める。
「これで、内々の話にございますな」
その一言で、惟種は少しだけ肩の力が抜けた。
「……宗運。わしは、おかしなことを申すぞ」
「若君がおかしなことを申されるのは、病み上がりゆえでございましょう」
「だが、聞くか」
「阿蘇家の先を思う言葉であれば」
宗運の答えに、惟種は小さくうなずいた。
そして、静かに言った。
「わしはな。未来の景色を見た」
灯火が、ひときわ大きく揺れた。
火の山のもと。
病床の若君と、阿蘇家を支える重臣。
ここから始まるのだと、惟種は知っていた。
前世の後悔も、この身体に残る熱も、すべて抱えたままで。
今の阿蘇家は、まだ滅びていない。
ならば、その未来は変えられる。
そのために必要なのは、夢を信じさせることではない。
夢の中から、使える未来を拾い上げることだ。
宗運は、すぐには口を開かなかった。
ただ、その目だけが、わずかに細くなった。
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