第十話 父と宗運、水飴を前に若君を量る
一か月ほどが過ぎた。
惟種の身体は、すっかり元へ戻っていた。
朝になれば庭を歩き、日によっては軽く走る。高森惟房に木刀を持たせて相手をさせようとしては、まだ早いと田代宗傳に止められることもあった。
それだけなら、病み上がりの若君が元気を取り戻したというだけの話である。
だが、その一か月で変わったものは、惟種の身体だけではなかった。
阿蘇の門前で、一つの甘味が売れ始めていた。
水飴。
もとは若君の養生用という名目で館の台所から始まったものだったが、最初に少量を門前へ出すと、すぐに買い手がついた。
最初は、珍しいから売れただけだと見る者もいた。だが、一度買った者がまた訪れ、家族へ持ち帰った者は前より多く求めた。薬へ混ぜたいという者や、祝いの席に使いたいという者まで現れ、商人の中には別の土地へ持っていけばもっと高く売れるのではないかと尋ねてくる者もいた。
一月も経つ頃には、水飴は物珍しさだけで売れているとは言えなくなっていた。
◇
阿蘇惟豊は、自分の前に置かれた小さな器を見ていた。
「これか」
「はい」
向かいには甲斐宗運が座っている。
器の中には、淡い飴色の水飴が入っていた。
惟豊は匙ですくい、そのまま口へ運ぶ。
「……甘いな」
「左様にございます」
「これほど甘ければ、売れるのも分かる」
もう一口舐めてから、惟豊は匙を置いた。
「それで、銭はどうなった」
「最初に使いました米、麦、薪、それに作る者の手間まで見ましても、すでに元は取れておりまする」
「その上で?」
「残っております」
惟豊の目が僅かに細くなった。
「利が出たか」
「はい」
「どの程度だ」
「まだ御家の財を左右するほどではございませぬ。ただ、この一月で作り方も安定いたしました。今の量であれば、作るほど赤になるようなものではございませぬ」
「むしろ増える」
「今のところは」
宗運は断言した。
惟豊は再び器へ目を落とした。
米も麦も阿蘇にあるもので、遠国から砂糖を買ったわけでも、蜂蜜を大量に集めたわけでもない。そこへ若君が一つ知恵を足しただけで、今までになかった売り物が生まれた。
「一度買った者が戻ってくるそうだな」
「はい。それが何より大きゅうございます」
「珍しさだけなら、一度で終わる」
「左様に」
「ならば、もっと作ればよいではないか」
惟豊の言葉に、宗運はすぐには頷かなかった。
「増やすこと自体には、私も異存はございませぬ。ただし、やり方は選ぶべきかと」
「麦か」
「お察しの通りに」
宗運は頷いた。
「今はまだ使う量も知れております。しかし、作る量を急に増やし、一つの村から買い集めれば、麦の値が動きまする」
「甘味を売って銭を得た代わりに、領内の麦が高くなっては笑えぬな」
「左様にございます」
「ならば、どうする」
「若君付きの北里政久が、近在をさらに調べておりまする。どの村に余りがあり、どこからなら無理なく買えるか。道と運ぶ手間も含めて見せております」
「北里か」
「はい」
「惟種がそこまで命じたのか」
「いいえ」
宗運の口元が僅かに緩んだ。
「若君が申されたのは、麦を調べよ、それだけにございます」
「それだけでか」
「量、値、運搬、それに今後も出せるかまで見て戻りました」
「ほう」
惟豊は北里の名を覚えた。
「惟種は、よい者を得たな」
「本人も同じように見ているようにございます」
「ならば使わせよ。水飴を増やすなら、一村から無理に集めるな。麦の値が上がらぬよう、広く薄く買え」
「は」
「必要ならば、麦を多く作れば買い取ると先に知らせてもよい」
宗運の目が僅かに動いた。
「百姓に作らせますか」
「無理にではない」
惟豊は水飴を見る。
「作れば買う者がおる。それが分かれば、自ら増やす者も出よう」
「……左様にございますな」
「年貢として取るのではない。銭を払って買う」
「若君が聞けば喜ばれましょう」
「なぜだ」
「百姓から取る前に、百姓が持つものを増やしたいと申しておられましたゆえ」
「…………」
惟豊は小さく笑った。
「本当に、あれはそのようなことばかり考えておるな」
◇
「ところで」
惟豊が話を変えた。
「門前では、妙な噂まで出ているそうではないか」
「出ておりまする」
「狐が憑いた」
「はい」
「火の山の神気を得た」
「それも」
「神に知恵を授けられた、というものまで聞いたぞ」
「人の口は止まりませぬ」
「暇なものだ」
惟豊は呆れたように言った。
宗運も否定しない。
病で死にかけた五歳の若君が目を覚まし、それまで口にもしなかった田畑の改め方を語ったうえ、米と麦から甘いものまで作ったのだから、噂好きの者にとっては十分すぎる餌だった。
「放っておかれますか」
「いや」
惟豊は即答した。
「広がりすぎる前に抑えよ」
「は」
「神だ狐だと騒がれても面倒だ。あれを担ぎ上げて、自分に都合よく使おうとする者も出る」
「私も同じ考えにございます」
「夢の話は」
「誰にも申しておりませぬ」
「そうせよ」
惟豊はそこで一度、宗運を見た。
「宗運」
「は」
「以前、おぬしは八割方と申したな」
「申しました」
「今はどうだ」
宗運は少しだけ黙った。
その視線が、惟豊の前にある水飴へ向く。
「未来を見たという、その理屈が真かどうかまでは私にも分かりませぬ」
「うむ」
「ですが、若君が我らの知らぬ知識を持っておられることについては、もう疑っておりませぬ」
惟豊の表情は変わらない。
「田は、まだ分からぬぞ」
「はい」
「水を変えた。種を選んだ。肥やしも変える。だが、まだ一粒も余計に実ってはおらぬ」
「その通りにございます」
「ならば、この飴一つで決めるか」
「いいえ」
宗運は首を振った。
「若君が特別な知識を持っておられることと、若君のお考えが常に正しいことは別にございます」
「ほう」
「田は田で、市は市で、兵は兵で量りまする」
「水飴は?」
「できると申されました」
「できたな」
「売れると申されました」
「売れた」
「利も出ると」
「出た」
宗運は小さく頷いた。
「ゆえに、この件については若君が正しかった。それだけにございます」
惟豊の口元が僅かに緩んだ。
「相変わらず厳しいな」
「若君自身が、何でも鵜呑みにする家臣の方が怖いと申されましたので」
「そうだったな」
「ならば、ご期待に沿わねばなりませぬ」
「本人が聞けば嫌な顔をしそうだ」
「すでに何度か」
「そうか」
惟豊は笑った。
それでいい。
未来の知識とやらを持っているとしても、それだけで五歳の子供を神のように扱うつもりはないし、惟種自身もそんなことは望んでいない。
できると言うならまずやらせ、結果を見る。使えるなら広げ、駄目なら止める。その繰り返しで十分だった。
◇
惟豊は、もう一度水飴へ目を落とした。
田はまだ結果が出ておらず、市の話もこれからだ。
だが水飴だけは、実際に作り、売り、銭になった。阿蘇家の財を動かすほどではないにせよ、それは確かな結果だった。
「宗運」
「は」
「この水飴で残った銭は、今どうしておる」
「御家の銭として分けておりまする。材料を買う分、作る者へ回す分、それを除いた残りは手を付けておりませぬ」
「そうか」
惟豊は少し考えた。
「惟種は、それを何に使うと言っておる」
「まだ、私には」
「珍しいな」
「聞けば、すぐ次が出てくる気もいたしますが」
「……それはありそうだ」
惟豊は苦笑した。
だが、そのまま流さなかった。
水飴に使った米と麦はもともと阿蘇家のものであり、台所も人も使っている以上、得た銭をすべて惟種のものにするつもりはない。
だが、五歳の子が言ったことを試した結果、品ができ、売れ、元手を戻したうえで銭まで残った。
ならば、その成果に何も返さず、次もただ口だけ出せというのも違う。
「宗運」
「は」
「水飴で出た利の一部を、惟種に預けてみようと思う」
宗運の眉が僅かに動いた。
「若君の裁量に?」
「全部ではない」
「無論にございますな」
「水飴を続けるための銭は残す。御家にも入れる。その上で、あれが生み出した分の一部は、あれ自身に使わせる」
「何に使うかも聞かずに?」
「だから今から聞く」
惟豊は宗運を見る。
「五歳の子供へ、好きなだけ銭を使えとは言わぬ」
「はい」
「だが、あれが自分で増やした銭だ」
水飴の器を指先で軽く示す。
「少しくらいは、次を試すために持たせてもよかろう」
宗運はしばらく黙っていたが、やがて頭を下げた。
「私も異存ございませぬ」
「ただし、おぬしが見ろ」
「やはり私でございますか」
「嫌か」
「今さら嫌とは申しませぬ」
「ならば決まりだ」
惟豊は一度息を吐いた。
「惟種を呼べ」
「水飴の話を」
「それもある」
「では」
惟豊は少し考えてから言った。
「自分で生み出した銭を、何に使うつもりなのか聞いてみたい」
宗運の表情が、ほんの僅かに変わった。
おそらく同じことを考えたのだろう。
若君が、何と答えるのか。
「工房を作りたい、と申すやもしれませぬ」
「水飴のか」
「それならまだ分かりやすいのでございますが」
「…………」
惟豊が宗運を見る。
「おぬし、何か知っておるな」
「いいえ」
「嘘が下手になったな」
「御屋形様の目が良すぎるのでございましょう」
「まあよい。呼んでこい」
「承知いたしました」
宗運は立ち上がり、襖へ向かった。
その背を見送りながら、惟豊は最後にもう一度水飴を匙ですくった。
甘い。
実に甘い。
ひと月前までなら、惟種が何かをしたいと言っても、まず宗運に確かめさせただろう。
今も、その基本は変わらない。
だが、あの子の言葉には少なくとも試してみるだけの価値がある――その程度の信用なら、もう与えてもよいと思えるようになっていた。
まだ小さな信用にすぎない。
だが、惟種が欲しがっていたものは、まさにその小さな一歩だった。
水飴が生んだのは、銭だけではない。
次の一手へ使える、最初の信用だった。




