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火の山の若君は、未来を夢に見る ~阿蘇家嫡流の若君、名臣甲斐宗運と乱世を切り拓く~  作者: アトラス


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第九十話 阿蘇の神秘

「阿蘇の神秘を、お見せしよう」


 惟種がそう言った時、神屋寿禎は一瞬、言葉の意味を測りかねたようであった。


 先ほどまでの座は、軽いものではなかった。

 有馬は周りへ危うさを説いて回り、大友は内に火を抱え、南もまた島津と阿蘇の筋を見て身構えている。大内も友誼を保ちながら、その内側には割れ目を深くしていた。


 その重さを、惟種はふいに断ち切ったのである。


 寿禎が顔を上げる。


「阿蘇の、神秘にございますか」


「うむ」


 惟種は、ほんのわずかに口元を緩めた。


「せっかくここまで来ていただいたのだ。ただ流民と苗木を置いて帰すのは、味気ない」


 惟豊は横で黙っていたが、その目には、また始まったかという色が、すでにわずかに浮かんでいた。

 宗運はそれよりさらに静かであった。若君がこういう声を出した時、ろくでもない――いや、ろくでもないでは済まぬ、理の外にある何かが出て来ることを、もう幾度か見ているからである。


 惟種は、まず宗運へ目を向けた。


「宗運」


「は」


「人払いを」


 宗運は、即座に意味を悟った。


「承知致しました」


 それ以上は問わぬ。問わぬまま立ち、障子の外へ控えていた者へ低く指図を飛ばす。

 近くの者どもを下げる。

 台所まわりも、作業場まわりも、いまは誰も近づけぬようにする。

 不用意に覗く者があれば、その場で遠ざける。


 惟豊が、低く問うた。


「そこまで要るものか」


「要ります」


 惟種は即答した。


「これは、あまり人に広く見せるものではありませぬ」


 寿禎は、そこでますます目を細めた。

 珍しいものを見せるというだけではない。見せる相手を選ぶ、ということだ。そのことが、商人である寿禎にはよく分かる。


 惟種は、さらに言った。


「父上と寿禎殿は、ひとまずこちらでお待ちください」


「わしらは見ぬのか」


 惟豊の問いに、惟種は首を横へ振る。


「いえ。完成したところを見ていただきます」


 そして宗運を見る。


「作るところは、宗運に」


 宗運は、何も言わなかった。

 だが、その目にはわずかな緊張が走っていた。

 若君が自分だけを連れて行く。つまり、これはただ珍しいものを食わせるための趣向ではない。やり方そのものを覚えさせるつもりなのだ、と。


「参るぞ」


 惟種は立った。


 宗運もまた、それに従う。


     *


 案内されたのは、館の奥でもさらに人の出入りを限った一角であった。


 もとは薬種や火薬、あるいは金気の強いものを扱う時のために使わせていた小さな作業場があり、そこの一角を使う。普段から人を近づけぬようにしてある。

 中へ入れば、すでに必要なものはおおよそ揃えてあった。


 宗運は、それを見てまず一つ息を呑んだ。


「……前もって、ここまで」


「さとうきびが手に入ると分かっていたからな」


 惟種は平らに答えた。


 部屋の隅に、数本のさとうきびが置いてある。

 脇には刃物。

 搾るための小さな圧し道具と、足りねば臼と杵。

 搾った汁を受ける鉢。

 麻布。

 錫の薄手の器。

 そして、その器よりひと回りもふた回りも大きい金属桶。形が見たことがない形状となっている。

 さらに別の器には、硝石が山と用意されていた。

 また、健康被害対策として、手袋と布製のマスク。


 宗運の目が、その白い結晶へ向く。


「火薬蔵より、でございますか」


「うむ」


 惟種は頷いた。


「無論、勝手に減らすわけには参らぬゆえ、使う分は使う。だが後で再び取り直せばよい」


 宗運は、そこまで聞いて、ようやく若君が何をしようとしているのかの輪郭を掴み始めた。

 ただし、掴んだ輪郭は、掴んだぶんだけ余計に分からぬものでもあった。


「若君」


「何だ」


「まことに、何をなさるおつもりで」


 惟種は、マスク手袋を着用し、宗運にもまねさせた。

 小刀を取ってさとうきびへ手を伸ばしながら答えた。


「冷たい甘味を作る」


 それだけであった。


     *


 まず惟種は、さとうきびの外皮を削ぎ始めた。


 若君自ら刃を使うことに、宗運はもう驚かなかった。驚くのは、その手つきに迷いがないことである。初めて触る者の手ではない。どこへ刃を入れればよいか、どれほど削げばよいかを、もう知っているような手であった。


「細う切ってくれ」


 惟種が言うと、宗運はすぐに手を貸した。


 皮を剥いた茎を適当な長さに切り分け、小さな圧し道具へかける。まだ本格の大きな圧搾機ではない。だが、試すには足りるよう用意させたものである。

 木の軋む音とともに、さとうきびの汁がじわりと滲み、やがてぽたり、ぽたりと鉢へ落ちていく。


 宗運は、その色を見た。


「思うたより、濁っておりますな」


「最初はこのようなものだ」


 惟種は答える。


「まだ草の汁に近い。これを濾す」


 圧し道具で取り切れぬ分は、臼へ入れて杵で叩かせた。

 潰れた繊維と汁を麻布へ受け、惟種自ら布を絞る。


 じわり、と。

 濃い香りが立った。


 宗運がわずかに目を見張る。


「甘い匂いが」


「うむ。砂糖そのものではないが、もとになる汁だ」


 麻布を通った汁は、最初の濁りよりは幾分ましになっていた。

 青さは残る。

 だが、舌へ乗せれば確かに甘みがあるであろうことは、香りだけで分かる。


 惟種は、その汁を錫の器へ移した。


 宗運は、そこでようやく問うた。


「これを、煮詰めるのではなく」


「冷やす」


 惟種は言った。


「しかも、ただ冷やすのでは足りぬ」


 そう言って、特殊な金属の桶へ水を張らせる。


 その量を見極めるように一度眺め、それから白い硝石を掬って、一気に桶へ落とした。


 宗運は、そこで思わず一歩近寄った。


 惟種はすぐに桶の中をかき回し始める。

 硝石が水へ溶け、白く揺らぎ、やがて見えなくなっていく。


「金属桶を触れてみよ」


 惟種が言う。


「……よろしいので」


「よい」


 宗運は半信半疑のまま、桶の外側へ手を当てた。


 次の瞬間、その目つきが変わった。


「冷たい」


 思わず漏れた声であった。


 水へ硝石を入れただけである。

 火へかけたわけでもない。

 風へさらしたわけでもない。

 それなのに、桶がみるみる熱を失っていく。


「なぜ」


「溶ける時に、周りの熱を奪うらしい。」


 惟種は平らに言った。


 宗運は、若君の言葉を聞きながらも、実のところ言葉の意味より先に、いま自分の手が触れている冷えの方を信じるほかなかった。


 惟種は、その金属桶の中へ、さとうきびの汁を入れた錫の器をそっと沈めた。


「硝石水が入らぬように金属桶と錫の器に工夫はしておるが、汁へ硝石水を入れてはならぬ。硝石水は危険だからな。また、この硝石水は加熱したら再利用できる。ただ、有害な空気がでるから注意せよ」


「は」


「外から冷やす」


 そして細い木の棒を取り、錫の器の中をかき混ぜ始めた。


     *


 ここからは、惟種の手が止まらなかった。


 絶えず、絶えず、棒を回す。

 早すぎもせず、遅すぎもせず、底をさらい、縁をさらい、全体を均すように動かす。


 宗運は、それを黙って見ていた。

 最初はただの汁であった。

 それが徐々に縁から変わっていく。

 薄く粘りを帯び、細かな氷の粒のようなものが生まれ、なおかき混ぜられるたびに全体へ散っていく。


「……固まっておりますな」


「まだ半ばだ」


 惟種は言う。


「止めれば荒くなる。混ぜ続ける」


 宗運は、金属桶と器と若君の手元を交互に見た。

 これはもはや、冷やしているのではない。

 冷やしながら、形を整えているのである。


 やがて器の中身は、もはや汁ではなかった。

 透き通った液ではなく、白く淡く曇った、細かな氷の粒を抱えたものへ変わっていた。


 惟種はようやく手を止め、棒の先を少し持ち上げる。

 落ちる。

 だが液のようには落ちぬ。

 柔らかく、重く、冷えた粒の集まりとして崩れる。


「これでよい」


 宗運は、しばし言葉を失っていた。


 若君は、それを当たり前のようにやってみせた。

 さとうきびの汁を搾り、布で濾し、火薬のもとたる硝石で水を冷やし、その中でさらに器を冷やし、絶えずかき混ぜて、夏のさなかに氷じみた甘味を作り出した。


 理が無いわけではない。

 むしろ若君の中には、きっと一つの理があるのであろう。

 だが、その理へ至る道筋が、宗運にはもはや人のものとは思えなかった。


「宗運」


 惟種がふと顔を上げた。


「は」


「やり方は覚えてな」


「……見ました」


「二度三度やれば、宗運なら覚えるであろう。」


 宗運は答えなかった。

 覚えるか否かの前に、目の前で起きたことを、いま少し噛み砕かねばならなかったからである。


 それでも、やがて絞り出すように言った。


「若君」


「何だ」


「まことに」


 宗運は、惟種と桶と、錫の器を見た。


「……人外にございますな」


「そう、褒めるでない」


 惟種はフッと笑い、完成したものを小ぶりの器へ移し始める。


 宗運は、その横顔を見ていた。

 驚いているのは、冷たき甘味が出来たことだけではない。さとうきびが届くと分かった時点で、ここまでの道具と段取りを先に整えていたこと、そのうえで実際に形へしてみせたこと、そのすべてが、もはや常の理のうちには収まりきらぬように思えた。


 分からぬ。

 されど、分からぬまま退けてよいものではない。


 この若君の口から出るものは、最初は奇矯に見えても、やがて必ず形を持つ。ならばこれより先、自分がなすべきは、その理を問い詰めることではなく、形になるまでの道を早く整えることにある。


 宗運は、そこでようやく腹の底で一つ定めた。

 若君の申すことは、まず受ける。

 受けたうえで、どうすれば家の内で動かせるかを考える。

 もはやそれが、自分の役目であるように思えた。


     *


 惟豊と寿禎が待つ部屋へ戻ると、二人はすぐに顔を上げた。


 惟豊は、惟種の手にある器を見る。

 寿禎は、それが何であるかすぐには分からず、まず宗運の顔色を見た。

 その宗運が、いつも以上に言葉少なであることで、かえってただ事ではないと悟ったらしい。


「お待たせしました」


 惟種は器を置いた。


「これは」


 寿禎が問う。


「さとうきびの汁を使った、冷たい甘味です」


 惟種は答えた。


「どうぞ」


 惟豊がまず、一匙を取った。


 口へ運ぶ。

 次の瞬間、その眉がわずかに動いた。


「……冷たいな」


 ただ、それだけであった。

 だが、その短い一言のあと、惟豊はしばし器の中を見ていた。


 戦の先を読み、田と兵の形を変え、船を作らせ、今度は夏のさなかに冬を出してみせる。

 どれ一つ取っても、尋常の子の成すことではない。


 理のすべてが分かるわけではない。

 分からぬ。だが、分からぬからといって軽く見てよいものでも、もはやなかった。


 この子が指す先は、たいてい後で形になる。

 ならば当主たる自分は、驚いておるだけでは足りぬ。家として、それを受け、通し、阿蘇の形へしてゆくほかない。


 惟豊は、何も言わなかった。

 ただもう一度、器の中の白く冷えた甘味へ目を落とした。


 寿禎もまた、恐る恐る口へ運ぶ。


 そして目を見開いた。


「これは」


 声が、そこで止まる。


 夏の盛りである。

 冷たいものなど、井戸で冷やした水や、山の陰へ置いた酒ほどしか無い。

 それが今、口の中で砕ける。

 甘い。

 草の香りを残しながら、しかし確かな甘みがあり、しかも冷たさが舌と喉へ落ちる。


「まことに……」


 寿禎は、しばらく次の言葉を探せなかった。


「これを、どうやって」


 惟種は、そこでほんのわずかに笑った。


「阿蘇の神秘だ」


 寿禎は、惟種を見た。

 冗談ではない。

 だが、教える気もないのだと、その一言で十分に分かった。


「寿禎殿」


 惟種は、静かに続けた。


「われらと友好にしていただき、また阿蘇へ来ていただいた折には、材料がありましたらお出ししよう」


 それは、やわらかな言い方であった。

 だが寿禎のような商人にとっては、それで足りた。


 つまりこれは、ただの珍しき甘味ではない。

 この家と良い筋を保っておれば、また口に出来るもの。

 それだけでなく、この家にはまだ外へ見せておらぬものがある、と示すものでもある。


 寿禎は、深く頭を下げた。


「……それは、何よりの褒美にございます」


 宗運は黙ってその様を見ていた。

 惟豊もまた、器の中の冷たき甘味を見ている。


 若君は、人を受け入れる町を用意し、他家の不穏を聞き、その重い話の後で、今度はさとうきびと硝石で、誰も見たことのないものを作ってみせた。


 この子はいったい、どこまで行くのか。


 惟豊も宗運も、もはや同じ目をしていた。

 人の子を見る目ではない。

 家の先を、理の外から引っ張って来るものを見る目であった。


 そして、その目の奥には、ただ驚きだけではないものも宿り始めていた。

 理は尽くしても届かぬ。されど、この若君の指す先は、軽々しく退けてよいものではない。

 ならば受けるほかない。家として通し、形にしてゆくほかない。


 外では、夏の蝉がなお鳴いている。

 だが、その暑さの中で、部屋の内にだけは、確かに小さな冬があった。


 そしてその冬は、甘かった。

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