第八十九話 風の報せ
「まず、有馬方にございます」
その名が出た時、惟種はわずかに目を細めた。
有明海で有馬晴純の目は見ている。
あの男が阿蘇をただ黙って見過ごすはずはなく、何らかの形で動くであろうことも、惟種には半ば見えていた。
寿貞は、静かに続ける。
「有馬殿は、阿蘇を危うい家として、あちこちへ申して回っておる様子にございます」
惟豊は何も言わぬ。
その先を促すように、ただ寿貞を見ている。
「大村、松浦、西郷などへも折に触れて声を掛けておるとか」
寿貞は言った。
「阿蘇をこのまま肥前へ根づかせ、海口まで押さえさせれば、いずれ皆の首へ縄が掛かる――おおよそ、そのような言い様にございます」
宗運の目がわずかに細くなる。
「己が恐れを、周りへ配って歩いておるか」
「さように見えます」
寿貞は答えた。
「今すぐ、どこも有馬へ与して立つほどではございませぬ。されど、繰り返しそのように申されれば、耳には残りましょう」
惟種がそこで、静かに口を開いた。
「恐れておるのです」
座がそちらを向く。
「恐れておらぬなら、自分一人で受ける。わざわざ大村や松浦へ危うさを説いて回る必要はありませぬ」
低い声であった。
だが、その言葉で足りた。
惟豊が短く頷いた。
「有馬が先に動く、ということだな」
寿貞は、深く頷き返しただけであった。
*
「大友は――表向きは静かにございます」
次にそう言った時、座の空気は少しだけ変わった。
静か。
だが、その静けさが善い意味でないことは、寿貞の声の置き方で分かる。
「表向き、か」
惟豊が低く問う。
「はい」
寿貞は答えた。
「されど内は、どうも穏やかではございませぬ。近ごろ、嫡男の話が前へ出てきておるとかで、家中もいささか不穏にございます」
宗運が問う。
「どのようにだ」
「確かな文を見たわけではございませぬ」
寿貞はまずそう断ってから、なお続けた。
「されど豊後筋の商人らは皆、そのように申しております。加えて――なぜか戸次鑑連殿、吉弘鑑理殿が、あれこれ詰問されておる由」
座の空気が、そこで少しだけ締まった。
惟種は黙って聞いていた。
以前、大友義鑑と入田親誠が来た時に感じた匂いが、ここでも裏打ちされていく。
「お家騒動、にございますな」
宗運が低く言う。
寿貞は、余計な言葉を重ねず、軽く頭を下げるに留めた。
惟豊が重く言った。
「ならば、いまの大友に阿蘇へ手を出す余裕はあるまい」
寿貞はそこで、ようやく短く答えた。
「そのように見えます」
そこへ惟種が、静かに言葉を差した。
「ただ」
寿貞が目を向ける。
「嫡男――義鎮殿は、阿蘇を深く恨んでおるやもしれませぬ」
宗運は、その続きを待った。
「比べられておるのだろう」
惟種は言う。
「自分で言うのもなんだが、家中の誰かが、阿蘇の若君はどうだ、惟種はどうだ、と一度でも口にすれば、それだけで胸のうちに棘が立つ」
惟豊は何も言わぬ。
だが、その理はよく分かっていた。
名家の嫡男である。
しかも家中は揺れている。
その身で、年端もいかぬ他家の若君が戦でも政でも名を上げておれば、気に食わぬと思うて不思議はない。
「今すぐ動けぬ相手ほど、後に面倒なこともある」
惟種は続けた。
「動けぬうちに、恨みだけ育つからです」
宗運が静かに頷いた。
*
「肝付、伊東もまた、落ち着かぬ様子にございます」
寿貞は次に南の話を持ち出した。
「何を見ておる」
惟豊が問う。
「島津と阿蘇の筋にございます」
寿貞は答える。
「南を島津が押さえ、北を阿蘇が押さえる。そのような形になれば、九州のありようそのものが変わる――そのように警戒しておる者が、南には少なからずおります」
惟種はその言葉に、小さく頷いた。
見られている。
それでよい。
阿蘇が島津へ筋を流し、島津が南を固めている以上、肝付も伊東も、それを別々の動きとは見まい。むしろ一つの流れとして受け取るであろう。
惟豊が低く言った。
「勝手に重く見てくれるなら、それもまたよい」
寿貞は「は」とだけ応じた。
*
「また、大内にございますが――」
寿貞は、最後にその名を出した。
「ご存知の通り、義隆殿は政務のすべてを家臣へ任せきっておられます」
惟豊は黙っている。
そこはもはや承知していることである。
「されど、阿蘇への友好の使者を絶やしておらぬ点は、悪くございませぬ」
寿貞は言う。
「加えて、隆房殿を抑えておるうちは、まだ筋が立っております」
惟種が、その名にわずかに目を動かした。
「今はむしろ、隆房殿が筆頭となって取り仕切っておるように見えます。兵も、人も、銭も、あのお方のところへ集まりやすい」
宗運が問う。
「商人の目には、どう映る」
「話は早うございます」
寿貞は答えた。
「少なくとも、義隆殿の御心一つを待つよりは、隆房殿のところを通した方が、物事は前へ進みます」
それから一拍置いて、さらに続けた。
「ただし――武断の者どもと、文治の者どもの対立が、かなり深うございます」
座が静まる。
「今はまだ一つの屋根の下におります。されど、このままゆけば、そう遠くないうちに割れるやもしれませぬ」
惟豊が低く言った。
「西が荒れるか」
寿貞は、静かに頭を下げた。
「その芽は、ございます」
大内はいま敵ではない。
むしろ友誼の筋を通している相手である。だが、その相手そのものが、内に割れ目を抱えている。遠いようでいて、九州にも響かぬ話ではなかった。
惟種が静かに言った。
「大内が割れれば、西は荒れます」
宗運が頷く。
「こちらにとっても、遠い話ではございませぬな」
惟豊が断じた。
「友誼は保て。されど、大内そのものが今のまま永く続くとは思うな」
寿貞は、ただ深く頭を下げた。
*
寿貞が一通りを語り終えると、座にはしばし沈黙が落ちた。
有馬は周りへ危機を説いて回っている。
大友は内が揺れ、阿蘇へ手を出せぬ。
肝付、伊東は島津と阿蘇の筋を警戒している。
大内は友誼を保ちながら、その内に割れ目を深くしている。
つまり、どこも阿蘇を見てはいる。
だが、どこもまだ思うままには動けぬ。
惟豊は座を見渡した。
「静かだな」
その一言は、軽い感想ではなかった。
「だが、静かなのは、皆がこちらを見ておるからだ」
重い声である。
「見ておるということは、いずれ何かするということでもある。今日動けぬ者は、明日動くやもしれぬ。明日動けぬ者は、来年動くやもしれぬ」
惟種は黙って聞いていた。
人が来る。
技が来る。
新しい作物が来る。
それと同じように、敵意も、警戒も、いずれ形を取って寄って来る。
ならばこちらは、寄って来たものに押し潰されぬだけの太さを、さらに先回りして備えるほかない。
もっとも、そのような重い話を、いつまでもそのまま座へ沈めておくつもりは、惟種にはなかった。
惟種が、ふと口を開いた。
「は」
「寿貞殿」
その声音は、先ほどまでの重さをそのまま引きずってはいなかった。
「せっかく阿蘇まで来られたのだ」
寿貞が顔を上げる。
惟種の口元が、ほんのわずかに緩んだ。
「阿蘇の神秘を、お見せしよう」




