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火の山の若君は、未来を夢に見る ~阿蘇家嫡流の若君、名臣甲斐宗運と乱世を切り拓く~  作者: アトラス


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第八十七話 大きくなるということ

 天文十七年(一五四八年)七月。


 雨の気配を深く孕んだ雲が、阿蘇の峰々を低く覆っていた。

 盛夏に入ったはずであるのに、山の色はただ明るいだけではない。濃く、重く、何かを抱え込むように沈んでいる。国というものも、広がればおおよそ同じであった。手を伸ばしたぶんだけ、明るくなるところもある。だが同時に、抱え込むものも増える。


 その日の評定は、まさにその「抱え込むもの」を量るためのものであった。


 上座に惟豊。

 その少し下に惟種。

 宗運、北里政久、田代宗傳らが列し、肥前・筑後・肥後から上がってきた文と帳面が、座の端に重ねられている。


 少弐を滅ぼしてより、すでに幾月かが過ぎた。

 戦の余熱だけで国は動かぬ。むしろ、熱が引いたあとに何が残るかで、その家の真価は決まる。


 惟豊が座を見渡し、低く言った。


「始めよ」


 宗運が、まず文を一つ開いた。


「内のことより申し上げます」


 声はいつも通り平らである。

 だが、その平らさの奥に、今や阿蘇が抱える国の重みが乗っていた。


「田、税、鍛冶、鉱山、硝石丘、特産の類、いずれもいまのところ大きな滞りは無く、順調でございます。」


 惟豊は黙って聞いている。


「筑後・肥前とも、取ったのち早く金と米を入れましたゆえ、民の戻りも悪くはありませぬ。ことに春先、荒れの大きかった村々も、田起こしに間に合うところは間に合いました」


「よい」


 惟豊は短く頷いた。


「幼子のことは」


 宗運は次の文を開く。


「乳母の手配、粥場の置き方、薬草の配り方、各地で覚え始めております。いまだ目に見えて大きく減ったとまでは申せませぬ。されど、前よりは『幼子が死ぬのは仕方ない』と済ませる顔が減っております」


 惟種が、そこで一言だけ挟んだ。


「そこが大きい」


 座がそちらへ目を向ける。


「死ぬのが当たり前と思ううちは、手も尽きぬ」


 惟種の声は低い。


「助けられるかもしれぬ、と人が思い始めて初めて、仕組みは根を張ります」


 宗運も頷いた。


「はい。いまは、まさにその段にございます」


 惟豊は黙ってその言葉を受け、それから問うた。


「読み書きはどうだ」


 田代宗傳が顔を上げる。


「寺子屋めいた場は、肥後・筑後に比べればまだ肥前は薄うございます。されど、帳付けと村の申し開きに必要な字だけでも覚えさせたい、という声は確かに増えております」


「無理に急がせるな」


 惟豊が言う。


「字は便利だが、飢えた腹へは入らぬ」


「は」


「されど、捨ててもならぬ。」


「承知しております」


 読み書きも、幼子も、鍛冶も、鉱山も、皆同じであると惟種は思った。

 今すぐ兵に変わるものではない。

 だが、五年、十年と積めば、結局それが国の太さになる。


 宗運は、そこからさらに話を進めた。


「鍛冶は良う回っております。農具も兵具も、いまのところ不足はございませぬ。鉱山も、出るところは出ております。鉄砲の生産も順調。硝石丘も、戦闘には支障のない量が算出され、去年に比べれば目に見えて積みが良くなりました」


 惟種の目がわずかに動く。


 火薬は、もう特別な物ではない。

 まだ貴い。

 だが貴いままで終わらせぬために、ここまで手を入れてきた。


「船の方は」


 惟豊が問う。


 宗運の口元が、ほんのわずかだけ動いた。


「順調にございます」


「順調、か」


「はい」


 宗運は答える。


「河口の普請も、船台も、鍛冶の改めも、いずれもよう回っております。来年には、それなりのものが揃いましょう」


 惟豊は、そこで惟種を見た。


「それなり、で足りるか」


 惟種は少しだけ黙った。

 有馬晴純の目を思い出していたからである。海の理を知る者の目。こちらを測り、危うければその場で切ることまで考えた目。


「足りませぬ」


 きっぱりと答えた。


 座が静まる。


「今あるのは、入口にございます。船も、筒も、まだようやく使えるところまで参っただけです」


「来年には」


 惟豊が促す。


「来年には、もっと使えるものができます」


 惟種は言った。


「されど、それで海が取れるわけではありませぬ。ただ、海を取るための話が、ようやく出来るようになるだけです」


 宗運が、低く言った。


「それでも十分にございますな」


「はい」


 惟種は頷いた。


「出来ぬことと、出来る入口に立つことの差は大きい」


 惟豊は、それ以上は船のことへ踏み込まなかった。

 船はまだ種である。

 だが、種は種のうちから見ておかねばならぬ。そういうものでもあった。


     *


 宗運は次に、兵の帳へ移った。


「常備兵は、現在おおよそ四千」


 その数字が座へ落ちる。


「森羅衆と、それに準ずる締まった兵を核に、旧来の国衆勢からも順に選り分けております。田は民に任せ、戦は兵に任せる。その筋は、まだ完成とまでは参りませぬが、ようやく形になり始めました」


 惟種は、その言葉を聞きながら、少弐戦の夜を思い返していた。


 始まれば戦える兵はおる。

 だが始まる前の緩みと、夜の乱れに耐えるのは、鍛え続けた兵でなければならぬ。


 あの夜に見えた理は、いまも国の真ん中に残っている。


「水軍は」


 惟豊が問う。


「百ほど」


 宗運は答えた。


「まだ鍛えのうちにございます。森羅衆の海上版――とまでは申せませぬが、船上での受け方、替わり方、火と筒の扱い、鉤と長柄の回し方、順に仕込んでおります」


 惟種が静かに言う。


「田を守るためにも兵が要る」


 誰も口を挟まない。


「民を畑から引き剥がして戦わせれば、その年は勝っても次の年に痩せる。痩せれば、また兵も弱る」


 惟種は続ける。


「だから、田は民に任せる。戦は兵にさせる。その筋を、もう戻してはなりませぬ」


「うむ」


 惟豊が重く頷いた。


「今後の国の根になるな」


「はい」


 惟種は答える。


「いずれ、兵の方が足らぬと嘆く時が来ます。されど、今はその足らなさを知るところまで来たのです」


     *


 ついで、石高の話へ移る。


 田代宗傳が地図と帳を開き、肥後・筑後・肥前の収まりを簡潔に示した。


「天文十六年の段では、筑後を合わせおおよそ四十万石」


 誰も異論はない。

 それが、去年の阿蘇の重さであった。


「此度、少弐旧領を取り込み、龍造寺・鍋島への置き分けを済ませたうえで――」


 宗傳は帳へ目を落とした。


「陣営全体では、おおよそ七十万石に届きます」


 座が静まる。


 七十万。

 それは数字である。

 だが数字である以上に、今の阿蘇の重さを他家へも知らせる響きであった。


 大友に届く。

 いや、並び始めたと言ってもよい。


 惟豊は、その数字をすぐには口にしなかった。

 軽く喜べば、かえって家が軽くなる。


 やがて、ゆっくりと言った。


「大きくなったな」


 ただ、その一言だけであった。


 だが、その一言にこそ、実感があった。


 惟種は父の横顔を見た。

 喜びより先に、重みを量る顔であった。さすがにここで、浮かぬ。


 宗運が、静かに補った。


「ただし、直に動く高と、傘の下にある高とは分けて見ねばなりませぬ」


「うむ」


「龍造寺、鍋島を合わせての七十万にございます。ゆえに大きいことは大きい。されど、一枚ではございませぬ」


 惟種がそこで言った。


「一枚にする必要もありませぬ」


 宗運がわずかに目を向ける。


「それぞれの役目を立てた上で、上から束ねればよい」


「はい」


「七十万を一つの拳にするのではなく、七十万を七十万として動かせる筋を作る方が先です」


 惟豊は、その言葉に黙って頷いた。


 家が大きくなれば、すべてを自分の手で握ることなど出来ぬ。

 握れぬものを、どう握ったように働かせるか。

 それが、次の国持ちの仕事である。


     *


 話はやがて、外へ移った。


「外交は」


 惟豊の問いに、宗運が文を入れ替える。


「大内は変わらず友好を保っております」


 そこは大きく揺れていない。

 隆房との筋も、今のところ悪くはない。むしろ、大内の側から阿蘇を測りに来るほどには、向こうもこちらを無視できぬ位置へ置き始めている。


「大友は」


「静かにございます」


 その答えに、惟種がわずかに目を細めた。


 静か。

 だが、静かなのは善意ではない。


「動けぬだけにございます」


 惟種が言う。


 宗運も頷いた。


「はい。北へ大きく兵を振るう気はあるやもしれませぬ。されど、いまは内に手がかかっております」


 惟豊は、そこを深くは追わなかった。

 大友の家中がどう動くかは、まだ向こうの腹のうちである。分かっておればよい。いまこの場で弄ぶ必要はない。


「有馬は」


 その一言で、座の空気が変わった。


 宗運は文を下ろし、むしろ口で言った。


「小競り合いが増えております」


「どこへ」


「主には、再建中の龍造寺筋へ」


 家宗の顔が、わずかに引き締まる。


 少弐を折り、旧領を返し、ようやく立ち始めた龍造寺へ、有馬がしきりに手を出している。村境を荒らし、商いの流れに楔を打ち、時に小舟を差し向け、時に地侍を焚きつける。大きな戦ではない。だが小さいからこそ、削るには都合がよい。


「常備を五百、置いております」


 宗運が言った。


「今のところ、それで押さえておりますが……」


「長うは持たぬか」


 惟豊が問う。


「向こうが本気で参れば、五百では足らぬやもしれませぬ」


 惟種は、その言葉を聞きながら先日の有明海を思い出していた。

 有馬晴純は、もうこちらを見た。

 そして脅威と認めた。

 ならば次は、海筋から、島原筋から、必ずもっと強く押してくる。


「来年」


 惟種が低く言った。


「有馬・大村筋とは、大きくぶつかるやもしれませぬ」


 その言葉は、予感ではなく見立てであった。


「ことに龍造寺を立たせる気なら、なおさらにございます」


 家宗が、そこで初めて深く頭を下げた。


「お手数をお掛け致します」


 惟豊が手でそれを止める。


「今さらであろう。返しただけで立つなら、誰も苦労はせぬ」


 声に温みはない。

 だが冷たくもない。

 現実であった。


「立たせると決めた以上、立つところまでがこちらの仕事よ」


 家宗は、再び深く頭を下げた。


 宗運が続けた。


「有馬は、海と島原を知っております。軽く見るべきではありませぬ」


 そこで惟種が、さらに一つ付け加えた。


「船の方も、急がねばなりませぬ」


 誰もそれを軽くは聞かなかった。


「海で有馬を折るには、まだ足りませぬ。だが足りぬからといって、今のままでいてよい理由にはなりませぬ」


 惟豊は、静かに言った。


「急げ。ただし焦るな」


「はい」


     *


 次いで、相良の話に移った。


 宗運は、そこで少しだけ声を緩めた。


「相良は……頑張ってはおります」


 その言い方に、座の何人かがほんのわずかだけ口元を動かした。


「阿蘇のやり方を真似ようとはしておるようです。田を見、税を改め、人を繋ぎ止めようとしております」


「だが」


 惟豊が促す。


「同盟関係でもなく、こちらほどの蓄えもございませぬ。島津ほどに家の手も揃っておらぬ。そのため、進みは鈍うございます」


 惟種は、そのありさまを頭の中で描いた。


 阿蘇を真似る。

 だが阿蘇そのものにはなれぬ。

 島津にも押される。

 しかも島津へは、こちらから情報を回している。


「島津は」


 惟豊が問う。


「順調にございます」


 宗運は答える。


「渡した筋も、よく使うております。薩摩・大隅・日向、その内の詰めは、向こうなりに進めておりましょう」


「ならば相良は」


「板挟みにございます」


 惟種がそこで言った。


「こちらと島津との間で、自ら形を定められぬ」


 相良を今すぐ打つ必要はない、と惟種は思っていた。

 まだ自分で苦しむ余地がある。苦しめば、いずれこちらから手を出さずとも動く。


「来年」


 惟種は続ける。


「何かしらの動きがありましょう」


「こちらから手を出すか」


 惟豊の問いに、惟種は首を横へ振った。


「急ぐことはありませぬ。相良は、まだ自ら疲れる余地がある」


 宗運が頷いた。


「見張りを厚くしておけば足りますな」


「うむ」


「島津への筋も、このままでよろしいか」


「よい」


 惟豊が言う。


「南は南で進ませよ」


 それで十分であった。


     *


 評定の終わりに近づいた時、座の空気は、始まりよりもむしろ重くなっていた。


 悪い報ばかりだったからではない。

 むしろ逆である。国はよく回っている。田も税も鍛冶も船も兵も、いずれも今のところは理に乗っている。だからこそ、その理をここからさらに先へどう持っていくかが重くなる。


 惟豊は、座の全体を見渡した。


「内は、よう回っておる」


 誰も頭を上げぬ。


「船も兵も、まだ途上とはいえ、道は見えておる」


 惟種は黙って聞いた。


「されど」


 惟豊の声が、一段低くなる。


「外は待ってはくれぬ」


 有馬は押してくる。

 大村筋もまた、やがて絡む。

 相良は板挟みのまま、来年にも揺れるやもしれぬ。

 大友は静かだが、静かなまま永く済むとも思えぬ。

 大内とはいま友好の筋があるが、それもまた永遠ではない。


「ゆえに」


 惟豊は言った。


「今の静かさを、休みと思うな」


 その一言は、座へ深く沈んだ。


「敵が来ぬうちに、田を固めよ。兵を締めよ。船を増やせ。龍造寺を立たせよ。鍋島を働かせよ。旧少弐の者どもにも阿蘇のやり方を覚えさせよ」


 皆が、静かに頭を下げる。


「来年は動く」


 惟豊は断じた。


「有馬筋か、相良筋か、あるいはその両方か。いずれにせよ、今年より軽くは済むまい」


 惟種は、その言葉を胸のうちで受けた。


 まさにその通りである。

 今はまだ静かだ。

 だが静かなのは、ただ次の衝突までのあいだに過ぎぬ。


 惟種の目には、もう少し先が見えていた。


 有馬を海で折るには、まだ足りぬ。

 相良はまだ自ら崩れる余地がある。

 大友は内で揺れ、大内は別の意味で揺れ始めている。

 そして阿蘇は、そのすべてを受け止めるだけの国へ、まだ変わり切ってはいない。


 だからこそ、今の七十万石は、ただ大きいだけでは意味がない。

 大きいものを大きいまま動かせる形へ変えねばならぬ。


 惟豊が最後に言った。


「勝った家の働きをせよ」


 それだけで、評定は締まった。


 座に並ぶ者らが一斉に頭を下げる。


 天文十七年七月。

 阿蘇の国は、たしかに大きくなっていた。

 だがその大きさは、まだ完成の重みではない。むしろ、ここから先に来る衝突と変転に耐えられるかどうかを問う重みであった。


 外では、雨の匂いを孕んだ風が、ゆっくりと館の軒を撫でていた。

 夏は深くなってゆく。

 そして阿蘇の家もまた、静かなうちに次の年へ向けた刃を、少しずつ研ぎ始めていた。

研ぎ始めていた。

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