第八十六話 海より来る眼
海に生きる者は、船を見れば、その家が何をしようとしているかをおおよそ察する。
帆の張り。
艪の並び。
船腹の沈み。
舳先の高さ。
そこへ何を載せ、何を捨てたか。
船とは、そのまま家の考えであった。
有馬の船に乗っていたのは、現当主 有馬晴純だった。晴純は、あの船影を見た時、胸の内で一つ、冷たいものが走るのを覚えた。
有明海の上、河口より少し開けたところに、その船はいた。
まだ一艘。
だが、一艘で足りる足りぬの話ではない。もしかしたら、他にあるかもしれない。
阿蘇の船は形が違う。
有馬の船でもない。
松浦の船でもない。
ただ川船を太らせただけの船でもない。
晴純は、己が船の舳先に立ったまま、その異様な船を見た。
従来の関船に似ているようで、似ていない。
川を上れるよう浅さを残しながら、腹の据わりが違う。海へ出た時の揺れをただ受けるのではなく、どこか起き戻るような、粘るような気配がある。しかも船首には、見慣れぬ筒が一門、低く据えられていた。
あれか。
さきほど、水の上に重い音を響かせたものは。
晴純は、その時の音を思い返した。
遠くであっても分かった。あれは鉄砲の音ではない。もっと低く、腹へ沈む音であった。しかも撃ったあと、船は割れず、そのまま残っている。
阿蘇惟種。
まだ八つの子であるという。
だが、その若君が河口へ手を入れ、船台を築かせ、今までにない船を作り始めた――その報は、すでに海筋に流れていた。晴純もまた聞いていた。聞いてはいたが、まさかここまで形になっているとは思わなかった。
肥前の陸を取り、少弐を折り、今度は海か。
晴純の目が細くなる。
島原半島を拠とし、肥前・肥後・薩摩を結ぶ海の筋を握るのが有馬の力であった。陸の城だけで有馬は立っているのではない。人も荷も兵も、海を通ってこそ力になる。その海へ、阿蘇が別の理を持ち込もうとしている。
危うい。
この若君は、危うい。
そう思った時には、晴純の腹はもう決まっていた。
会う。
見極める。
そして、必要ならここで折る。
だが、その“必要なら”の先が、海の上では存外に難しい。
晴純は自ら船で近づいた。
礼を失わぬ距離で止める。近づきすぎれば相手の火器が怖い。離れすぎればこちらの言葉が届かぬ。間を測るのは、海の者の仕事である。
相手もまた、こちらの距離を見ていた。
その甲板に立つ者らの動きで、晴純はすぐに分かった。
ただの船頭ではない。
兵である。
しかも、立つ位置、目の配り方、持ち場の替わり方が妙に整っている。
森羅衆。
阿蘇の手足として働く精鋭、と聞く。
なるほど、と晴純は思った。あれをそのまま海へ移したか。船の上の者どもはまだ海の熟れを持っておらぬ。だが、命の受け方だけはすでに仕込まれている。これが続けば、やがて海でも面倒な衆になる。
そして甲板の中央に、小さな影が一つある。
あれが惟種か。
年端もいかぬ。
だが、立ち姿が嫌に静かであった。大人のように威を作るのでもなく、子どものように珍しがるのでもない。こちらを見ている。見て、こちらがどこまで寄るつもりか、どこで止まるつもりかを、もう量っているように見えた。
晴純は、そこで初めて、胸の奥に立つ不快の正体を知った。
この若君は、船を一艘作ったのではない。
海へ手を伸ばす理を、もう持っている。
その理が育てば、有馬の海は必ず脅かされる。
船と船とのあいだで、礼が交わされた。
晴純は、こちらから小舟へ移ることはしなかった。相手の船に足を置けば、見たくもないものまで見せられる。近づけさせぬということは、それだけで相手の腹である。ならばこちらも、船間を置いたまま言葉を交わせばよい。
「阿蘇の若君か」
晴純が声を張ると、向こうの甲板の小さな影が一つ進んだ。
「有馬殿」
返ってくる声は、驚くほど落ち着いていた。
八つの子の声ではある。
だが、八つの子の返しではない。
晴純は、まず飾りを置かなかった。
「何を作った」
海の上で回りくどい言葉は要らぬ。
祝いだの見事だの、そのようなことはどうでもよかった。
向こうも、そこを嫌がらなかった。
「新しい船にございます」
「見れば分かる」
晴純は言う。
「何をなすつもりだ」
しばし間があった。
この年で言葉を選んでいるのか、と晴純は思った。
いや、選んでいるのではない。どこまでを表へ出し、どこから先を伏せるかを、すでに決めているのである。
「まずは、河口と取った地を治めるためにございます」
「治める」
「米を運び、人を運び、兵を運び、海より火が来るなら防ぐ。そのためにございます」
晴純は、そこで鼻で笑いそうになった。
もっともらしい。
だがそれで終わるはずがない。
「有馬を防ぐためか」
その問いへ、向こうは逃げなかった。
「有馬を呑むために作ったのではありませぬ」
まず、そう言う。
それから一拍置いて、続けた。
「されど、海より火を持ち込まれるなら、それを防ぐためには使いましょう」
晴純の目が、そこで少しだけ細くなる。
誤魔化さぬ。
へりくだりもしない。
しかも、こちらを立てるでも、脅すでもなく、ただ理のように置いてくる。
面倒な若君だ。
晴純は思った。
この年で、こういう物言いをするのが何より始末に悪い。大人なら野心が顔に出る。若いだけなら怯えが出る。だがこれは、そのどちらでもない。
「海を甘く見てはおらぬようだな」
「甘く見れば、死にますれば」
すぐ返る。
晴純は、相手の船腹をもう一度見た。
大筒の位置。
甲板の広さ。
森羅衆の間の取り方。
すべてが、まだ粗い。だが粗いなりに、考えがある。
これが一艘、二艘ならまだ脅威ではない。
だが、これを十艘、二十艘と並べられたらどうなる。さらに小早を何十も付けられたら。有明の内を阿蘇の兵糧路と兵船路に変えられたら。有馬の海は、もう“従来通り”では済まぬ。
晴純の胸の内に、一瞬だけ、冷たい考えがよぎった。
ここで殺すか。
若君一人を。
この船ごと沈めるか。
そうすれば、芽のうちに折れる。
その算段は、一瞬で立つ。
こちらの船を寄せ、小舟を散らし、一気に取りつく。海の上で年端もいかぬ若君を亡き者にするだけなら、不可能ではない。
だが、不可能ではないことと、やるべきこととは違う。
晴純は、供回りの数を数えた。
今回連れてきたのは、会うための手勢である。礼を保ちつつ、いざとなれば引けるだけの人数。斬り込み、討ち切り、そのうえ無事に引き上げるための数ではない。
しかも相手の船には、あの森羅衆がいる。
見たところ、海にはまだ慣れぬ。だが、船上での殺し合いなら、慣れぬから脆いとも限らぬ。甲板の狭さでは、むしろ陸の殺しに慣れた者の方が怖い。
失敗すればどうなる。
有馬が阿蘇の若君を、祝いも礼もなく海上で討とうとした。
しかも討ち漏らした。
その報は、海を伝って一日で広がる。阿蘇と有馬のあいだに、もう引き返せぬ火が立つ。
いま、その火を立てるべきか。
晴純は、一瞬でそこまで考え、次の瞬間には切った。
まだ早い。
いまはまだ、刃を抜く理が薄い。
薄い理で人を殺せば、あとで自分の首を絞める。
ゆえに晴純は、その考えを面へ一切出さなかった。
「若君」
とだけ呼ぶ。
「海は陸より覚えが長い。いったん顔を見せた船は、次から必ず見られる」
向こうは静かに聞いている。
「その船が、河口を治めるための船で終わるか。それとも、もっと遠くまで来る船になるか。こちらも見ておる」
若君は答えた。
「見ていてくださればよろしい」
それだけであった。
晴純は、その返しに、かえって薄い寒気を覚えた。
子どもの虚勢ではない。本当に、見られて構わぬと思っている顔である。見られたうえで、なお先へ出るつもりなのだ。
ここでそれ以上は問わなかった。
問うほど、相手にこちらの危機感を見せることになる。
晴純は礼を取り、船を返すことにした。
来た時と同じく、整った形で引く。海の者は、退く時の形を崩してはならぬ。
船が向きを変えた時、晴純はもう一度だけ振り返った。
惟種船は、その場に静かに浮いている。
まだ一艘。
まだ粗い。
だが、あれを一艘のままで終わらせぬ顔を、あの若君はしていた。
なんだ、こいつは。
晴純は、胸の内でそう思った。
少弐を折っただけではない。
船を作り、河口を変え、海へ手を伸ばし、しかもそれを、まるで当然のように始めている。
危うい。
あれを放っておけば、有馬の海筋に必ず影が差す。
だが今日は、仕方がない。
晴純は、己の船の舳先へ戻ると、低く言った。
「帰る」
供の者どもはすぐ動いた。
誰も余計なことを問わぬ。問わぬのがよい。
船が沖へ返り始めても、晴純はしばらく後ろを見ていた。
惟種船は追ってこない。追ってこぬことが、かえって嫌であった。あれはまだ、自分の船と海の理を測っている段であり、今日のところ有馬と刃を交えるつもりがない。つまり、もっと先で本当に来るつもりなのだ。
*
惟種もまた、有馬の敵意を感じていた。
言葉の端ではない。
もっと生のものだった。
海の上で晴純がこちらを見る目の中に、一瞬だけあった。
計る目でも、試す目でもない。殺せるかどうかを量る目である。
短い、ほんの一拍でしかなかった。
だが惟種には、それで十分であった。
いま、あの男は本気でこちらを危ういと思った。
そして同時に、今日の手勢では足りぬとも思った。
だから退いた。
親英が、晴純の船影が遠ざかってからようやく言った。
「敵意がございましたな」
「うむ」
「危ういところでございましたか」
「今すぐ斬りかかるほどではなかった。だが、考えはした」
親英は、それ以上は聞かなかった。
若君がそこまで言うなら、それで足りる。
惟種は河口へ戻るよう命じた。
惟豊と宗運には、早いうちに伝えねばならぬ。船がひとまず使えることより、むしろ有馬がどこまで脅威を覚えたかの方が、今日の収穫としては大きい。
館へ戻り、惟豊と宗運の前に座した時、惟種はまず有馬の来訪と、そのやり取りを手短に告げた。惟豊は重く聞き、宗運は細かな言葉の置き方まで確かめた。
「敵意があったか」
惟豊が問う。
「ございました」
惟種は答えた。
「今この場で亡き者にすることまで、一瞬は考えたはずです」
宗運の目がわずかに細くなる。
「されど、手勢が足りぬと見て退いた」
「はい」
そこで惟種は、一度言葉を切った。
「これから、有馬と諍いが起こるやもしれませぬ。その時 今の船では、まだ足りませぬ」
惟豊が黙って聞く。
宗運もまた、口を挟まぬ。
「今日、使えることは分かりました」
惟種は続ける。
「大筒も、まだ飛距離は足りませぬが、船上で撃てて、船も持ちました。旋回筒も、大鉄砲も、焙烙玉も、近い水では役に立ちましょう」
「うむ」
「されど、有馬を倒すには、これではまだ足りませぬ」
宗運が、そこで初めて問うた。
「どれほど要ります」
惟種は、河口で船を見た時から胸の内に組み始めていた算段を、そのまま言葉へ移した。
「まず、主力艦が要ります」
「主力艦」
「今の船を土台に、もっと速く、もっと腰の死なぬ船です。筒を載せても沈まず、荒れた海でも戻る船。関船の速さを残しつつ、もっと芯の通った船です」
惟豊が静かに聞いている。
「数は」
「十では足りませぬ。十五、いや二十は欲しい」
宗運の眉がわずかに動く。
だが驚きはしない。若君が海を見始めた時から、いずれそれくらいは言うと半ば分かっていたからである。
「その脇を固める随伴艦が要ります。今の十三間級を基にした関船を五十」
「五十」
「さらに、小早を二百以上」
惟豊が初めて短く息を吐いた。
「多いな」
「有馬の海を折るなら、少なくともそれだけは要ります」
惟種は答えた。
「相手は海筋を知っております。潮も、港も、船頭も、海路も、皆持っている。これを一艘二艘の物好きな新船で脅かすことは出来ても、奪うことは出来ませぬ」
宗運が、低く言った。
「質だけでも足りぬ、と」
「はい」
「数も要る」
「はい」
惟種は、そこからさらに続けた。
「主力艦は、今より大きくせねばなりませぬ。十五間、いや二十間近くまで見たい。筒も数門載せる。今の軽大筒だけでは足りませぬ。大友が持つ国崩しほどとまでは申せぬが、それに近いものを、もっと早く揃えねばならぬ」
惟豊は黙っている。
若君の目が、もう一艘の試作ではなく、艦隊を見ていると分かったからである。
「和船の足は捨てませぬ」
惟種は言う。
「されど、今のままでは海で軽すぎます。もっと芯を通す。波へ当たった時、船が起き戻るようにする。筒を積んでも腰が死なぬようにする」
「船底の作りから違えるのだな」
宗運が問う。
「はい」
惟種は頷く。
「今やっているのは、入口にございます。有馬を本当に倒す船は、まだ先です」
座が静まった。
有馬晴純は危機感を覚えた。
そして惟種もまた、相手がなぜ危機感を覚えたかを知った。
今の船は脅威の芽ではある。だが、まだ有馬の海そのものを奪うには足りぬ。
足りぬからこそ、これから作る。
惟種は、最後に低く言った。
「有馬は、もうこちらを放ってはおきませぬ」
惟豊が頷く。
「よかろう。ならば、放っておけぬほどになれ」
その一言は重かった。
宗運もまた、静かに続けた。
「急ぐべきは、船の数と、船を扱う衆にございますな」
「はい」
惟種は答えた。
汪洋衆。
まだ名だけで、実は伴っておらぬ。
だが、森羅衆が陸の理なら、海にもまた同じだけの理が要る。船を増やし、筒を増やし、海の上で三人一組の動きが出来るようになれば、あの名もやがて名ばかりではなくなる。
六月の末、有明海はなお穏やかである。
だが、その穏やかさの下で、有馬は阿蘇を敵として見始め、阿蘇は有馬を倒すために何が足りぬかを数え始めた。
海の争いは、まだ始まっていない。
しかし理はすでに、静かに刃の形を取り始めていた。




