表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
火の山の若君は、未来を夢に見る ~阿蘇家嫡流の若君、名臣甲斐宗運と乱世を切り拓く~  作者: アトラス


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

84/112

第八十五話 海へ出るもの

 天文十七年(一五四八年)六月の末、矢部川河口は、ただの川口ではなくなりつつあった。


 まだ外から見れば、船台が並び、材木が積まれ、鍛冶の音と大工の声が絶えぬ、騒がしい河口にすぎぬ。だが中に入ってみれば、それが単なる普請ではないことはすぐに分かる。木を組む手つきも、釘を打つ間も、帆柱を立てる順も、皆どこか従来の船造りと違っていた。何かを少し良くするための工夫ではない。最初から、別の理で船を作ろうとしている手つきである。


 その日、ついに試作艦が一艘、河口より海へ出ることになった。


 全長十三間ほど。

 幅は三間にわずかに足らぬ。

 従来の川海兼用船よりひと回り大きく、しかしただ太いだけではない。船腹は深く、船首はやや高く、板の張り方にも、肋の入れ方にも、今までの船にはない粘りがあった。河口を上り下りできるだけの浅さを残しつつ、海へ出ても腰が死なぬよう、何度も大工と船頭と鍛冶が口を戦わせて、ようやくここまで持ってきた船である。


 武装もまた、まだ手探りながら、明らかに従来とは違っていた。


 船首に軽大筒一門。

 左右には小さな旋回筒を一つずつ。

 甲板には大鉄砲が数挺。

 焙烙玉を収めた箱があり、接舷用の鉤と長柄も揃っている。


 とりわけ船首の大筒は、惟種が最も気を揉んだところであった。


 知識はある。

 だが現物がない。

 書きつけも、図面も、前世の記憶だけである。

 鍛冶にこう言えば、鍛冶は鍛冶なりに形にする。火薬も、鉄も、木も、この家にはある。だが、あるからといってすぐ物になるわけではない。筒は裂け、火薬は強すぎれば筒を割り、弱ければ弾は飛ばぬ。船に載せればなお面倒で、反動がどれほど来るか、撃ったとき船首がどう沈むか、誰にも分からなかった。


 少弐戦には、結局間に合わなかった。


 間に合わなかったというより、間に合わせずに済ませたという方が近い。あの段では、まだ兵の命を預けられる代物ではなかったからである。惟種自身、それは認めざるを得なかった。


 ゆえに今日が、初めての本当の試しであった。


 乗るのは森羅衆と、惟種、そして甲斐親英である。


 種茂が今はそばにおらず、かわって惟種の近くにいるのが親英であった。親英は熱に走る男ではない。目の前の新しさに呑まれず、何が使え、何がまだ危ういかを冷ややかに見られる男である。惟種は、こういう試しにはその手の目が要ると知っていた。


 船べりに立っていた親英が、河口の風を受けながら言った。


「見たところは船にございますな」


「見たところだけなら、な」


 惟種が答える。


「中まで船であればよいが」


 親英は口元だけで笑った。


「若君がそのように仰せなら、まだ半ばは木の塊でございますか」


「半ばどころではない。だが木の塊でも、浮いて進んで撃てるなら、もう木の塊では済まぬ」


 親英は、そこであらためて船首の大筒を見やった。


「これが」


「うむ」


「何ともまあ、物騒な」


「お前がそう言うなら、形だけはそれらしくなったのだろう」


「形だけ、でございますか」


「まずはな」


 惟種は素直に言った。


「遠くはまだ撃てぬ。狙いも甘い。雨風が強ければ火の持ちも怪しい。だが、船に載せて、船ごと壊れず戻れるところまで来たなら、それだけでもようやった方だ」


 甲板のあちこちでは、森羅衆が手早く持ち場を確かめていた。


 二人が前で受け、一人が補う。

 それは陸でも海でも変わらぬ。

 ただ海では、その補いが火薬であり、焙烙玉であり、船足を見る目でもある。


 まだ正式に名はない。

 水の上の森羅衆、などと冗談めかして呼ぶ者もいた。汪洋衆という仰々しい名を口にした者もいたが、惟種はそれをまだ認めていない。ひとまずは、船の上で森羅衆の理がどこまで通るかを見る段である。


 船には、すでに別の名が勝手についていた。


 惟種船。


 惟種はその名を嫌がった。船は大工が作り、鍛冶が鍛え、船頭が見、兵が使って初めて船になる。若君一人の名を負わせるのは違う、と何度も言った。だが河口の人足も、大工も、鍛冶も、船頭も、結局はそう呼んだ。


 若君の理で出来た船。

 若君が海へ出そうとしている船。

 ならば惟種船であろう、と。


 嫌だと言っても改まらぬ。惟種もそのうち、半ば諦めた。


 進水そのものは、もう済んでいた。

 今日はそこから一歩進み、本当に有明海へ出して、どこまで扱えるかを見るのである。


 風は悪くなかった。

 川口から開けた水面へ出るには、試しにはちょうどよい。


「出せ」


 惟種が言うと、船頭衆が声を返し、艪がゆっくりと水を噛んだ。


 船体が、まず重く動く。

 それから、思ったより素直に前へ出た。


 河口を抜けるまでは慎重である。水の流れは複雑で、砂の溜まり方も日ごとに違う。まして試作艦とあっては、船頭衆もいつも以上に船底を気にしていた。だが浅瀬を抜け、船首が開けた水へ向いた瞬間、その感触が変わった。


 親英の目が、わずかに動いた。


「……違いますな」


「何がだ」


「腰が死にませぬ」


 親英は言った。


「従来の船なら、これだけ積めばもっと鈍うございましょう。だがこれは、重いまま前へ出る。重いのに、重さで溺れておりませぬ」


 船頭の一人も、思わず振り返った。


「たしかに」


 年嵩の船頭であった。何十年もこの海口で船を見てきた顔である。


「川船に毛の生えたようなものかと思うておりましたが、違います。海へ出た時の腹の持ちようが、今までの船と違う」


 惟種は何も言わなかった。

 言わなかったが、胸の内では少しだけ詰めていた息を緩めた。


 大げさな奇跡など要らぬ。

 今の段で要るのは、従来の船と違う、という実感だけである。速さが圧倒的でなくともよい。遠洋へそのまま出られなくともよい。ただ、河口と海のあいだを、荷と兵と火薬を積んだまま、もう少し自在に行き来できる。その手応えさえあれば、あとは改めてゆける。


 惟種は、船首の大筒へ目を向けた。


「試すぞ」


 船上の空気が変わる。


 この日の本当の目的は、ここである。

 船は動いた。船足も悪くない。だが、大筒が使えねば、この船はまだただの少し変わった輸送船でしかない。


 船頭が進みを緩め、合図が走る。

 火薬が運ばれ、弾が込められ、火縄が用意される。


 誰もが手際は慎重であった。

 慣れていないからではない。慣れていないことを知っているから慎重なのである。


 惟種は横に立つ親英へ言った。


「外れようが、飛ばなかろうが、笑うなよ」


「それはお約束できませぬ」


「そうか」


「ただし、船ごと割れたら笑う間もありますまい」


「縁起でもないことを言う」


 そう言いながら、惟種もまた、完全に笑う気にはなれなかった。


 火が移る。


 次の瞬間、大筒は思ったより低く、重い音で吠えた。


 甲板が、どん、と足の裏へ返ってくる。

 船首が一つ沈み、わずかに右へ振られる。

 だが割れぬ。裂けぬ。船体も、据えた台も、持ちこたえた。


 弾は狙いよりやや近く、水面を荒く打った。

 飛距離そのものは、惟種の望んだほどではない。

 だが、まるで使い物にならぬというほどでもなかった。


 白く残る煙を見ながら、親英がまず言った。


「……案外」


 そこで一度切る。


「いけるのではありませぬか」


 惟種は、ようやく息を吐いた。


「案外、で済ませるか」


「十分に褒めております」


「褒めているようには聞こえぬ」


「若君は高く求めすぎるのです」


 親英は言った。


「船の上で撃った。船は割れぬ。火縄も飛ばぬ。弾も前へ出た。狙いはまだ甘い。飛距離も足りぬ。されど、使えぬと申すほどではない。今はそれで十分にございましょう」


 船頭衆も、大工も、森羅衆も、誰も大声では騒がなかった。

 だが甲板に流れる空気は、撃つ前と明らかに違っていた。


 出来ぬものではなかった。

 まだ粗い。

 だが粗いなりに、形にはなっている。


 それが皆に分かったのである。


「もう一度」


 惟種が言う。


「今度は旋回筒も試す。焙烙玉も投げさせろ。船の揺れの中で、どこまで出来るかを見たい」


「は」


 命が飛び、動きが始まる。


 こういう時、森羅衆は強いと惟種はあらためて思った。海に慣れぬ者もいる。だが命の受け方、持ち場の替え方、二人が前で、一人が補うという理は、水の上でも崩れにくい。船の上での働きをさらに詰めれば、確かに陸の森羅衆と対になるものが出来るやもしれぬ。


 その考えが、惟種の胸に一度だけよぎる。


 汪洋衆。


 誰かがそう呼んだ名を、惟種はまだ正式には取らぬつもりでいた。

 だが、呼び名に見合う働きがこの先ほんとうに出来るなら、いずれはその名も悪くないかもしれぬ、と初めて少し思った。


 その時である。


 見張りに立っていた者が、沖を指して声を上げた。


「船影!」


 甲板の空気が一段締まる。


 惟種もそちらを見た。

 有明海のかすかな霞の向こう、こちらへ寄って来る船がある。一艘ではない。付き従う小舟も見える。だが警戒して散る形ではなく、むしろ見せるように整っていた。


 親英が目を細める。


「このあたりの漁船ではございませぬな」


「うむ」


 惟種は短く答えた。


 船頭衆の一人が、低く言った。


「あれは……高来筋の船に見えます」


 高来。


 惟種の胸の内で、名がすぐに形になる。


 有馬か。


 河口で試作艦が形になったこと。

 阿蘇が海を使う気であること。

 それを、もうどこかで嗅ぎつけたのであろう。


 惟種は、近づいてくるその船影を見た。


 祝いに来たのか。

 見物に来たのか。

 それとも、この船が何を変えるものかを見定めに来たのか。


 まだ分からぬ。

 だが一つだけ、もう分かることがある。


 海もまた、阿蘇を放ってはおかぬようになった。


 惟種船の船首に、まだ撃ったばかりの大筒の煙が薄く残っていた。

 その煙の向こうから、有馬方の船が、静かに、しかしまっすぐこちらへ寄って来ていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

同作者の別連載
『異世界エンゲージ ~毎日のパック開封でカード使いは帰還を目指す~』
こちらも覗いていただけると嬉しいです。

― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ