第八十五話 海へ出るもの
天文十七年(一五四八年)六月の末、矢部川河口は、ただの川口ではなくなりつつあった。
まだ外から見れば、船台が並び、材木が積まれ、鍛冶の音と大工の声が絶えぬ、騒がしい河口にすぎぬ。だが中に入ってみれば、それが単なる普請ではないことはすぐに分かる。木を組む手つきも、釘を打つ間も、帆柱を立てる順も、皆どこか従来の船造りと違っていた。何かを少し良くするための工夫ではない。最初から、別の理で船を作ろうとしている手つきである。
その日、ついに試作艦が一艘、河口より海へ出ることになった。
全長十三間ほど。
幅は三間にわずかに足らぬ。
従来の川海兼用船よりひと回り大きく、しかしただ太いだけではない。船腹は深く、船首はやや高く、板の張り方にも、肋の入れ方にも、今までの船にはない粘りがあった。河口を上り下りできるだけの浅さを残しつつ、海へ出ても腰が死なぬよう、何度も大工と船頭と鍛冶が口を戦わせて、ようやくここまで持ってきた船である。
武装もまた、まだ手探りながら、明らかに従来とは違っていた。
船首に軽大筒一門。
左右には小さな旋回筒を一つずつ。
甲板には大鉄砲が数挺。
焙烙玉を収めた箱があり、接舷用の鉤と長柄も揃っている。
とりわけ船首の大筒は、惟種が最も気を揉んだところであった。
知識はある。
だが現物がない。
書きつけも、図面も、前世の記憶だけである。
鍛冶にこう言えば、鍛冶は鍛冶なりに形にする。火薬も、鉄も、木も、この家にはある。だが、あるからといってすぐ物になるわけではない。筒は裂け、火薬は強すぎれば筒を割り、弱ければ弾は飛ばぬ。船に載せればなお面倒で、反動がどれほど来るか、撃ったとき船首がどう沈むか、誰にも分からなかった。
少弐戦には、結局間に合わなかった。
間に合わなかったというより、間に合わせずに済ませたという方が近い。あの段では、まだ兵の命を預けられる代物ではなかったからである。惟種自身、それは認めざるを得なかった。
ゆえに今日が、初めての本当の試しであった。
乗るのは森羅衆と、惟種、そして甲斐親英である。
種茂が今はそばにおらず、かわって惟種の近くにいるのが親英であった。親英は熱に走る男ではない。目の前の新しさに呑まれず、何が使え、何がまだ危ういかを冷ややかに見られる男である。惟種は、こういう試しにはその手の目が要ると知っていた。
船べりに立っていた親英が、河口の風を受けながら言った。
「見たところは船にございますな」
「見たところだけなら、な」
惟種が答える。
「中まで船であればよいが」
親英は口元だけで笑った。
「若君がそのように仰せなら、まだ半ばは木の塊でございますか」
「半ばどころではない。だが木の塊でも、浮いて進んで撃てるなら、もう木の塊では済まぬ」
親英は、そこであらためて船首の大筒を見やった。
「これが」
「うむ」
「何ともまあ、物騒な」
「お前がそう言うなら、形だけはそれらしくなったのだろう」
「形だけ、でございますか」
「まずはな」
惟種は素直に言った。
「遠くはまだ撃てぬ。狙いも甘い。雨風が強ければ火の持ちも怪しい。だが、船に載せて、船ごと壊れず戻れるところまで来たなら、それだけでもようやった方だ」
甲板のあちこちでは、森羅衆が手早く持ち場を確かめていた。
二人が前で受け、一人が補う。
それは陸でも海でも変わらぬ。
ただ海では、その補いが火薬であり、焙烙玉であり、船足を見る目でもある。
まだ正式に名はない。
水の上の森羅衆、などと冗談めかして呼ぶ者もいた。汪洋衆という仰々しい名を口にした者もいたが、惟種はそれをまだ認めていない。ひとまずは、船の上で森羅衆の理がどこまで通るかを見る段である。
船には、すでに別の名が勝手についていた。
惟種船。
惟種はその名を嫌がった。船は大工が作り、鍛冶が鍛え、船頭が見、兵が使って初めて船になる。若君一人の名を負わせるのは違う、と何度も言った。だが河口の人足も、大工も、鍛冶も、船頭も、結局はそう呼んだ。
若君の理で出来た船。
若君が海へ出そうとしている船。
ならば惟種船であろう、と。
嫌だと言っても改まらぬ。惟種もそのうち、半ば諦めた。
進水そのものは、もう済んでいた。
今日はそこから一歩進み、本当に有明海へ出して、どこまで扱えるかを見るのである。
風は悪くなかった。
川口から開けた水面へ出るには、試しにはちょうどよい。
「出せ」
惟種が言うと、船頭衆が声を返し、艪がゆっくりと水を噛んだ。
船体が、まず重く動く。
それから、思ったより素直に前へ出た。
河口を抜けるまでは慎重である。水の流れは複雑で、砂の溜まり方も日ごとに違う。まして試作艦とあっては、船頭衆もいつも以上に船底を気にしていた。だが浅瀬を抜け、船首が開けた水へ向いた瞬間、その感触が変わった。
親英の目が、わずかに動いた。
「……違いますな」
「何がだ」
「腰が死にませぬ」
親英は言った。
「従来の船なら、これだけ積めばもっと鈍うございましょう。だがこれは、重いまま前へ出る。重いのに、重さで溺れておりませぬ」
船頭の一人も、思わず振り返った。
「たしかに」
年嵩の船頭であった。何十年もこの海口で船を見てきた顔である。
「川船に毛の生えたようなものかと思うておりましたが、違います。海へ出た時の腹の持ちようが、今までの船と違う」
惟種は何も言わなかった。
言わなかったが、胸の内では少しだけ詰めていた息を緩めた。
大げさな奇跡など要らぬ。
今の段で要るのは、従来の船と違う、という実感だけである。速さが圧倒的でなくともよい。遠洋へそのまま出られなくともよい。ただ、河口と海のあいだを、荷と兵と火薬を積んだまま、もう少し自在に行き来できる。その手応えさえあれば、あとは改めてゆける。
惟種は、船首の大筒へ目を向けた。
「試すぞ」
船上の空気が変わる。
この日の本当の目的は、ここである。
船は動いた。船足も悪くない。だが、大筒が使えねば、この船はまだただの少し変わった輸送船でしかない。
船頭が進みを緩め、合図が走る。
火薬が運ばれ、弾が込められ、火縄が用意される。
誰もが手際は慎重であった。
慣れていないからではない。慣れていないことを知っているから慎重なのである。
惟種は横に立つ親英へ言った。
「外れようが、飛ばなかろうが、笑うなよ」
「それはお約束できませぬ」
「そうか」
「ただし、船ごと割れたら笑う間もありますまい」
「縁起でもないことを言う」
そう言いながら、惟種もまた、完全に笑う気にはなれなかった。
火が移る。
次の瞬間、大筒は思ったより低く、重い音で吠えた。
甲板が、どん、と足の裏へ返ってくる。
船首が一つ沈み、わずかに右へ振られる。
だが割れぬ。裂けぬ。船体も、据えた台も、持ちこたえた。
弾は狙いよりやや近く、水面を荒く打った。
飛距離そのものは、惟種の望んだほどではない。
だが、まるで使い物にならぬというほどでもなかった。
白く残る煙を見ながら、親英がまず言った。
「……案外」
そこで一度切る。
「いけるのではありませぬか」
惟種は、ようやく息を吐いた。
「案外、で済ませるか」
「十分に褒めております」
「褒めているようには聞こえぬ」
「若君は高く求めすぎるのです」
親英は言った。
「船の上で撃った。船は割れぬ。火縄も飛ばぬ。弾も前へ出た。狙いはまだ甘い。飛距離も足りぬ。されど、使えぬと申すほどではない。今はそれで十分にございましょう」
船頭衆も、大工も、森羅衆も、誰も大声では騒がなかった。
だが甲板に流れる空気は、撃つ前と明らかに違っていた。
出来ぬものではなかった。
まだ粗い。
だが粗いなりに、形にはなっている。
それが皆に分かったのである。
「もう一度」
惟種が言う。
「今度は旋回筒も試す。焙烙玉も投げさせろ。船の揺れの中で、どこまで出来るかを見たい」
「は」
命が飛び、動きが始まる。
こういう時、森羅衆は強いと惟種はあらためて思った。海に慣れぬ者もいる。だが命の受け方、持ち場の替え方、二人が前で、一人が補うという理は、水の上でも崩れにくい。船の上での働きをさらに詰めれば、確かに陸の森羅衆と対になるものが出来るやもしれぬ。
その考えが、惟種の胸に一度だけよぎる。
汪洋衆。
誰かがそう呼んだ名を、惟種はまだ正式には取らぬつもりでいた。
だが、呼び名に見合う働きがこの先ほんとうに出来るなら、いずれはその名も悪くないかもしれぬ、と初めて少し思った。
その時である。
見張りに立っていた者が、沖を指して声を上げた。
「船影!」
甲板の空気が一段締まる。
惟種もそちらを見た。
有明海のかすかな霞の向こう、こちらへ寄って来る船がある。一艘ではない。付き従う小舟も見える。だが警戒して散る形ではなく、むしろ見せるように整っていた。
親英が目を細める。
「このあたりの漁船ではございませぬな」
「うむ」
惟種は短く答えた。
船頭衆の一人が、低く言った。
「あれは……高来筋の船に見えます」
高来。
惟種の胸の内で、名がすぐに形になる。
有馬か。
河口で試作艦が形になったこと。
阿蘇が海を使う気であること。
それを、もうどこかで嗅ぎつけたのであろう。
惟種は、近づいてくるその船影を見た。
祝いに来たのか。
見物に来たのか。
それとも、この船が何を変えるものかを見定めに来たのか。
まだ分からぬ。
だが一つだけ、もう分かることがある。
海もまた、阿蘇を放ってはおかぬようになった。
惟種船の船首に、まだ撃ったばかりの大筒の煙が薄く残っていた。
その煙の向こうから、有馬方の船が、静かに、しかしまっすぐこちらへ寄って来ていた。




