第八十二話 四年の先
天文十七年(一五四八年)五月。
春はすでに過ぎ、陽は日に日に強くなりつつあった。
だが、館の内に流れる空気は、まだどこか冬の名残のように張っていた。戦が終わったからといって、人の胸のうちまで一度に緩むわけではない。とりわけ此度の勝ちは、ただ一城を落とした勝ちでも、一軍を追い散らした勝ちでもなかった。肥前の筋そのものを折り返し、少弐の家を終わらせた勝ちである。
ゆえに、祝いもまた絶えなかった。
肥後より。
筑後より。
肥前の国衆どもより。
さらには、まだ距離を置いていた者らからまでも、先勝祝いはひっきりなしに届いた。
太刀。馬。布。酒。米。
口では控えめに言いつつ、物は重い。皆、いまこの時に阿蘇へ祝を寄せること自体が、すでに一つの返事になっていると知っているのである。
そうした座を主に受けるのは惟豊であり、宗運であった。
惟豊が家として受け、宗運が言葉をほどき、相手の腹の置きどころを見極める。惟種がそこへ座るのは、必要な時だけであった。だがその「必要な時」が、少しずつ増えていた。
若君へも直接言葉を通しておきたい。
いずれは、この先を担う者へ顔を覚えておかねばならぬ。
あるいは、祝いの裏に含ませた願いを、惟豊よりもむしろ惟種へ向けて伝えたい。
そういう相手には、惟種が座へ出た。
八つの子にしては静かすぎる。
だが、ただ黙っているのではない。何を言えば相手が一歩深く出てきて、何を言わねば余計な腹を見せずに済むかを、もう少しずつ覚え始めている。惟豊も宗運も、それをよく分かっていたから、必要なところだけ惟種を座へ入れた。
館の外でもまた、物事は休みなく進んでいた。
肥前、並びに旧少弐領の再編は、すでに動き始めている。
筑後の時と同じであった。取った地にただ兵を置くだけでは治まらぬ。田を起こし、蔵を開き、道を通し、荒れた村へ人を戻し、秋まで持つよう米と銭を先に入れる。阿蘇は、そういう時のための財を、もう持っていた。
惜しまず使うべきところでは使う。
戻る土地には戻る理を。
残る者には残る理を。
それを早く示せば、民は驚くほど早く静まる。
筑後でそうであったように、肥前でもまた同じことが起きつつあった。
城番は入れ替えられ、旧少弐の者らは阿蘇のやり方を覚え始め、龍造寺の旧領でも蔵と田の改めが進む。騒ぎのあとへ、すぐ秩序が入る。勝ったあとの家の太さとは、結局そこに出る。
そうして館の内外がようやく少し落ち着いた頃、惟種は久しく失っていた時を一つだけ取り戻した。
加世と、あらためて二人きりになる時である。
帰ってきた時に言葉は交わした。
無事を伝え、戻ったことを告げ、加世もまた留守居としての務めを果たしたことを言った。だが、あれは帰還の言葉であって、落ち着いて座す言葉ではなかった。帰る者も迎える者も、まだ戦の熱を体に残していたからである。
今は違う。
まだ五月とはいえ、館の庭はすでに柔らかい緑を増していた。
風は静かで、障子を開ければ若葉の匂いが入る。遠くでは人の声もする。だがその声は、もはや戦の声ではなく、日々を立て直す者らの声であった。
加世は、その一間に先に座していた。
まだ十二の姫である。
けれど、ただ幼いだけの顔ではなかった。此度の留守居で、蔵も、文も、寺も、負傷者の受け入れも、女房衆も、ひととおり目を通した。その経験が、幼さの上にひと枚、見えぬものを加えていた。
惟種が入ると、加世は静かに頭を下げた。
「お待ちしておりました」
「待たせたな」
「よいのです」
そう答える声にも、以前より少しだけ落ち着きが増していた。
惟種は加世の向かいへ座した。
二人のあいだにあるのは、まだ夫婦の近しさではない。だが、ただの子ども同士とも違う。言葉の置き方ひとつで、これから先の家のかたちまで変わり得る位置に、二人はもういた。
しばらくは、取り留めのない話をした。
館に届いた祝いの品のこと。
筑後から戻った使者が、向こうの村々の落ち着きが早いと伝えてきたこと。
肥前でも、阿蘇の蔵を開いたところは民の顔つきが違うこと。
加世は留守居の立場から聞いたことを話し、惟種は評定の脇で見たことをぽつりぽつりと返した。
それだけでも、不思議と久しぶりであった。
戦の前と後では、同じ言葉を交わしても重さが違う。
互いが互いに、ただそこにいるだけで少し安心する、そういう沈黙が間に落ちるのも、今は心地よかった。
やがて、加世が問うた。
「若君は、お疲れにございますか」
「疲れておる」
惟種は、すぐに答えた。
加世が少しだけ目を見張る。
この人は、こういう問いに素直に答えることがあまりない。
「されど」
惟種は続けた。
「疲れておるからといって、止まるわけにもいかぬ」
加世は黙って聞いている。
「いま止まれば、此度の勝ちが薄くなる。肥前も、筑後も、せっかく戻し始めた形がまた揺らぐ」
「はい」
「だから動く」
加世は、その言葉に小さく頷いた。
分からぬわけではなかった。この人はそういう人だ。勝って終わるのではなく、勝ったあとにさらに遠くを見る。
惟種は、少しだけ外へ目をやった。
「肥前で終わるつもりはない」
その一言で、加世の姿勢がわずかに改まった。
これは日々の話ではない。
先の話だ。
もっと遠い話である。
「北の筋は、いずれ皆こちらの手の内へ入れる」
惟種の声は静かであった。
だが、静かであるぶんだけ、冗談ではないことがよく分かる。
「西の海口も、東の大友も、対馬の宗もだ。相良も、有馬も、大村も、松浦も、皆いずれは阿蘇の傘の下へ収める」
加世は、じっと惟種を見た。
八つの子が言うには、あまりに大きい話である。
だがこの人は、河口でまだ形にもならぬ船台を見ながら、海のその先を語った。筑後を取る前から、すでにその次を見ていた。だから加世には、この言葉もまた、ただの子どもの大言には聞こえなかった。
「南は島津に任せる」
惟種は言った。
「薩摩、大隅、日向。三州は、島津が持てばよい」
加世の目が、そこでほんのわずかに和らいだ。
「わたくしの家にございますれば」
「うむ」
「南を島津が受け、北を阿蘇が受ける、と」
「そうだ」
惟種は頷いた。
「そうなれば九州はほぼ二つで収まる。無用に食い合うより、その方が早い」
それは単なる夢想ではなく、すでに惟種の中で筋立った絵であった。
南は島津。
北は阿蘇。
その二つが手を取り、九州の大勢を定める。
そして、惟種はそこで終わるつもりもなかった。
「九州が収まれば、そこで止まる気もない」
加世は、黙ったままその先を待った。
「阿蘇は海へ出る」
惟種の目は、もう庭を見ていない。
その向こうを見ていた。
「中国も、四国も、いずれ手を伸ばす。そのために港を作り、財をため、兵を変える」
加世は、その言葉を胸のうちで反芻した。
中国。
四国。
島津の姫として生まれた身であっても、そうそう容易に口にはせぬ広さである。
だが不思議と、怖ろしいとは思わなかった。
無茶だとも思わなかった。
あまりに遠く、大きく、それでいてこの人の中ではすでに一本の線になっているように感じられたからである。
惟種は、そこで初めて加世へまっすぐ目を向けた。
「四年」
加世の目が少しだけ瞬く。
「四年もあれば、いまよりずっと形は変わる」
「はい」
「その頃には、そなたをきちんと迎えたい」
言葉は短く、飾りがなかった。
だが、それで十分に重い。
「ただ館の内へ置くのではない。家として、正式に迎える形を整えたい」
加世は、すぐには答えられなかった。
十二の姫である。
その四年後となれば、いまよりはるかに「家の女」として見られる年になる。島津の姫として、それがどういう意味を持つかを知らぬわけではない。
惟種は言葉を継いだ。
「その頃には、北の筋もだいぶ手に入れておきたい」
それは、先ほどの構想の続きであった。
「今よりもっと重い家になる。敵も増える。抱えるものも、館の内に入るものも、今とは比べものにならぬ」
加世はじっと聞いている。
「それでも」
惟種は、そこでほんのわずかに声を落とした。
「そこまで、ついて来てくれるか」
それは軽い問いではない。
幼い姫に向けた甘えでもない。
自分がどこまで家を押し広げるつもりかを見せたうえで、その内を共に支えられるか、と問う声であった。
加世は、すぐには答えなかった。
十二の身で、四年先のすべてが分かるわけではない。
中国も四国も、九州を二つに分けることも、言葉としては聞けても、その重みのすべてまではまだ掴み切れぬ。
けれど一つだけ、はっきり分かることがあった。
この人は、本気でそこまで行こうとしている。
そして、ただ行くつもりではなく、自分もその内側へ呼び入れようとしている。
加世は、ゆっくりと背を正した。
「まだ四年の先までは、わたくしにもよう分かりませぬ」
惟種は黙って聞いている。
「されど」
加世の声は、年若い姫の声でありながら、どこか静かな芯を持っていた。
「若君がお進みになるなら、わたくしも途中で離れは致しませぬ」
惟種の目が、ほんの少しだけ細くなった。
「若君が北をお取りになるなら、わたくしはその頃には、もう少し内を支えられるようになっております」
加世は続ける。
「南を島津が受け、北を阿蘇が受けるというなら、なおのこと、わたくしが退くわけには参りませぬ」
それは島津の姫としての言葉でもあった。
同時に、阿蘇に入った者としての言葉でもあった。
「四年ののち、若君がきちんと迎えて下さるというなら」
そこで、加世はほんの少しだけ口元をやわらげた。
「わたくしも、その時に恥ずかしゅうないようになっておきます」
惟種は、その言葉をしばらく黙って受けていた。
まだ十二の姫である。
けれど、ただ守られるだけの姫ではない。南と北のあいだに立つ意味を知り、しかもそこから逃げぬと言う。そのことが、惟種には不思議なほど心強かった。
「よい」
やがてそう言った。
「それでよい」
それだけで、加世には十分であった。
長く言葉を重ねぬのは、この人のいつもの癖である。
だが短いからこそ、そこに嘘がないこともまた分かっていた。
しばらくして、二人のあいだに静かな沈黙が落ちた。
外では、まだ人が動いている。
肥前の再編は続き、旧少弐領の城番は入れ替わり、龍造寺の旧領でも蔵が開かれ、鍋島の新しい置き場も定まりつつある。館には祝いが絶えず、惟豊と宗運は今日もまた誰かを迎えているであろう。
平穏とはいえ、何も止まってはいない。
ただ、動いているすべてが、ようやく一つの大きな流れへ収まり始めているだけである。
惟種は、その流れの先を見ていた。
加世は、その流れの内を支える側へ、自ら足を置こうとしていた。
まだ幼い二人である。
だが、幼いからといって見ている先まで小さいわけではなかった。
五月の風が、庭の若葉を揺らした。
その揺れの向こうで、阿蘇の家は少しずつ九州の北を呑み込みつつある。
そして、そのさらに先を、もう一人の姫と若君が静かに約し始めていた。
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