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火の山の若君は、未来を夢に見る ~阿蘇家嫡流の若君、名臣甲斐宗運と乱世を切り拓く~  作者: アトラス


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第八十話 返し終えたもの

 戦が終わった時、人はようやく己の傷を知る。


 斬られたその場では立っていた者が、勝敗の定まったのち、ふいに崩れることがある。気の張りが肉をつなぎ、役目が血を留めていたにすぎぬからだ。役目が終われば、体はもう誤魔化しに従わぬ。


 鍋島清房が本陣近くへ運び込まれた時、夜はすでに明け切っていた。


 少弐は降った。

 旗は伏せられ、槍は収められ、残る者どもは小田政光を先に立てて命を乞う道へ移っている。戦の理は、もう片づいていた。


 だが、清房の体だけがまだ戦のうちにあった。


 脇腹の傷は、馬場頼周の太刀が深く入ったものだった。夜のうちは馬上に踏みとどまり、冬尚隊を抑えるところまで持った。持ったのは、気力である。気力が切れ、具足の紐を緩めた途端、溜まっていた血が一気に滲み出た。


 宗運がすぐに手当を命じ、薬も布も尽くされた。

 だが、見た者は皆、もう助からぬと知った。


 清房自身も、知っていた。


「信房を……呼べ」


 声は、まだ途切れてはいなかった。

 だが、腹の底から出る声ではもうない。


「種茂もだ。鍋島に連なる者、来られる者は皆、来させよ」


 信房はすぐに来た。

 具足を半ば解いたばかりで、袖にも裾にもまだ血がついている。父の枕元へ進むその足取りは静かであったが、膝をついた瞬間、押し殺していたものがわずかに揺れた。


「父上」


「おるか」


「は」


 その少し後ろに、種茂が来た。

 鍋島に連なる者どもも、一間の端へ音を立てぬよう控えた。皆、戦が終わった顔をしていなかった。終わったのに、終わっていない。そういう朝の顔である。


 清房は、しばらく目を閉じていた。

 開けば、まず信房を見、次いで種茂を見た。


「……よう生き残った」


 まずその一言であった。


 大げさな褒めでもなければ、取り立てて情をこぼす声でもない。

 ただ、それだけで十分であった。


 信房が深く頭を下げる。


「父上こそ」


「わしは、ここまでだ」


 清房は平らに言った。


 信房が何か言いかけたが、清房はわずかに首を振った。


「言うな。分かっておる」


 その声に、もう逆らえる者はいない。


 間のうちに、しばし沈黙が落ちた。

 外ではまだ、馬のいななきと人の足音が続いている。少弐の降伏を受け、敵味方の死者を分け、戦場を戦場から政の場へ戻すための音である。


 清房はその音を聞きながら、低く言った。


「龍造寺への恩は……此度で返した」


 信房の背が、わずかに張る。

 種茂もまた、息を呑んだ。


 清房は続ける。


「家が地へ戻る、その初めの戦で、少弐を折った。馬場も討った。……わしの代で返すべきものは、ここまでよ」


 それは、古い義への決別ではなかった。

 むしろ、その義を最後まで果たし切った者の言葉だった。


「ゆえに、これより先は違う」


 清房は信房を見た。


「鍋島の家として、生きよ」


「……は」


「龍造寺のためだけに生きる時分は、ここで終わる」


 信房は頭を垂れたまま、何も言わなかった。

 言えぬのではない。言わずとも、その重さが分かったからである。


 清房の目が、今度は種茂へ移った。


「種茂」


「はっ」


「お前はもう見ておるな」


 種茂は顔を上げた。

 清房の目は、熱に曇ってなお鋭かった。


「若君の先を」


 その一言で、種茂の胸の奥に、あの日の河口の風がよみがえった。

 まだ形にもならぬ船台を前にして、海の向こうまで見ていた惟種の横顔である。


「……はい」


 種茂は答えた。


「見ました」


「ならば、もう違えるな」


 清房は言う。


「我らが今あるのは、若君のおかげだ」


 部屋の中が静まる。


「龍造寺の残り火を拾い、抱え、ここまで連れて来たのは若君だ。少弐を討つ理を立てたのも、今夜本陣を立て直したのも、みなあのお方の下にある」


 清房は、そこで息を継いだ。

 傷が深い。言葉を続けるだけでも血が減るのが見て取れた。


 それでもなお、言わねばならぬことがある者の顔だった。


「今度は……若君へ返せ」


 信房も、種茂も、顔を上げた。


「若君に仕えよ」


 清房の声は細い。

 だが、その細さの中に、決して揺れぬ芯があった。


「あのお方ならば、鍋島を預けても危うくない」


 そこで初めて、信房の喉が詰まる。


「父上……」


「泣くな」


 清房は短く言った。


「泣くは後でよい。今は聞け」


「……はっ」


 種茂は、膝の上で拳を強く握っていた。

 自分が若君へ心を寄せていることは、もう隠しようもない。だがそれを清房みずから言葉にし、さらに命として置くとは思っていなかった。


 清房はその種茂の顔を見て、ほんのわずか口元を動かした。


「お前の道は、それでよい」


 その一言に、種茂の胸の奥で何かが痛いほどに鳴った。

 許しであり、命であり、そして別れでもあった。


 清房はまた、しばし目を閉じた。

 やがて開くと、今度は信房へではなく、少し遠くを見るように言った。


「……隆信様が気になる」


 部屋の空気が、そこでわずかに変わった。


 家宗ではない。

 隆信である。


 信房も種茂も、その名で何を言わんとしているかを悟った。


「あの目は、ただの忠の目ではない」


 清房は低く続けた。


「大きくなる目だ。人の下にあるだけでは済まぬ目だ」


 誰も口を挟まない。


「よう育てば、大きな柱にもなろう。されど、その大きさが真っ直ぐ阿蘇へ向くとは限らぬ」


 それは悪口ではなかった。

 見立てである。

 古い義を知り、武家の興亡を見てきた者の、冷えた見立てであった。


「今はまだ分からぬ」


 清房は言う。


「分からぬが、もし――もし龍造寺がいずれ阿蘇へ歯向かうようなことがあれば、その時、龍造寺は終わる」


 その一言は重かった。


 阿蘇の勢いを知っているからだ。

 惟種という男が、どこまで先を見ているかを知っているからだ。


「止めねばならぬ」


 種茂が、思わず低く言った。


 清房の目が、ゆっくりとそちらを向く。


「そうだ」


「ならばこそ、鍋島が……」


 種茂の言葉は途中で詰まった。

 龍造寺のそばにいて抑えるべきではないか――そう言いかけたのである。


 だが清房は、かすかに首を振った。


「違う」


 その否定は弱く見えて、少しも弱くなかった。


「鍋島が近くに居れば、止めるつもりが、かえって助長するやもしれぬ」


 信房の目が動く。


「旧恩の家が、脇におる。昔を知る者が、そばで支える。それは時に、諫めになるより先に、安心になる」


 清房は息を継ぐ。


「野心ある者が、なお行けると思えば、それはむしろ火を継ぐ」


 誰も反論できなかった。


 それは冷たい理であった。

 だが、武家の人の動きとは、えてしてそういうものである。


「ゆえに」


 清房の声が、もう一度だけ深くなる。


「鍋島は阿蘇の一員とならねばならぬ」


 信房も、種茂も、背を正した。


「若君の内へ入れ」


 清房は言う。


「阿蘇の内に在ってこそ、いざという時、龍造寺も止められる。近すぎぬからこそ、見えることもある」


 そこでようやく、信房が深く額を畳へつけた。


「承りました」


 声は低く、震えていた。


「鍋島は、若君へ尽くします」


 種茂もまた、同じように頭を下げた。


「必ず」


 その他のものらも、無言のまま額を落とす。

 それは一門の誓いであった。


 清房は、その気配を聞いていた。

 目はもう半ば霞んでいるはずである。だが、言うべきことが届いたと知った者の静けさがあった。


「よい……」


 それは、自分に言ったのかもしれぬ。


 しばらくして、清房はまた口を開いた。


「信房」


「は」


「家を継げ」


 信房の肩が震える。


「鍋島を、細くするな」


「はっ」


「強すぎてもならぬ。細ればもっとならぬ」


「はっ」


「若君の内で、生きよ」


「……はっ」


 信房は、もう顔を上げられなかった。


「種茂」


「はっ」


「お前は近くで働け」


「はい」


「目先の手柄に走るな。若君の見ておる先を、よう見ておれ」


「はっ」


「それが鍋島のためにもなる」


「はい」


 清房の言葉は、そこまでであった。


 息が浅くなる。

 肩で呼吸をするようになり、指先から力が抜けてゆく。


 信房が、思わず一歩膝で進んだ。


「父上」


 その声は、先ほどまでよりはるかに幼かった。


 清房は、ようやく信房を見た。

 そして種茂も見た。

 それから、部屋の端に控える鍋島に連なる者どもの気配へ、わずかに目を向けた。


「……もう、よい」


 口元に、かすかな笑みが差した。


「返し終えた」


 何を、とは言わなかった。

 だがその場にいる誰もが分かった。


 龍造寺への恩。

 鍋島家の古い重荷。

 馬場への恨み。

 それらを、この人はこの一戦で、自分の代のうちに閉じてみせたのだと。


 外では、朝の光がさらに強くなっていた。

 昨夜の火と血の匂いの上へ、新しい日の匂いが薄く重なり始めている。


 清房の目が、ふっと遠くへ向いた。


「若君は……遠くへ行く」


 ほとんど息のような声であった。


「ついて行け……」


 それが最後になった。


 鍋島清房は、その朝、静かに息を引き取った。


 誰も、すぐには声を上げなかった。

 泣き崩れる者もいない。泣けば、この人の最期が軽くなる気がしたからである。


 ただ信房だけが、長く頭を下げたまま動かなかった。

 種茂もまた、額を畳へつけ、拳を強く握っていた。


 外では、戦後の足音がまだ続いている。

 少弐が終わり、肥前の筋がこれから定まろうとする朝であった。


 その朝、鍋島家もまた、清房の死をもって一つの時代を終えた。

 そしてその終わりは、家を細らせる終わりではなかった。


 古い義を返し終えたうえで、次の主へ、次の世へ、家を渡すための終わりであった。

ここまで読んでくださってありがとうございます。

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