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火の山の若君は、未来を夢に見る ~阿蘇家嫡流の若君、名臣甲斐宗運と乱世を切り拓く~  作者: アトラス


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第七十九話 旗の終わり

 夜が明けるころには、もう勝敗は決していた。


 決したあとに残るのは、ただその形だけである。

 まだ火のくすぶる地。折れた槍。倒れた馬。踏み荒らされた草。白く負われていた布は、もはや味方を見分けるための白ではなく、そのまま死を包むための白になっていた。


 少弐の夜襲隊は、そこで尽きていた。


 先手も後手もない。

 馬場頼周の二百五十も、少弐冬尚みずから率いた二百五十も、もはやひとつの兵の形を保っていない。夜のうちにくずれ、押し返され、挟まれ、踏み潰され、最後は各々が各々の場所で倒れていた。


 夜襲は失敗した。


 その事実は、夜明けとともに隠しようがなくなる。

 暗いうちはまだ気配でごまかせる。声で、鬨で、火の揺れで、何かがまだ続いているように見せることができる。だが朝は、それを許さぬ。残ったものの数と位置が、そのまま答えになる。


 阿蘇の陣でも、誰も大声では喜ばなかった。


 宗運がまず命じたのは、追い討ちではない。

 火の始末。負傷者の見分け。敵味方の遺骸の取り分け。夜のうちに散った伝令の拾い上げ。そうした、勝った側が必ずやらねばならぬ仕事であった。


 惟種もまた、夜明けの薄い光の中でその場を見ていた。


 本陣後ろの逆凹は、もう閉じていた。

 昨夜、あれほど深くえぐられた裂け目も、朝の光の下ではただの乱戦の跡に見える。だが惟種には分かっていた。あのくぼみが閉じたところで、この戦の勝ちは定まったのだと。


 勝ちとは、敵を多く斬ることではない。

 こちらの形を戻し、敵の形を失わせることだ。


 その意味で、昨夜の勝ちは森羅衆が引き戻し、清房が支え、信房が継いだ勝ちであった。


「若君」


 宗運が近づき、低く言った。


「冬尚、馬場、いずれも見つかりました」


「……そうか」


 惟種の声もまた、低かった。


「遺骸は」


「整えさせております」


 宗運は続けた。


「敵の総大将と宿将にございます。晒すより、返した方が早うございましょう」


 惟種は短く頷いた。

 だが、その返答を口にしたのは惟豊であった。


「返せ」


 低く、重い声であった。


「少弐の当主と宿将だ。死者に余計な恥を重ねても、国は治まらぬ」


「はっ」


 宗運が深く頭を下げる。


 惟種は黙って父を見た。

 こういう時、家として言葉を置くべき者は誰か、そこを違えぬのが惟豊であった。


 冬尚の遺骸には、文が残されていた。


 馬場頼周の側にも同じ趣旨のものがあった。

 文面は長くない。だが、その短さの中に、この夜襲がいかなる賭けであったかがよく出ていた。


 此度の夜襲は、少弐冬尚と馬場頼周の責において行ったものであること。

 龍造寺の件もまた、その両名の企てであり、残る家臣らへまで咎を広げぬでほしいこと。

 敗れたなら、残る者らを助けてほしいこと。


 惟種は、その文を一度だけ読み、長くは見なかった。


「……少弐らしい」


 ぽつりと漏れたその言葉に、宗運は何も返さなかった。


 負けるかもしれぬと知りながら前へ出る。

 しかも、負けた後に残る者の逃げ道まで用意しておく。

 そういうことのできる者は、弱い当主ではない。


 だが、強いからこそ、ここで終わった。


 惟豊が文を受け取り、静かに畳の上へ置いた。


「遺骸とともに返せ」


「は」


「降伏の勧めも付けよ」


 宗運が顔を上げる。


「文には」


「余計な脅しは要らぬ」


 惟豊は言った。


「冬尚が死に、跡がない。少弐の家はここで終わる。そのうえでなお槍を取るなら、家のためではなく、各々の意地のために取ることになる――そう伝えよ」


「承知しました」


「助かりたい者は助ける、とも添えよ」


 惟豊の声は平らであった。

 だが、その平らさの中にこそ、家の長としての裁きがあった。


 惟種はそのやり取りを黙って聞いていた。


 助けると決めるのは、家の長の役目である。

 そのあと、助けた者をどうほどき、どう使い、どう並べ替えてゆくかを考えるのは、自分の役目であった。


     *


 少弐の残陣には、朝の冷えがそのまま沈んでいた。


 夜のうちに大きく動いた陣というものは、夜明けには妙に静かになる。疲れたからではない。動く意味を失った者が増えるからである。


 神代勝利、江上武種、小田政光らは、まだ陣に残っていた。


 だが、残っているというだけで、もう昨夜までのように「少弐勢」と呼べるまとまりではなかった。

 兵はいる。旗もある。具足をつけたままの者も多い。けれど、肝心の“どこへ向かって戦うのか”が消えている。


 勝利は夜明けから、ほとんど口を利いていなかった。

 武辺の者ほど、こういう時に軽々しく言葉を出さぬ。


 江上武種は、何度か前へ出ようとする兵を抑えていた。

 もう出ても意味がないと分かっているからだ。だが、意味がないと分かってもなお、体がすぐには止まらぬ者もいる。そういう者を止めるのもまた、残った将の役目であった。


 小田政光は、ただ静かに座していた。


 彼には分かっていた。

 昨夜のうちから、もう半ば分かっていた。国衆どもは三千百として働くかどうかも怪しかった。夜襲が通ればともかく、通らねば支え切れぬ。しかも今、冬尚も馬場も死んだ。


 そこへ使者が来た。


 阿蘇の使者である。

 余計な威を見せず、だが礼も失わぬ人数で入ってきた。その後ろに、布で覆われた二つの遺骸がある。


 場の空気が、そこでさらに冷えた。


 使者は深く頭を下げた。


「少弐殿、馬場殿の御遺骸、お返し申す」


 誰もすぐには声を出さなかった。


 勝利の指が、わずかに動いた。

 武種は目を伏せた。

 政光だけが、静かにその言葉を受けた。


「……かたじけない」


 それは礼であると同時に、戦の終わりを認める一言でもあった。


 さらに使者が文を差し出す。


「阿蘇殿よりにございます」


 政光が受け取り、開いた。


 文面は簡潔である。


 少弐冬尚、戦死。

 跡継ぐべき嫡流なく、ここに少弐の家は終わる。

 なお戦を続けるならば、それはもはや少弐家の戦ではなく、残る者どもの私の戦となる。

 槍を収め、降るなら命は助ける。

 冬尚の残した文に照らしても、無益に血を重ねる必要はない。


 政光は文を閉じた。


 しばらく誰も何も言わなかった。

 ただ、その沈黙は乱れたものではなかった。誰もが同じところへ辿り着きながら、まだ口に出さずにいる沈黙である。


 やがて、勝利が低く言った。


「戦えぬわけではない」


 武種が静かに目を上げる。


「ええ」


 政光も答えた。


「人数だけなら、まだおります」


「打って出れば、一戦ぐらいはできよう」


 勝利の声には、武人らしい意地がまだ残っていた。


「だが」


 そこで言葉が止まる。


 政光が、そのあとの言葉を引き取った。


「何のために、でございますな」


 勝利は黙る。

 それが答えであった。


 少弐冬尚は死んだ。

 跡継ぎもいない。

 家としての旗は、そこで絶えている。


 ならば、ここから先に槍を取る意味は何か。

 仇か。意地か。あるいは、自分ひとりの名のためか。

 それはもう、少弐家の戦ではない。


 政光は、そこをはっきり見ていた。


「殿は文を残された」


 そう言って、冬尚の遺した文を二人へ示した。


 勝利と武種が目を通す。

 読み終えたあと、勝利の眉間に深い皺が寄った。


「最後まで……そうなされたか」


「はい」


 政光は答えた。


「殿は、残る者まで道連れにはなさらなんだ」


 武種が、低く息を吐いた。


「ならば、ここでなお抗うは」


「殿の文に背くことにもなりましょう」


 政光の声は静かで、冷たくもあった。

 だがそれは情がないからではない。情に流されぬために、あえてそう置いている声だった。


「少弐は終わりました」


 誰もすぐには頷かなかった。

 頷けば、本当に終わるからである。


 だが、終わっていないものとして扱うには、あまりに多くのものが消えていた。


 政光はさらに言った。


「これ以上の戦は、国を荒らすだけにございます」


「……分かっておる」


 勝利が言った。


 その一言は重かった。

 武の者が、ようやくそこへ口をつけたからである。


「分かっておるが、口に出すのが難しかっただけだ」


「はい」


「ならば、言うしかあるまい」


 勝利はそう言って、深く息を吐いた。


 武種もまた、静かに頷いた。


「政光殿」


「なんじゃ」


「そなたが行かれよ」


 政光は顔を上げた。


「我らの中では、そなたが一番よう収める」


 それは、使者としての役を託す言葉であった。

 誰が一番強いかではない。誰が一番、この終わりを壊さずに持っていけるか。その役目である。


 政光は、わずかに目を閉じ、それから頭を下げた。


「承知した」


「阿蘇へ申せ」


 勝利が言う。


「少弐の残る者ども、槍を収める、と」


「は」


「ただし」


 勝利の声が少しだけ低くなる。


「お返し下された殿と頼周殿の御遺骸、葬送まで妨げなく執り行わせていただきたい」


「そのように」


 政光は答えた。


「そのように」


 政光は答えた。


 使者は、そのやり取りを黙って聞いていた。

 そして政光が立つと、自らも一歩下がった。


 もう、戦の声は要らぬ。

 ここから先に要るのは、形を失わぬ降り方だけだった。


     *


 小田政光は、その日のうちに阿蘇陣へ出た。


 降伏は、ときに戦より難しい。

 戦ならば前へ出ればよい。だが降る時は、残る者の命、家の名、これから先の身の置きどころ、そのすべてを抱えて言葉を選ばねばならぬ。


 政光は、惟豊の前で深く頭を下げた。


「少弐残党を代表し、申し上げます」


 惟豊は黙って聞いている。

 惟種も、宗運も、その場にいた。だが誰も口を挟まない。


「少弐冬尚、討死。跡継ぐべき者もなく、ここに少弐の家は尽きました」


 政光は言った。


「残る者ども、これ以上槍を取るは、もはや家のためにあらず」


 声は震えていなかった。

 だが、その平らさの奥には、どうしようもない重さが沈んでいた。


「ゆえに、降ります」


 惟豊は、しばし何も言わなかった。


 やがて短く答えた。


「よい」


 それだけだった。

 だが、それで十分だった。


 少弐は滅びた。

 そのうえで、残る者は生きる方へ移る。

 阿蘇が欲したのは、まさにその形であった。


「冬尚の文は受け取った」


 惟豊が言う。


「残る者すべてへ無条件に旧のままを許すことはできぬ。だが、無益に殺しはせぬ」


 政光は深く頭を下げた。


「かたじけなく」


「槍を収めさせよ」


「は」


「国衆にも伝えよ。少弐はここに終わった、と」


「はっ」


 それで降伏は定まった。


 大きな叫びはなかった。

 鬨もなかった。

 ただ、少しずつ槍が下ろされ、旗が伏せられ、馬が引かれた。


 投降する者は、あとを絶たなかった。


 もともと少弐方の国衆は、三千百がそのまま三千百として働くかどうかも怪しかった。

 その上に総大将は死に、家も絶えた。

 ここまで来てなお戦うのは、もはや主家のためではない。各々が各々の破れ方を選ぶだけである。


 ならば、降る者が続くのは当然であった。


 神代勝利も。

 江上武種も。

 そして小田政光もまた、少弐の終わりを認め、その先へ身を置くほかなくなった。


 冬尚と馬場の亡骸は、丁重に引き渡された。

 白い布は、今度こそ本当の死装束としてその役目を終えた。


 朝はもう高くなっていた。


 昨夜、あれほど多くの火が揺れた地も、日の下ではただの土に戻っている。

 だが土は忘れぬ。この夜、ここで何が折れ、何が残ったかを。


 こうして、長く九州北部 肥前に名を留めた少弐の家は、冬尚の死をもってついに絶えた。

ここまで読んでくださってありがとうございます。

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