第七十七話 夜にえぐられる陣
夜は、声より先に揺れた。
最初に異変を知ったのは、音だったのか、火だったのか、あるいは鍛えた兵の肌が、闇の奥の気配を先に拾ったのか。あとになって思い返しても、惟種にはそれがはっきりとは分からなかった。
ただ、静かであったはずの本陣後ろが、ある瞬間から静かではなくなったことだけは確かだった。
夜の陣は、昼の陣と違う。
火は焚かれている。
だが、その火は場を明るくするためのものではない。人がどこにいるかを、かろうじて味方だけが見失わぬためのものだ。ひとつ灯れば、その向こうはかえって深く沈む。見えるところと見えぬところの差が、昼の何倍にもなる。
だから夜は、少しの乱れがすぐに大きく見える。
惟種が本陣の前で、もう一度だけ勢福寺の方へ目をやった、その直後だった。
後ろで怒鳴り声が上がった。
ひとつではない。
短く、切られたような声。
それに重なる足音。
次いで、火が動く。
「若君!」
伝令が、ほとんど転がるように駆け込んできた。
肩で息をし、喉を焼いたような声で叫ぶ。
「敵襲っ! 本陣後ろより、敵襲ッ!」
その一声のあと、間を置かず、夜気を裂くように法螺貝が鳴った。
一度。
そして、もう一度。
二声。
惟種の胸の内で、冷たいものが一気に研がれた。
法螺貝二声。
先ほどまで阿蘇の陣にはなかった合図である。
敵が、自らの勝ちを知らせるために吹いたのだと分かるには、それで十分だった。
宗運が、誰よりも先に声を張った。
「鬨を作れッ!」
その声は、闇の中でも驚くほどよく通った。
「本陣は生きておると聞かせよ! 声を絶やすな!」
鬨。
夜戦では、声はただ勇を示すだけではない。
どこに味方の芯があるかを知らせる。
乱れかけた兵に「まだ折れていない」と教える。
そして敵に、「崩したつもりであろうが、まだだ」と返す。
すぐに本陣側から鬨が起こった。
荒い。
整ってはいない。
だが、それでいい。
今は整っていることより、消えていないことの方が大事だった。
惟種は、すぐに振り返った。
闇の中で、本陣後ろがえぐられている。
それは「崩れた」と言い切るにはまだ早い。
だが、「整っている」と呼ぶにはもう無理だった。
中央後ろの外縁が、夜襲の刃で内側へ食い込まれている。
陣形は一瞬、後ろから噛み破られたように歪み、まるで陣の腹に深い爪を立てられたようだった。
凹んでいる。
ただし前ではない。
後ろだ。
阿蘇の本陣は、後ろからえぐられていた。
そこに、種茂がいた。
鍋島種茂の預かる森羅衆の一部は、最初の衝突をすでに受けていた。
火が乱れた場所の底で、三人組の列が一度は押し込まれ、それでもまだ崩れ切らずに留まっているのが見えた。
種茂の声も聞こえる。
「下がるな! 二人で受けろ! 火を切らすな!」
若い声だった。
だが浮いてはいない。
喉が裂けそうな声の張り方の中にも、命令の形があった。
最初の敵襲は、すでに本陣外縁をひとつ破っている。
だが、種茂の持ち場がその底で噛み止めていた。
それで、かろうじてまだ本陣は生きている。
「若君!」
宗運が惟種の横へ寄った。
「先手を受け止めております!」
「種茂か」
「はい!」
惟種は一瞬だけ、喉の奥で息を押し留めた。
よくやった。
だが、まだ褒めるところではない。
いま必要なのは、ここから先を進ませぬことだった。
「まずは体勢を立て直す!」
惟種は、兵に届くよう声を張った。
「一度受け流せ! 押し返そうとするな!」
夜戦で、押し返そうとすると列が崩れる。
勢いのまま前へ出た兵は、そこで味方を見失う。
いま必要なのは前へ出ることではない。
くぼみをそれ以上深くさせぬことだった。
「三人一組を徹底せよ!」
惟種の声が飛ぶ。
「日ごろの鍛えを思い出せ!」
闇の中の森羅衆が、その声を拾う。
「二人は敵を叩け! 一人は明かりを保て!」
それは、昼から宗運と詰めていた夜備えそのものだった。
「火を落とすな! 味方を見失うな!」
さらに命じる。
「前の二人、疲れた者はすぐ下がれ! 補いが入れ! 巡りを切るな!」
森羅衆の強さは、ひとりの剛勇ではない。
三人で一つの欠けを埋める、その巡りにある。
二人が前で受ける。
一人が補いに回る。
前のどちらかが疲れれば、補いが入る。
下がった者は息を継ぎ、また次の補いになる。
夜の今は、その補いの一人がまず松明を持つ。
だが火を持つからといって戦わぬわけではない。
前の二人が鈍れば、火を脇へ渡してでも入る。
また別の者が火を取る。
その巡りを切らぬ限り、森羅衆は夜でも簡単には割れない。
惟種の命が飛ぶたび、火の線が少しずつ整い始めた。
乱れていた中央後ろの灯が、完全ではないにせよ、ひとつの線へ戻り始める。
押し込まれた形はまだ残っている。
後ろからえぐられたくぼみはなお深い。
だが、その底で、ようやく森羅衆が踏ん張りを取り戻しつつあった。
種茂の側でも、松明がひとつ高く上がる。
その火に照らされ、一瞬だけ、敵の白が見えた。
背の白布。
惟種の目が細くなる。
味方を見失わぬためか。
いや、それだけではあるまい。
退けばかえって目立つことを承知で、なお背負ってきた白だ。
死ぬ気で来ている。
少弐か。
それとも馬場か。
どちらにせよ、今夜の敵は軽くはない。
だが――
「止まった!」
宗運が叫んだ。
そうだった。
後ろからえぐられた陣は、たしかに逆凹のように歪んでいる。
だが、そのくぼみはそこで止まっていた。
最初の先手は入った。
だが、種茂の預かる森羅衆がそこで噛み止めた。
それ以上は、まだ進ませていない。
惟種は、そこで初めて一息だけ深く吸った。
「よい!」
すぐに続ける。
「そこを底にするな! 左右から噛め! くぼみを狭めろ!」
これは夜の戦だ。
敵を押し返すのではなく、入り込んだ刃を左右から削る方が早い。
「本陣を真っ直ぐ守ろうとするな! 噛ませて潰せ!」
宗運もすぐにその意を拾う。
「左右へ伝えろ! 底を支えろ! だが前へ出すぎるな!」
伝令が走る。
火が揺れる。
鬨はなお断続的に続いていた。
だが、その時だった。
惟種は、ぞっとするような別の気配を聞いた。
人馬の数が、まだある。
いま突っ込んできている先手だけではない。
闇の向こうに、まだ押し寄せる塊の気配がある。
宗運も同じものを感じたらしかった。
「若君……」
「後続が来る」
惟種は言った。
短い。
だが、それだけで十分だった。
最初の先手は止めた。
だが、それだけだった。
この逆凹のくぼみに、さらに後続が雪崩れ込めば、さすがの森羅衆でも本陣そのものが割れる。
今はまだ踏みとどまっている。
だがその踏みとどまりは、次の一波を受けるための余力までは保証しない。
危うい。
間に合うかどうかの境にいる。
「惟種、下がれ」
惟豊が、低く言った。
戦の音の中でも、それははっきり耳へ届いた。
父の声だった。
そして総大将の声でもあった。
惟種は、振り返らずに答えた。
「下がれば、ここが崩れます」
惟豊は何も言わない。
惟種は続けた。
「いま我が退けば、本陣が割れたと思われましょう」
夜戦では、目に見えるものより、どう見えたかの方が速く広がる。
若君が下がった。
本陣が崩れた。
その噂は、声より早く兵の背中へ入る。
「ゆえに下がれませぬ」
惟豊の沈黙は、ほんの一瞬だけ長かった。
それから、短く言った。
「ならば、崩すな」
「は」
それで十分だった。
惟種は、もう一度前を向いた。
火の線はまだ揺れている。
種茂の持ち場はなお押されている。
くぼみはそこで踏みとどまっている。
だが後続が来る。
間に合わねば、本陣は折れる。
「宗運!」
「はっ」
「本陣近くの伝令、火の筋を切るな! どこが空いたか絶えず知らせよ!」
「承知!」
「種茂の前へ、予備回せるだけ回せ!」
「は!」
「くぼみの左右、狭めろ! だが深追いするな! 受けて、噛み、削れ!」
惟種の声は、自分でも驚くほどよく出た。
恐れはある。
ないわけがない。
だが恐れは、声に乗せなければ兵には伝わらぬ。
今はただ、芯であることだけが要る。
種茂の持ち場で、ひとつ火が高く振られた。
それが、まだ持つという合図なのか、もう危ういという合図なのか、夜の中では判じにくい。
だが、そこに兵がまだ立っていることだけは分かった。
その瞬間、闇の奥から、さらに低い地鳴りのような気配が寄った。
後続だ。
いよいよ来る。
そして、その刹那だった。
左翼から突出してきている闇が有った。
最初は、火ではなかった。
声でもない。
闇そのものが、別の刃で裂けたように見えた。
次いで、馬の息。
槍。
押し殺していた気配が、一気に前へ噴く。
惟種の目が、そこへ向いた。
左翼である龍造寺方面からであった。
本陣を助けるため、鍋島清房が手勢を率いて突撃してきたのである。




