第七十六話 左の闇
夜は静かだった。
静かすぎる、と鍋島清房は思った。
四月の夜気は、真冬のように骨へ刺さらぬ。だが、ぬるいわけでもない。風は細く、肥前の土の匂いを薄く引いて流れてゆく。空は晴れていた。雲がなく、星はよく見える。見えるからこそ、地の上の暗さはなお深く、陣の火と火のあいだにあるものは、何ひとつ確かには見えなかった。
阿蘇の左翼陣は、押し黙っていた。
龍造寺家宗の旗。
鍋島の旗。
その下に集まる兵の顔は、焚き火の端に照らされてもなお固い。中央の森羅衆のように整いきった静けさではない。右翼の国衆勢のように、どこか気の抜けた静けさでもない。
こちらの静けさには、火の気が残っていた。
古い恨みと義が、まだ胸の底で燻っている者たちの静けさである。
清房は焚き火から少し外れた暗がりに立ち、勢福寺の方を見ていた。
山の上は見えぬ。
見えぬが、そこに少弐冬尚の旗があることは分かっている。
少弐の旗。
その名を思うだけで、胸の底に沈んでいた古い血が、少しずつ熱を持ち始める。
あの時のことを忘れた日はない。
龍造寺家が少弐資元を積極的に救わなかったことを、主君殺しに等しいと見た馬場頼周が、刃を引いた。
家兼の二人の息子。
四人の孫。
悉く討たれた。
あれはただの仕置きではなかった。
根を絶つための血であった。
幼い者まで死んだ。
若い者が逃げきれず倒れた。
老いた者は、何もできぬままその跡を見送った。
清房は、今でもその時の顔を思い出せる。
血の色ではない。
死に様でもない。
残された者の顔である。
あの時、龍造寺は一度、家として死んだ。
だからこそ、いまがある。
阿蘇惟種が龍造寺を抱えた。
名だけでなく、血の残りを、旧臣の意地を、肥前へ戻る理を抱えた。
それは情ではない。
利だけでもない。
もっと厄介で、もっと大きいものだった。
主家の再興が、いまやっと現の形を取り始めている。
少弐を折る。
肥前に龍造寺の名を戻す。
阿蘇の手の内であろうと、まずは地へ戻る。
ここまで来れば、龍造寺への義は立つ。
清房は、それでよいと思っていた。
昔の鍋島であれば、ただ龍造寺のためだけを言ったかもしれぬ。
だが、いまは違う。
阿蘇の肥後は太い。
筑後も手に入れた。
港も作り始めた。
ただ山の家ではない。
その下に付くことは、龍造寺の名を再び立てるだけでなく、鍋島家の先にも利がある。
鍋島家として見ても、それは理にかなっていた。
鍋島にはまだ嫡男である信房がいる。
家の筋は絶えぬ。
種茂も、もう若君へ心を定めている。
それもまた悪くない、と清房は思っていた。
背後で足音がした。
「信房か」
「は」
鍋島信房が、火の届かぬところまで近づいて止まった。
父に似て、声の置き方が静かだった。
派手に物を言う男ではない。
だが、静かな者ほど腹の内は深い。
「眠られませぬか」
信房が問う。
「お前もだろう」
「はい」
それで、しばらく二人のあいだに沈黙が落ちた。
親子である。
だが、こういう夜にまで情をこぼし合う家ではない。
同じ景色を見、同じものを胸へ置きながら、必要なことだけを言う。
「明日でございますな」
信房が、やがて言った。
「うむ」
「主家の再興も」
「その初めだ」
清房は答えた。
「これで少弐を折れねば、また宙に浮く」
信房は頷いた。
「若君は、そこをよく分かっておられる」
清房は言った。
惟種は若い。
だが若いだけの男ではない。
肥後を静め、筑後を呑み、名和を下し、そして龍造寺を抱えた。その全てに一本の筋がある。
勝つためだけに動く男ではない。
勝った先に何を置くかまで見て動いている。
それが厄介であり、ありがたくもあった。
「孫四郎…種茂は」
信房が、少し言いにくそうに口を開いた。
「若君へ心を寄せておりますな」
「見れば分かる」
「よろしゅうございましたか」
その問いは軽くない。
父としてではなく、鍋島の家の者として聞いている。
清房は、少しのあいだ答えなかった。
「よい」
やがて言った。
「今はな」
信房が黙って聞いている。
「龍造寺の義を立てた上で、その先を若君へ預ける」
清房は低く続けた。
「筋としては間違っておらぬ」
「はい」
「それに」
そこで一度、清房は息を置いた。
「鍋島にはお前もおる」
信房は何も言わない。
「種茂が若君の近くで働くなら、それもまた家のためになる」
それは冷たい計算ではなかった。
だが、武家の家とはそういうものでもある。
一人が前へ出る。
一人が家を支える。
どちらかだけでは足りぬ。
信房は静かに頭を下げた。
「承知しております」
「種茂は、もう戻れぬところまで見てしまった」
清房は言った。
「ならば、あれはあれでよい」
遠く、中央の陣の方で火が揺れた。
清房は何となくそちらを見た。
中央は締まっている。
森羅衆が芯にある。
本陣近くも、宗運がよく見ている。
右翼は少し浮いているようだが、始まればどうにかなる――そう昼のうちに見ていた。
明日は決戦になる。
ならば今夜は休めるところを休ませねばならぬ。
備えすぎて明日の芯が鈍れば、それこそ愚かだ。
そう分かっていて、なお、眠りが浅い。
それは年のせいだけではない。
少弐を前にしたからだ。
馬場頼周がいるかもしれぬからだ。
あの血を引いた側が、まだ山の上で息をしているからだ。
「眠れませぬな」
信房が、ぽつりと言った。
「眠れるか」
「いえ」
清房は、少しだけ息を吐いた。
「明日で終わるかもしれぬ戦の前だ」
「はい」
「終わらせねばならぬ戦でもある」
信房は、その言葉に静かに頷いた。
その時だった。
清房の目が、ふいに細くなった。
「父上」
「静かにしろ」
信房はすぐに口を閉ざした。
清房は耳を澄ませた。
風ではない。
焚き火の爆ぜる音でもない。
馬が鼻を鳴らしたのでもない。
何かが、動いている。
夜の陣と陣のあいだの空気は、本来もっと平らである。
だが今、どこかにごくかすかな“擦れ”がある。
それは音と呼ぶには小さく、気配と呼ぶには確かすぎた。
さらにもう一度、中央の方を見る。
火が、ほんのわずかに乱れている気がした。
見間違いかもしれぬ。勘違いかもしれぬ。
風かもしれぬ。
だが、そうでないかもしれぬ。
本陣強襲の可能性を、清房は感じた。
だが、まだ断じてはいなかった。
ここで左翼全体を叩き起こせば、敵襲が本物でなかった時に、こちらの方が先に乱れる。
夜の陣で一番怖いのは、敵より先に味方が騒ぐことだ。
敵襲が確かなら、その時に全体を起こせばまだ間に合う。
ならば、まずは自分の手勢だけで確かめるのが筋だ。
「信房」
「は」
「起こせ」
信房の顔つきが、一瞬で変わる。
「どこまで」
「我が手勢、二百だ」
「はっ」
「ただし一度に鳴らすな」
清房の声は低い。
「まず百、某が率いる」
信房の目がわずかに動く。
「父上みずから」
「まだ敵と決まったわけではない。
だからこそ、先に出る」
信房はすぐに頷いた。
「では、後ろの百は」
「お前がまとめろ」
「はっ」
「我らが敵勢に当たれば、すぐ続け。
そうでなければ、そこで止まれ。
無駄に大きくするな」
「承知致しました」
「声を抑えろ。馬を静めろ。蹄の音を殺せ。槍を取らせろ。
火は最小でよい。
闇に目を慣らせ」
「はっ」
信房は深く頭を下げると、すぐに身を翻した。
清房はなお、中央の闇を見ていた。
右翼…そこを抜けたか。
いるのは本陣下手
まだ確かではない。
だが、待って確かめている暇はない。
「……来たか」
ごく小さく呟く。
返事はない。
だが、その独り言に応えるように、夜のどこかでまたひとつ、何かが動いた気がした。
兵が、静かに起き始める。
槍が手に取られる。
馬が引かれる。
鍋島の先行百は、まだ騒ぎにもならぬほどの静けさの中で、刃のように細く整い始めていた。
清房は太刀の柄へ手をかけた。
偵察で済むかもしれぬ。
そのまま叩けるかもしれぬ。
あるいは、もう本陣近くで火がついているのかもしれぬ。
どちらにせよ、行くしかない。
信房が後ろの百をまとめる気配がある。
それで十分だった。
もし敵襲が本物なら、後続はすぐ入れる。
もし違えば、大きくは騒がずに済む。
夜はなお深く、何もはっきりとは見えなかった。
だが、見えぬからこそ、戦の匂いだけは誤魔化しようがなかった。
清房は先行百を率い、夜の中へ踏み出した。
そしてその先にいるであろう敵が誰であるかを、まだ知らぬまま、闇の底へ刃を向けようとしていた。




