第七十五話 白を負う夜
夜は、思ったよりも深かった。
春の夜である。
寒さは真冬ほどではない。
だが、闇だけは冬より薄くなるわけではなかった。月はなく、雲もない。空が晴れているということは、星が見えるというだけで、足元まで照らしてはくれぬ。かえって闇の輪郭ばかりがはっきりし、見えるところと見えぬところの差が大きくなる。
勢福寺の麓に集まった少弐勢は、声を殺していた。
兵は三千百。
だがこの夜に本当に動くのは、そのすべてではない。
夜襲の先手二百五十。
馬場頼周が率いる。
その後ろに二百五十。
少弐冬尚みずからが率いる。
残る兵は、後ろに控える。
先手が本当に阿蘇本陣を崩し、法螺貝二声の合図が上がった時にのみ、順次押し出す。
それが今夜の手筈だった。
冬尚は、それを何度も頭の中でなぞっていた。
闇の中では、理屈などすぐに消える。
見えぬ。
味方の顔も分からぬ。
敵の数も読めぬ。
ひとたび列が崩れれば、敵を討つ前に味方を斬る。
歴史上見渡しても夜襲というものは、【思いつく者は多いが、実際にやる者は少ない。そしてやったところで、うまく行くことはさらに少ない。現代のように夜は明るく無く、ほぼ完全な闇といつまでも差し支えないからだ】その為、夜襲が成功したように描かれるのは、ほとんどが創作であり、故に成功した場合、華々しく語り継がれることとなる。
それでも今夜、少弐はそれをやる。
他に道がないからだった。
正面では持たぬ。鉄砲への対応策が無い。
籠もれば終わる。少弐を助ける勢力が無い。
天は味方せず。
国衆は揺れており、少しでも敗色が出れば三千百はたちまち三千百でなくなる。
ならば、闇に賭けるしかない。
兵の顔は、見えぬよう黒く塗らせた。
頬も額も、火に照らされた時に光らぬよう煤を擦り込む。
前から見れば闇に紛れるためである。
だが、それだけでは足りない。
味方を見失えば終わる。
だから、背には白を負わせた。
白い布。
白い襷。
全身を白くすれば、火や星明かりに照らされた時にかえって目立ちすぎる。ゆえに後ろ身だけ、味方の目が拾えるように白を置く。
前から見れば黒い。
後ろから見れば白い。
それが、今夜の少弐の夜襲の細工だった。
だがその白は、ただの目印ではない。
頼周が先手の前に立ち、低く言った。
「この白は、決意の印よ」
声は大きくない。
だが、闇の中でよく通った。
「味方を見失わぬためでもある。だが、それだけではない」
兵たちが、押し黙ってその声を聞いている。
「これで阿蘇を崩せねば、十のうち九つ――いや、ほぼ十、我らは死ぬ」
誰も動かなかった。
ここにいるのは少弐と馬場に連なる者のみ。皆、覚悟をしていた。
「逃げる時には、この白が逆に目立つ」
頼周は言う。
「闇に紛れて助かることもできよう。だが、背に白を負えば、それも叶わぬ」
それは脅しではなかった。
事実だった。
白は、前へ出るための印であると同時に、退けば死装束にもなる。
「ゆえに、これは退かぬための白だ」
頼周は最後にそう言った。
「崩すために負う。崩せねば、これを着たまま死ぬ。故に、今帰りたき者がおれば帰れ。咎めはせぬ⋯」
兵の何人かが、無意識に背の白へ触れた。
布は軽い。
だが、その軽さのまま妙に重かった。
そして誰も帰ることは無かった。
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冬尚は少し離れたところから、その様子を見ていた。正確には聞いていた。
頼周は、やはりこういう時の言葉を持っている。
ただ、逃げ道を細くするように言う。
そして、それでよいのだと冬尚も思った。
逃げ道があると思えば、人は半歩ずつ退く。
だが今夜は、その半歩が死を呼ぶ。
阿蘇本陣を崩せねば終わり。
そのことだけを、先手には腹へ落としておかねばならない。
側近が、冬尚のそばで低く言った。
「馬場の二百五十、うまく入りましょうか」
「入らねば困る」
冬尚は答えた。
側近は、少しだけ口元を歪めた。
「それはそうでございます」
「だが」
冬尚は続けた。
「入ったからといって、勝ったことにはならぬ」
「はい」
「阿蘇の本陣が本当に乱れたと見えねば、後ろの者どもは乗らぬ」
側近は無言で頷いた。
国衆は勝ちの匂いに寄る。
それは側近の言う通りだった。
今夜、馬場が道を開き、法螺貝二声が上がった時、後ろに控えた者どもは「勝てる」と思って前へ出る。
だがその「勝てる」が、ほんの一瞬の見誤りでしかなかったなら――
その時こそ、少弐は本当に終わる。
もしもの時の為に文を残したが、使わない事を祈るばかりだ。
別の者が、闇の方を見ながら言った。
「右翼は、浮いておるそうにございますな」
「阿蘇のか」
「はい」
「戦が始まれば締まるのでしょう。されど、始まる前は違います。勝ちに慣れた顔というのは、夜には鈍い」
冬尚は、わずかに目を細めた。
その報せは、少し前に拾っていた。
阿蘇の中央は締まっている。
左翼の龍造寺勢も尖っている。
だが右翼は、ここまで負けなかったことでわずかに気が浮いている――と。
だからこそ、その脇を抜ける。
正面ではなく、浮いた側をかすめ、本陣へ食い込む。
出来過ぎだと感じるほど、理は通っていた。
今夜それが、唯一の勝ち筋になる。
頼周が、兵の列から戻ってきた。
もう言うべきことは言い終えた顔をしている。
「殿」
「何だ」
「先手、出せます」
「うむ」
冬尚は頼周を見た。
この男は、今夜死ぬかもしれぬ。
いや、自分もまた同じだ。
それが分かっていて、顔色ひとつ変えぬところが、かえって腹立たしくもあり、ありがたくもあった。
「頼周」
「は」
「今夜、道を開け」
「御意」
「法螺貝二声、忘れるな」
「忘れませぬ」
「崩したと見えた時だけだ。早まるな」
頼周はそこで、ほんのわずかに笑った。
「そのような浅い真似は致しませぬ」
冬尚もまた、口元を少しだけ動かした。
こういう時にだけ、長年の主従は余計な言葉を使わぬ。
「そして」
冬尚は続ける。
「崩せ」
「は」
「勝ちで償え」
頼周の目が、わずかに沈んだ。
龍造寺の件。
先夜、自分の首を差し出すと言い出した時、冬尚はそれを退けた。
一人の首で済む話ではない。
少弐そのものが選び、ここまで引きずってきた道なのだ。
ならば償いは、首ではなく勝ちでしかない。
「承知しております」
頼周は深く頭を下げた。
その姿が闇へ溶ける前に、冬尚は一度だけ声をかけた。
「頼周」
「は」
「先へ行きすぎるな」
頼周は顔を上げた。
「殿も、同じことをなさらぬよう」
その返しに、勝利が思わず鼻を鳴らした。
政光は何も言わない。
冬尚は、短く言った。
「行くしかあるまい」
頼周は、それ以上何も言わなかった。
やがて時が来た。
闇の中で、先手二百五十が動き出す。
声はない。
ただ草を踏む音と、具足のわずかな擦れだけがある。
前は黒い。
背には白い目印。
兵は互いの背を見失わぬよう、間を取りすぎず詰めすぎず進む。
夜襲にとって、一番怖いのは敵ではなく、乱れである。
冬尚は、その背が闇へ吸われていくのを黙って見ていた。
この二百五十が道を開く。
開けねば終わる。
そして開いたなら、自分が続く。
側近が、小さく言った。
「静かすぎますな」
「夜とはそういうものだ」
冬尚は答えた。
だが、そう答えた自分の胸の内も、決して静かではなかった。
人は夜に目を奪われる。
だが本当に奪われるのは耳だ。
見えぬぶん、わずかな音に心が寄る。
前で何が起こっているのか分からぬまま待つ、この時間がいちばん苦しい。
どれほど経ったか、分からなかった。
実際には、そう長くはなかったはずだ。
だが待つ側には、そのわずかな刻がやけに伸びる。
そして――
遠く、阿蘇の陣の方で、声が上がった。
一つではない。
二つ、三つ。
火が揺れた。
闇の中に点々とあった灯が、いくつか乱れたように見える。
側近が息を呑む。
「入ったか」
冬尚は何も言わず、前だけを見ていた。
まだだ。
まだ確かではない。
ただ騒ぎが立っただけかもしれぬ。
その時だった。
法螺貝が鳴った。
一度。
夜気を裂くような低い音が、阿蘇陣の方から返ってくる。
つづいて、もう一度。
そして同時に、阿蘇側の鬨の声が上がる。
二声。
冬尚の胸の内で、何かが強く跳ねた。
崩した。
馬場が本陣へ食い込んだ。
少なくとも、そう信じるほかない二声だった。
「殿!」
側近が叫びかけるのを、冬尚は手で制した。
「進む」
その一言で、後ろに控えていた二百五十が一斉に身を起こす。
白が動く。
黒が闇へ沈む。
押し殺していた気配が、一気に前へ流れた。
冬尚もまた、自ら馬を進めた。
もう退けぬ。
ここでためらえば、今夜の賭けはその場で腐る。
馬場が開いたと信じるしかない。
勝てる。
いや、勝てる形へ持ち込める。
そう思わねば、前へは出られなかった。
闇を切って進むうち、阿蘇陣の火が近づいてくる。
前の方では、すでに怒号が立っていた。
鉄と木のぶつかる音。
短い悲鳴。
火に照らされた人影が、乱れたように揺れて見える。
「いける!」
誰かが、抑えきれずにそう言った。
少なくとも【少弐方はそう感じた。】
極限状態になれば、人は信じたいものを信じる。
阿蘇の本陣は今にも割れそうに見えた。
火が乱れている。
声が重なっている。
あれだけ締まっていたはずの森羅衆の火の線も、ところどころ途切れたように見える。
勝てる。
その二文字が、夜の中でいやに甘く響いた。
もしここで本陣を崩し切れば。
後ろの本隊は雪崩れ込む。
国衆も「勝ち」を嗅いで前へ出る。
少弐はまだ死んでいないと、肥前も、大内も、すべてがもう一度見直す。
いましかない。どちらにしろ行くしかない。
「押せ!」
冬尚が初めて声を張った。
後続が動く。
さらに後ろでも、控えていた本隊が前へ寄る気配がある。
法螺貝が二声鳴った。
先手が崩したように見えた。
勝てる。
そう確信したからこそ、少弐の兵はようやく本気で前へ出始めた。
そして、馬場隊に合流するその時だった。
左に闇が迫っていた。
少弐方の誰も、そこから闇が来るとは思っていなかった。
正確には、来ると確実に負けにつながるため、意識から外すしか無かった。
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