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火の山の若君は、未来を夢に見る ~阿蘇家嫡流の若君、名臣甲斐宗運と乱世を切り拓く~  作者: アトラス


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第七十四話 陣の静けさ

 四月初め。


 肥前の空は、よく晴れていた。


 本来ならば、春の空はもう少し気まぐれでもよい。薄雲が流れ、夕方にはひと雨来てもおかしくない。だがこの日の空は妙に澄み、風も乾いていた。陽はやわらかいのに、空気だけがどこか痩せており、地の上へ張りついた緊張をかえってよく見せた。


 阿蘇の陣は、神埼城原の平地から松崎のあたりにかけて長く広がっていた。


 山上には、なお勢福寺の郭が見える。

 少弐の旗はまだ折れていない。

 だが、その山を下から圧するように並ぶ阿蘇の旗の数と、筋の通った陣立ては、もはや肥前の国衆に向けた示威そのものであった。


 中央。

 ここに森羅衆がある。


 阿蘇が長く手元で鍛え、養い、削りながらさらに締めてきた常備兵である。数は千五百。そのすべてを最前へ並べているわけではない。それでも、陣の芯がどこにあるかは、ひと目で分かった。


 旗の並びが乱れない。

 荷の置き方が静かである。

 兵の立ち姿に無駄がない。

 槍も鉄砲も、まだ構えてはいないのに、すでに一つの形になっている。


 ただ強いのではない。

 動く時の形を、まだ動かぬうちから崩していない。


 左翼には龍造寺勢が置かれていた。


 龍造寺家宗。

 鍋島清房。

 そして旧臣たち。


 こちらは森羅衆とはまた違う意味で締まっていた。

 静かだが、柔らかくはない。

 少弐を前にしているからか、兵の顔つきにはどこか乾いた殺気がある。笑う者が少ない。声も必要以上には上がらない。戦の前に浮くのではなく、押し黙ることで気を尖らせているような陣であった。


 恨みと義が混じっている。

 古い血の記憶が、まだ胸の内で冷えきっていない兵の顔だった。


 右翼には、阿蘇に連なる兵と国衆勢が並んでいた。


 こちらも弱くはない。

 筑後で勝ち、名和を下し、ここまでの戦をともに歩いてきた者たちである。武も経験もある。兵の数も見劣りしない。


 だが、惟種の目には、左右の違いがはっきり見えていた。


 右翼には、わずかな緩みがある。


 旗の並びが乱れているわけではない。

 命が届いていないわけでもない。

 兵が怠けているのでもない。


 けれど、顔が違う。


 勝てると思っている顔。

 いや、勝つのが当たり前と思い始めている顔である。


 それが、惟種には気に食わなかった。


 惟種は本陣の少し前へ出て、陣の全体を見渡していた。

 横には惟豊。

 その少し後ろに宗運。

 さらに控えるように甲斐親英と鍋島種茂が立っている。


 種茂は、ついこの前まで孫四郎と呼ばれていた若者である。

 だが、元服を終え、惟種の一字を受けたその顔には、もう以前の若さだけではないものがあった。


 若い。

 それは変わらない。

 けれど若さの上に、名の重さがひとつ乗った。


 しかも今の種茂は、左翼の龍造寺勢には置かれていない。

 本陣近く、森羅衆の一部を預かっていた。


 龍造寺の者として見れば、左翼に立つ方が筋に見える。

 清房も家宗もいる。

 恨みも義も、あちらの方が濃い。


 だが惟種は、種茂をそこへ戻さなかった。


 若君の近くで働け。

 まずは目の届くところで役目を果たせ。

 そう言われた時、種茂は一瞬だけ胸の内で何かがせめぎ合うのを感じた。だが、もうその揺れも乗り越えている。


 いまの自分が立つべき場所は、過去の恨みに近い左ではなく、若君の目の届く本陣近くなのだと、はっきり分かっていた。


 惟豊が、勢福寺の方へ目をやりながら言った。


「よく並べたな」


 宗運が答える。


「中央は森羅衆を厚く置きました。鉄砲の間も、荷駄の後ろも、夜番の置き方も、まずはここを基準にしております」


「左は」


「龍造寺勢にございます」


 宗運の声は静かだった。


「よい顔をしております」


 惟豊は、それを聞いてわずかに頷いた。


「恨みがある時の兵は締まる」


「はい」


「だが、恨みだけで戦をすると、どこかで前へ出すぎる」


「承知しております。家宗殿と清房殿には、よく言い含めてございます」


 惟種は黙って聞いていたが、視線は右翼から離れなかった。


 惟豊がその様子に気づいて問う。


「何を見ておる」


「右翼だ」


 惟種は答えた。


「何かあるか」


「ある」


 短い一言だった。


 宗運もまた、その方へ目を向ける。


 国衆勢の陣では、焚き火の位置が少し近い。馬をつなぐ場所も、中央ほどの張りがない。乱れているとまでは言わぬ。だが、厳しさがほんの少し薄い。


「若君」


 宗運が言った。


「そこまで悪うございますか」


「悪い、というほどではない」


 惟種は答えた。


「始まれば締まる」


「……はい」


「だが、始まる前が駄目だ」


 風がひとつ、陣の上を撫でた。


「勝つのが当たり前と思い始めておる顔がある。そういう顔は、夜に弱い」


 宗運は、しばし黙ってから頷いた。


「では、注意だけは入れておきます」


「入れておけ」


 惟種は言った。


「ただし騒ぐな。大きく締め上げれば、今度は余計な怯えが出る」


「承知しました」


 惟種はそこで、視線を中央へ戻した。


 森羅衆の陣は、やはり違って見えた。

 焚き火の置き方も、槍の立て方も、休む者と立つ者の分け方も、最初から一つの形になっている。


 それは、戦い方の違いでもあった。


 森羅衆は、三人組で動く。


 ただ寄り集まって斬り結ぶのではない。

 二人が前へ出てかかる。

 一人がその横、あるいは半歩後ろで補いに回る。

 前のどちらかが疲れれば、補いの一人がすぐそこへ入る。

 下がった者は息を整え、今度は補いへ回る。


 その巡りを絶やさない。

 力だけに頼らず、疲れを一人へ溜めぬ。

 三人で三人の弱いところを埋める。

 それが森羅衆の戦い方であり、惟種がわざわざ手元で育ててきた理由でもあった。


 勝ちに慣れていないわけではない。

 だが、勝ち癖で崩れてはいない。

 それは鍛えの差であり、体へ入れた動きの差でもある。


「森羅衆だけは、今夜の備えを変えろ」


 宗運がすぐに向き直る。


「何を」


「三人組の形を崩すな」


「は」


「今夜は、一人を松明係に回せ」


 宗運の目が、わずかに細くなる。


「二人で受け、一人が火を保つ、にございますか」


「そうだ」


 惟種は頷いた。


「夜に一番怖いのは、斬られることではない。見失うことだ」


「たしかに」


「二人はいつも通りに戦え。

 もう一人は、まず火を持て。

 味方の位置を切らすな。

 だが火を持つからといって、戦わぬわけではない。

 前の二人が疲れれば、火を脇へ渡してでも入れ。

 また別の者が火を取る。

 三人で回る形は崩すな」


 種茂が一歩進み出た。


「若君」


「何だ」


「それなら、夜でも崩れにくうございます」


「うむ」


「火がある限り、二人は互いの間合いを失いませぬ。補いも入りやすくなります」


 惟種は種茂を見た。


「それだ」


 種茂は深く頭を下げた。


「我らの持ち場には、徹底させます」


 親英もまた言った。


「伝令にも、森羅衆の火の位置を覚えさせておけば、夜のうちでも文の行き先を違えにくうございましょう」


「それもだ」


 惟種は頷いた。


「今夜、警戒を強めるのは森羅衆と伝令だけでよい」


 宗運が確認するように問うた。


「左右は」


「休ませろ」


 惟種は即答した。


 その一言で、そこにいた者らの顔つきが変わる。


「明日は決戦だ」


 惟種の声は低い。


「備えすぎて、朝に力が抜けておれば何にもならぬ」


「はい」


「今夜は、すべてを起こしておく必要はない。

 もし夜襲がなければ、朝方には森羅衆の松明備えも引かせる。

 夜番をそのまま朝まで引きずれば、明日の芯が鈍る」


 宗運が深く頷いた。


「承知しました」


「伝令には、夜のうちは馬と人を切らさず動かせ。

 ただし、それ以外は極力寝かせろ」


「は」


「緊張は要る。

 だが、疲れは要らぬ」


 惟豊が、そのやり取りをしばらく聞いていたが、やがて低く言った。


「それでよい」


 惟種が父を見る。


「全てを起こして待つのは、守る側の理ではある。だが、明日こちらから決めるつもりなら、それでは鈍る」


「はい」


「休ませるところは休ませよ。

 備えるところだけ備えよ。

 それが、いまの阿蘇にちょうどよい」


 種茂は、その言葉を胸の内で反芻していた。


 若君は警戒している。

 だが、怯えてはいない。

 休ませるところは休ませる。

 それでも芯だけは起こしておく。


 勝ち続けてきた家で、それを言い切れるのは簡単ではない。

 人はどうしても「全部備えればよい」と思いがちだからだ。


 だが若君は違う。

 明日の戦まで見ている。


「種茂」


 惟種が呼んだ。


「はっ」


「今夜、お前の持ち場は本陣寄りだ」


「承知しております」


「森羅衆の一部を預かるなら、まず今夜は火の巡りを乱すな」


「はっ」


「左がどうであれ、今夜はここを見ろ」


 その一言に、種茂の背がわずかに張った。


 左翼には清房がいる。

 家宗もいる。

 本来なら、そちらの動きも気になる。

 だが今夜、自分が立つべきところはそこではない。


「承知致しました」


 深く頭を下げる。


 若君の目の届くところで、まず働く。

 それが今の自分の役目だった。


 日は少しずつ傾いていった。


 陣のあちこちでは、最後の位置直しが進んでいた。

 旗の並びを整え、荷を寄せ、馬を引き、人を寝かせる場所と起こしておく場所を分ける。


 森羅衆の列では、すでに三人組ごとに小さな声が交わされている。


 誰が前へ出るか。

 誰が最初の火を持つか。

 火が落ちた時、次を誰が拾うか。

 前の二人のどちらが疲れれば、補いがどう入るか。


 形は、もともと体に入っている。

 今夜はその補いが、まず火を持つだけだ。


 右翼へも、宗運の配下が目立たぬよう声を入れに走っていた。

 今夜のうちは、気を抜くな。

 ただし騒ぐな。

 休める者は休め。


 それだけである。


 派手に締め上げぬのは、明日のためだった。


 日が落ちる。


 陣のあちこちに火が灯る。

 ただし中央の火は、明らかに置き方が違っていた。

 明るすぎず、暗すぎず、互いの位置だけは失わぬよう、間を取って焚かれている。


 表向き、阿蘇の陣は静かだった。


 今日のうちに大きな衝突はない。

 互いに陣を見せ、距離を量り、明朝の決戦へ備える。

 誰もがそう思う。

 思うからこそ、その静けさはかえって不気味だった。


 惟種は最後に、もう一度だけ陣全体を見渡した。


 中央は締まっている。

 左翼は静かに尖っている。

 右翼は、始まれば戦う。

 だが始まる前の静けさが危うい。


 それでも、今から全てを作り替えることはできぬ。


「気を引き締めよ」


 惟豊が低く言った。


 それは惟種に向けたのでもあり、宗運にも、親英にも、種茂にも、そしてこの陣そのものへ向けた言葉でもあった。


「今日のうちは静かであろう」


「はい」


 宗運が答える。


「だが、静かであることと、安全であることは違う」


「は」


「勝ってきた家ほど、その違いを忘れやすい」


 惟種は、その言葉を黙って受けた。


 日が落ちきる。


 森羅衆の夜番は早くも交代の順を決め始め、種茂も自分の預かる兵の列をもう一度見て回った。親英は本陣まわりの荷と使者の出入りを確認している。宗運は伝令の位置と夜の見張りの道筋を最後まで詰めていた。


 表向き、阿蘇の陣は静かだった。


 だが静けさとは、何も起こらぬということではない。


 そしてその夜、阿蘇の陣は思いも寄らぬ形で揺らぐことになる。

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