第七十三話 夜へ賭ける
四月の始まりの夜は、まだ冷えた。
肥前の空は晴れている。
晴れているということは、少弐にとってはもはや吉ではなかった。星がよく見える。雲が薄い。湿りがない。春先にしては空気が乾いている。四月に入れば雨も増えるはずだった。雨さえ来れば、阿蘇の鉄砲も少しは鈍る。火縄も、玉薬も、あの厭らしいほど切れ目のない運用も、いくらかは乱れる。
だが、空はそれを許さなかった。
勢福寺の奥の一間には、重い黙りが落ちていた。
上座に少弐冬尚。
その下に馬場頼周。
神代勝利。
小田政光。
灯は低い。
油皿の火が、四人の顔に細い影をつくっていた。
机の上には地図と兵数の板が置かれている。
数字はもう、見飽きるほど見た。
三千百。
少弐が集め得た兵の数である。
だが、冬尚の胸の内では、その数は最初から三千百ではなかった。
国衆はいる。
名は並ぶ。
槍も、人も、帳面の上には揃う。
だがその三千百が、三千百のまま働く保証はどこにもない。
阿蘇から文が入っている。
龍造寺旧縁をにおわせる言葉もある。
城の内では従っている顔をしながら、腹の底では勝ち馬を見ている者も少なくない。少しでも敗色が出れば、たちまち足を止める者が出る。止まるだけならまだよい。背を見せる者が一人出れば、そこから先は雪崩だ。
冬尚は、そのことをよく分かっていた。
最初に口を開いたのは小田政光だった。
「兵は三千百にございます」
言いながら、政光の目は地図ではなく板の上の数字を見ていた。
「だが、働くのはそのまま三千百とは思われませぬ」
神代勝利が低く言う。
「二千五百もおれば、ましな方か」
政光は苦く頷いた。
「敗色が少しでも見えれば、もっと減りましょう」
冬尚は黙って聞いていた。
言われずとも知っている。
だからこそ、数字の上だけで戦の勝ち負けを読めないのが今の少弐だった。
馬場頼周が静かに言った。
「阿蘇は四千二百」
その声は低く、妙に乾いていた。
「うち常備兵が千五百と聞きます」
神代勝利が板の上へ指を置く。
「そこが芯ですな」
「うむ」
「国衆がどれほど揺れようと、その千五百は崩れぬ」
冬尚が、そこでようやく口を開いた。
「兵数で劣る」
「はい」
勝利が答える。
「質でも劣ります」
「鉄砲か」
「それだけではございませぬ」
勝利は言った。
「鉄砲を回す兵、その後ろを支える兵、列を崩さぬ者、引き際を違えぬ者――阿蘇の常備は、そのあたりまで締まっております」
政光が継ぐ。
「こちらも鉄砲はいくらか集めました」
「だが」
「阿蘇のようには運用できませぬ」
政光の声は平らだった。
それがかえって、どうしようもなさを強くした。
「一度撃たせるだけなら、こちらにもできましょう。されど、あれのように火を絶やさず、列を乱さず、兵全体の足を止めぬ形にはなっておりませぬ」
冬尚は、薄く息を吐いた。
正面から受ければ、押し切られる。
それはもはや疑いようがなかった。
「雨は」
冬尚が問う。
馬場頼周が、障子の外へ目をやった。
「ございませぬ」
短い返答だった。
「空も乾いております。四月なら一雨あってもおかしゅうはありませぬが……」
「天は少弐を助けぬか」
冬尚の声に、自嘲が少しだけ混じる。
だが、誰もそれを慰めるようなことは言わない。
いまはそういう座ではない。
「籠もるか」
冬尚が次に言った。
その一言で、部屋の空気がまた重くなった。
籠城。
それは負けではない。
だが勝ちでもない。
神代勝利が真っ先に顔をしかめた。
「それはなりますまい」
「なにゆえだ」
「籠もれば、少弐はそこで終わります」
勝利の声は太い。
「兵を保つことはできましょう。日も稼げましょう。されど、肥前の国衆どもは皆、こう見ます。少弐はもう打って出られぬ、と」
政光も頷く。
「大内もまた、同じように見ましょうな」
「うむ」
「いまはまだ、我らが生きておると示せております。だが籠もれば、それは生きておるのではなく、死に切れぬだけと見られます」
冬尚は、その言葉を受けた。
まことにその通りだった。
大内への睨みを利かせるためにも、少弐はまだ旗を立てて戦える家であると見せねばならぬ。ここで籠もれば、その旗は自ら下ろすに等しい。
「勝たねば飲まれる」
冬尚が、ぽつりと呟く。
それは誰に向けた言葉でもなかった。
だが、この座にいる全員が、その一言を自分の胸の内へ落とした。
少弐はいま、ただ阿蘇と戦っているのではない。
勝てねば、阿蘇に呑まれる。
そして大内にも、いよいよ見限られる。
大友の裏の支えがあろうと、それは火を絶やさぬための薪に過ぎぬ。家そのものを立て直す力ではない。
馬場頼周が、その時、不意に畳へ手をついた。
誰もすぐには動かなかった。
「殿」
頼周の声は静かだった。
「何だ」
冬尚もまた、平らに返す。
「龍造寺の件」
その一言で、空気が変わった。
神代勝利の目がわずかに動く。
政光は、じっと頼周を見た。
誰もそこを軽く扱えるとは思っていなかった。
「元をただせば、某の引いた刃にございます」
頼周は言った。
声には、妙な力みがなかった。
だからこそ重かった。
「もし、某一人の首を差し出し、肥前の一部を譲ることで少弐が守られるなら」
そこで、頼周は一段深く頭を下げた。
「そのように致しましょう」
部屋の空気が凍ったように静まる。
「殿……ご判断を」
その言葉は、ただの詫びではなかった。
自分一人の命で、この場の泥と血をまとめられるならそうする、という、重臣としての最後の切り札だった。
だが、それを聞いた冬尚は、ほとんど間を置かずに言った。
「違う」
頼周が顔を上げる。
「龍造寺の件は、汝の独断ではない」
冬尚の声は低かった。
「少弐が生きるために、家として選んだ道だ」
その一言には、当主としての重さがあった。
「今さら首ひとつ差し出して済む話ではない」
頼周は何も言わない。
「それに」
冬尚は続けた。
「そのようなことをすれば、家臣も国衆も、今度は少弐そのものを見限ろう」
政光が、そこで静かに頷いた。
「まことに」
「責を一人へ押しつけ、命を買う家と見られれば終いだ」
冬尚の声はさらに深くなる。
「頼周」
「は」
「そなたの首では償えぬ」
その言葉は、冷たいようでいて、むしろ逆だった。
一人に背負わせぬという、最後の庇いでもあった。
「償うなら」
冬尚は言う。
「勝ちで償え」
その一言が、部屋の中心へ重く落ちた。
神代勝利が、そこでようやく口を開いた。
「ならば、正面からは持ちませぬ」
「うむ」
「鉄砲を無効にするには、雨が欲しい。されど雨は来ぬ」
「来ぬ」
「ならば、夜しかございませぬ」
冬尚は黙って聞く。
「夜襲にございます」
勝利の声が、少しずつ太くなる。
「阿蘇の常備兵の芯を、夜のうちに叩くほかありませぬ。列を整え、鉄砲を回し、明るいうちに戦えば、こちらが先に削られます」
政光が続ける。
「しかも国衆どもは、昼の正面戦になればなおさら揺れましょう」
「うむ」
「だが、夜のうちに阿蘇の前備えを破り、陣を乱し、若君の近くへまで火を届かせられれば、あれらも一度は『勝てるか』と錯覚します」
冬尚は、その“錯覚”という言葉に目を向けた。
「錯覚でよいのか」
「今は、それでも要ります」
政光は答えた。
「国衆どもに必要なのは、理ではありませぬ。目の前の勝ちの匂いにございます」
それが、あまりに正直な言葉だったので、誰もすぐには返せなかった。
頼周が、ゆっくりと背を起こした。
「夜襲なら、某が先へ出ます」
勝利が横目で見る。
「某も」
「いや」
頼周は低く言った。
「龍造寺の件の血を背負うのは、やはり某が先であろう」
冬尚は、その言葉を遮らなかった。
頼周は続ける。
「阿蘇の常備兵が芯なら、その芯を割るしかございませぬ。正面では無理。ならば夜のうちに、こちらから牙を立てる」
「勝てるか」
冬尚が問うた。
それは、希望を問う声ではなかった。
覚悟に値する策かを問う声である。
頼周は、少しだけ考え、それから正直に答えた。
「分かりませぬ」
神代勝利が低く笑った。
「そりゃそうじゃ」
「だが」
頼周の声が落ちる。
「それ以外に、勝てる目も見えませぬ」
その言葉が、今夜のすべてだった。
正面では駄目。
雨も来ない。
籠城では死ぬ。
ならば夜しかない。
勝てるかは分からぬ。
だが、それ以外にはもっと勝てぬ。
冬尚は長く黙っていた。
油皿の火が、わずかに揺れる。
外では風もない。
空は晴れたままだ。
ここで夜襲を決めれば、少弐はもう運を賭けることになる。
しかも、国衆を完全には信用できぬまま。
ならば、誰が芯に立つのか。
冬尚は、ゆっくりと顔を上げた。
「頼周」
「は」
「そなたは出るのだな」
「は」
「ならば、某も出る」
座が一気に静まる。
勝利が思わず顔を上げ、政光の目も鋭くなる。
「殿」
頼周が低く言う。
「党首が、そこまでなさることは」
「分かっておる」
冬尚は言った。
「だが今の三千百は、三千百のまま働くかも怪しい」
その声は低い。
だが、ぶれない。
「ならば、少弐の当主が前におると見せねば、夜のうちから足が止まる者も出よう」
勝利が、重く息を吐いた。
「……理にございます」
「神代」
「は」
「そなたは横から支えよ」
「承知」
「政光」
「は」
「国衆どもが崩れぬよう、最後まで繋ぎ止めよ」
「承りました」
そして冬尚は、最後に言った。
「今宵の会議は、これで足りる」
誰も動かない。
「夜襲をかける」
その一言で、もう決まった。
「阿蘇の鉄砲は、明るい野で受けぬ」
「雨は来ぬ」
「ならば夜に賭ける」
「芯を衝き、乱し、勝ちの匂いをこちらへ引き寄せる」
それが少弐の最後の勝ち筋となった。
頼周は深く頭を下げた。
「御意」
勝利も、政光も、同じく頭を下げる。
その姿を見ながら、冬尚は一つだけ思っていた。
ここで勝たねば、少弐は終わる。
ならば、当主が前へ出ぬ理由もない。
人がはけたあとも、頼周だけは残った。
冬尚はそれを咎めなかった。
「殿」
頼周が静かに言う。
「何だ」
「先ほどのこと」
「首の話か」
「は」
「忘れよ」
冬尚は言った。
「頼周」
「は」
「そなたの血が要るなら、戦で流せ」
頼周は、しばらく答えられなかった。
「あれは少弐のために選んだ道だった」
冬尚の声は、妙に静かだった。
「ならば最後まで、少弐のために使え」
頼周は深く頭を下げた。
「……かたじけなく」
その夜の空には、やはり雨の気配はなかった。
星が見える。
空は澄んでいる。
だからこそ、少弐は夜へ賭けるしかない。
明るい野では勝てぬ。
ならば暗い中で噛みつく。
勝つか、ここで終わるか。
もう、その二つしか残っていなかった。




