表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
火の山の若君は、未来を夢に見る ~阿蘇家嫡流の若君、名臣甲斐宗運と乱世を切り拓く~  作者: アトラス


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

70/86

第七十二話 送る者の役目

 国衆への最後の文は、その夜のうちに走った。


 応ずる者。

 なお迷う者。

 それでも少弐へ残る者。


 肥前の国衆は、もう静かなまま一つではいられぬところまで来ていた。

 文で揺らし、義で引き寄せ、最後は兵で見せる。そこまで含めて、これが阿蘇の戦である。


 宗運が、文を閉じて言った。


「これで最後にございます」


 惟種は短く答えた。


「次は兵が申す」


 それだけで、座は終わった。


 もう後戻りはない。

 あとは出るだけである。


     *


 出陣の朝は、妙に静かだった。


 人は多い。

 馬もいる。

 旗も立つ。

 具足の緒を締める音、槍の石突が床へ当たる音、草摺の擦れる音、外で人足が呼び交わす声もある。


 それでもなお、館の奥には、嵐の前のような静けさがあった。


 加世は、まだ暗さの残るうちに起きていた。


 眠れなかったわけではない。

 眠っても、胸の内で同じことを何度も繰り返していただけだった。


 いよいよ来た。


 少弐を折る戦。

 肥前の筋を定める戦。

 龍造寺を再び地へ返すための戦。


 そして、阿蘇がこれまで積んできたものを、本当に次の段へ押し上げる戦でもある。


 惟種は出る。

 惟豊も出る。

 宗運もまた動く。

 家の男たちは、外へ向けて力を注ぐ。


 ならば、内を預かる者が要る。


 加世は鏡の前に座したまま、しばらく動かなかった。


 島津の姫として生まれた。

 それは幼い頃から、何度も言われてきたことだった。


 姫とは、ただ守られる者ではない。

 家と家のあいだに置かれ、時に言葉となり、時に証となり、時に沈黙そのもので家を支える者だ。

 笑い方ひとつ。

 座り方ひとつ。

 涙を見せる場と見せぬ場。

 すべてに意味がある。


 それを、加世はよく知っていた。


 島津の姫であるとは、ただ島津の血を引くことではない。

 家の重さを、言葉にせずとも背に乗せて生きることだ。


 そして今、その重さは阿蘇の中でも消えてはいない。

 むしろ、消えぬまま、別の意味を持ち始めていた。


 阿蘇にいるからこそ、島津との縁を軽くせぬこと。

 阿蘇の内にあって、外から来る目に隙を見せぬこと。

 若君が不在の時に、家の内を揺らがせぬこと。


 それが今の自分の役目である。


 加世は、ようやく立ち上がった。


 今日は豪奢にしてはならない。

 だが軽すぎてもならない。

 送り出す朝に相応しい、静かな装いを選ぶ。

 色は抑え、帯も張りすぎぬものにする。

 手元には、前もって用意させておいた白木の盃と、小さな守り袋がある。


 守り袋の中には、島津から持ってきた古い布を一切れ入れてあった。

 別に霊験があるわけではない。

 だが、縁とはこういうものでよいと加世は思っている。


 見えぬものを、形だけでも持たせる。

 それで人の心が少しでもほどけぬなら、十分である。


 館の一間には、すでに惟種と惟豊が入っていた。

 出陣前の、わずかな静かな時間である。


 惟豊は座しているだけで重い。

 すでに戦の顔になっていた。

 惟種はその少し下、平らな顔をしていたが、目の奥はもう前を見ている。


 加世は、座へ入る前に一度だけ深く息を整えた。


 泣くな、と自分に言い聞かせる。

 泣きたいわけではない。

 だが、胸の内が熱くなる瞬間はある。

 それでも、ここでそれを前へ出すのは違う。


 今日の自分は、送る者である前に、預かる者でなければならない。


「加世」


 惟豊が先に声をかけた。


「は」


「頼むぞ」


 たった一言だった。


 だが、その一言の中には、蔵も、文も、寺も、女房衆も、負傷して戻る者の受け入れも、港へ残る人足の空気も、何もかもが入っていた。


 加世は深く頭を下げた。


「お任せ下さいませ」


 惟豊は頷くだけで、それ以上は言わなかった。

 それでよい。

 長く言葉を重ねる方が、かえって軽くなる時もある。


 加世は惟種の前へ進み、白木の盃を置いた。


「此度の戦にございます」


「うむ」


「肥前の筋を定める、大事な戦にございます」


「そうだ」


 惟種の声は、いつも通り低く落ち着いていた。

 それがありがたくもあり、少しだけ憎らしくもある。

 こういう時、この人は自分の胸の内をひどく上手に隠す。


 加世は静かに酒を注いだ。


「御武運を」


 惟種は盃を取り、ほんの少しだけ口をつける。

 加世もまた、形式に従って盃を受けた。


 そのあと、守り袋を差し出した。


「これは」


 惟種が問う。


「つまらぬものにございます」


 加世は答えた。


「島津より持って参った布の端を、ひと切れ」


 惟種の目が、わずかにやわらぐ。


「そうか」


「若君が外でお戦いになるなら、せめて見えぬところに縁の一つもお持ち下さいませ」


 惟種は、それを受け取った。


 大げさな礼はない。

 だが、その受け取り方が丁寧だったので、加世はそれだけで少し胸が静まった。


「……加世」


「はい」


「重い役だぞ」


 その言葉に、加世は初めてまっすぐ惟種を見た。


 この人は、分かっている。

 自分がただ残されるのではなく、置かれるのでもなく、預かるのだと分かって言っている。


「承知の上にございます」


 加世は答えた。


「戦場へ出ぬから軽いとは、誰にも申させませぬ」


 座が静まる。


 惟豊が、その言葉を黙って聞いていた。

 惟種もまた、何も言わない。


 だが加世は、言葉を継いだ。


「若君が外を定めるなら、わたくしは内を定めます」


 声は高くない。

 けれど、よく通った。


「蔵、文、寺、女房衆、負傷して戻る者、港に残る者――いずれも揺らがせませぬ」


 加世は言う。


「阿蘇の家が、留守に崩れたとは決して申させませぬ」


 惟豊の目が、そこでほんのわずかに細くなった。

 感心か、安堵か、その両方かもしれなかった。


 惟種が低く言う。


「島津の姫らしいな」


 加世は、それに少しだけ口元を和らげた。


「島津の姫にございますれば」


「うむ」


「守るべきところで崩れるわけにはまいりませぬ」


 その言葉は、惟種へ向けたものでもあり、自分自身へ向けたものでもあった。


 島津の姫として育てられた。

 ならば、送る朝に袖を濡らして、ただ哀しみだけを前へ出すわけにはいかない。

 夫を見送る女である前に、家を預かる女であれ。

 それが島津の躾であり、加世の誇りでもあった。


「ただ」


 加世は、そこでほんの少しだけ言葉を止めた。


 胸の内には、務めだけではないものもある。

 それを全て隠し切るほど、自分は年を重ねてはいない。


「ただ、どうか」


 惟種が目を向ける。


「勝ってお戻り下さいませ」


 それは姫としての言葉ではなく、加世という一人の女の言葉だった。


 だが、その一言を言ったからといって、今の自分の重みが損なわれるわけではないと、もう分かっていた。


 惟種は、少しだけ間を置いてから言った。


「戻る」


 短い。

 だが、それで十分だった。


 この人は長々と約束しない。

 だからこそ、その短い一言が重い。


 加世は深く頭を下げた。


「お待ちしております」


 惟豊が、そこで静かに立ち上がった。


「よい」


 その一言で、この場は終わる。


 もうこれ以上、言葉を重ねてはならぬ時だった。

 言葉を足せば、たぶん誰かの心が緩む。

 だからここで切るのが正しい。


 惟豊が先に歩き出し、惟種もそれに従う。


 加世はその背を見送った。


 行ってしまえば早い。

 こういう時、人は驚くほど簡単に背を向け、廊を渡ってゆく。

 だが、その背中を見ている加世の胸の内では、いくつもの思いが静かに重なっていた。


 惟種は外へ出る。

 自分は中に残る。


 それは、片方が軽く、片方が重いという話ではない。

 役が違うだけだ。


 若君が外で負けぬためには、阿蘇の内が乱れぬことが要る。

 兵が安心して前へ出るためには、戻る先の蔵が生き、寺が開き、女房衆が騒がず、負傷した者を受け入れる場があることが要る。


 加世は、それを守る。


 島津の姫として。

 阿蘇の女として。

 そして惟種を送り出した者として。


 人が去ったあと、部屋にはまだ酒の匂いがわずかに残っていた。

 朝の光は少しずつ強くなっている。

 外では、馬のいななきと、兵の動く音がだんだん近づいてきた。


 加世は、しばらくその場に立ったまま動かなかった。


 泣きたくはない。

 だが、胸が締まることは止められない。

 それでも、ここでそれに沈まぬのが自分の務めだと、もう分かっていた。


「姫様」


 女房が、少し控えめに声をかける。


 加世は振り返った。


「蔵の鍵と、今日の文の帳面を」


「こちらへ」


「それから、寺へも」


「はい」


「負傷して戻る者のため、部屋を空けておきなさい」


「かしこまりました」


 加世の声は、もう揺れていなかった。


 務めとは不思議なもので、いったん手をつければ、人の胸の内の揺れを少しずつ静めてくれる。


 よい。

 これでよい。


 若君が外を守るなら、自分は内を守る。

 その役目を果たせば、島津の姫としても、阿蘇の姫としても恥はない。


 加世は廊へ出た。


 朝の風はまだ冷たい。

 けれど、もう冬の風ではなかった。

 遠くで旗が動き、人の列が整ってゆくのが見える。


 戦が始まる。


 だが、その戦は、戦場だけで行われるのではない。

 家の中でもまた、別の形で始まっている。


 加世は袖を整え、静かに前を向いた。


 この留守は、わたくしが預かる。


 その思いは、声に出さずとももう十分に固まっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ