第七十二話 送る者の役目
国衆への最後の文は、その夜のうちに走った。
応ずる者。
なお迷う者。
それでも少弐へ残る者。
肥前の国衆は、もう静かなまま一つではいられぬところまで来ていた。
文で揺らし、義で引き寄せ、最後は兵で見せる。そこまで含めて、これが阿蘇の戦である。
宗運が、文を閉じて言った。
「これで最後にございます」
惟種は短く答えた。
「次は兵が申す」
それだけで、座は終わった。
もう後戻りはない。
あとは出るだけである。
*
出陣の朝は、妙に静かだった。
人は多い。
馬もいる。
旗も立つ。
具足の緒を締める音、槍の石突が床へ当たる音、草摺の擦れる音、外で人足が呼び交わす声もある。
それでもなお、館の奥には、嵐の前のような静けさがあった。
加世は、まだ暗さの残るうちに起きていた。
眠れなかったわけではない。
眠っても、胸の内で同じことを何度も繰り返していただけだった。
いよいよ来た。
少弐を折る戦。
肥前の筋を定める戦。
龍造寺を再び地へ返すための戦。
そして、阿蘇がこれまで積んできたものを、本当に次の段へ押し上げる戦でもある。
惟種は出る。
惟豊も出る。
宗運もまた動く。
家の男たちは、外へ向けて力を注ぐ。
ならば、内を預かる者が要る。
加世は鏡の前に座したまま、しばらく動かなかった。
島津の姫として生まれた。
それは幼い頃から、何度も言われてきたことだった。
姫とは、ただ守られる者ではない。
家と家のあいだに置かれ、時に言葉となり、時に証となり、時に沈黙そのもので家を支える者だ。
笑い方ひとつ。
座り方ひとつ。
涙を見せる場と見せぬ場。
すべてに意味がある。
それを、加世はよく知っていた。
島津の姫であるとは、ただ島津の血を引くことではない。
家の重さを、言葉にせずとも背に乗せて生きることだ。
そして今、その重さは阿蘇の中でも消えてはいない。
むしろ、消えぬまま、別の意味を持ち始めていた。
阿蘇にいるからこそ、島津との縁を軽くせぬこと。
阿蘇の内にあって、外から来る目に隙を見せぬこと。
若君が不在の時に、家の内を揺らがせぬこと。
それが今の自分の役目である。
加世は、ようやく立ち上がった。
今日は豪奢にしてはならない。
だが軽すぎてもならない。
送り出す朝に相応しい、静かな装いを選ぶ。
色は抑え、帯も張りすぎぬものにする。
手元には、前もって用意させておいた白木の盃と、小さな守り袋がある。
守り袋の中には、島津から持ってきた古い布を一切れ入れてあった。
別に霊験があるわけではない。
だが、縁とはこういうものでよいと加世は思っている。
見えぬものを、形だけでも持たせる。
それで人の心が少しでもほどけぬなら、十分である。
館の一間には、すでに惟種と惟豊が入っていた。
出陣前の、わずかな静かな時間である。
惟豊は座しているだけで重い。
すでに戦の顔になっていた。
惟種はその少し下、平らな顔をしていたが、目の奥はもう前を見ている。
加世は、座へ入る前に一度だけ深く息を整えた。
泣くな、と自分に言い聞かせる。
泣きたいわけではない。
だが、胸の内が熱くなる瞬間はある。
それでも、ここでそれを前へ出すのは違う。
今日の自分は、送る者である前に、預かる者でなければならない。
「加世」
惟豊が先に声をかけた。
「は」
「頼むぞ」
たった一言だった。
だが、その一言の中には、蔵も、文も、寺も、女房衆も、負傷して戻る者の受け入れも、港へ残る人足の空気も、何もかもが入っていた。
加世は深く頭を下げた。
「お任せ下さいませ」
惟豊は頷くだけで、それ以上は言わなかった。
それでよい。
長く言葉を重ねる方が、かえって軽くなる時もある。
加世は惟種の前へ進み、白木の盃を置いた。
「此度の戦にございます」
「うむ」
「肥前の筋を定める、大事な戦にございます」
「そうだ」
惟種の声は、いつも通り低く落ち着いていた。
それがありがたくもあり、少しだけ憎らしくもある。
こういう時、この人は自分の胸の内をひどく上手に隠す。
加世は静かに酒を注いだ。
「御武運を」
惟種は盃を取り、ほんの少しだけ口をつける。
加世もまた、形式に従って盃を受けた。
そのあと、守り袋を差し出した。
「これは」
惟種が問う。
「つまらぬものにございます」
加世は答えた。
「島津より持って参った布の端を、ひと切れ」
惟種の目が、わずかにやわらぐ。
「そうか」
「若君が外でお戦いになるなら、せめて見えぬところに縁の一つもお持ち下さいませ」
惟種は、それを受け取った。
大げさな礼はない。
だが、その受け取り方が丁寧だったので、加世はそれだけで少し胸が静まった。
「……加世」
「はい」
「重い役だぞ」
その言葉に、加世は初めてまっすぐ惟種を見た。
この人は、分かっている。
自分がただ残されるのではなく、置かれるのでもなく、預かるのだと分かって言っている。
「承知の上にございます」
加世は答えた。
「戦場へ出ぬから軽いとは、誰にも申させませぬ」
座が静まる。
惟豊が、その言葉を黙って聞いていた。
惟種もまた、何も言わない。
だが加世は、言葉を継いだ。
「若君が外を定めるなら、わたくしは内を定めます」
声は高くない。
けれど、よく通った。
「蔵、文、寺、女房衆、負傷して戻る者、港に残る者――いずれも揺らがせませぬ」
加世は言う。
「阿蘇の家が、留守に崩れたとは決して申させませぬ」
惟豊の目が、そこでほんのわずかに細くなった。
感心か、安堵か、その両方かもしれなかった。
惟種が低く言う。
「島津の姫らしいな」
加世は、それに少しだけ口元を和らげた。
「島津の姫にございますれば」
「うむ」
「守るべきところで崩れるわけにはまいりませぬ」
その言葉は、惟種へ向けたものでもあり、自分自身へ向けたものでもあった。
島津の姫として育てられた。
ならば、送る朝に袖を濡らして、ただ哀しみだけを前へ出すわけにはいかない。
夫を見送る女である前に、家を預かる女であれ。
それが島津の躾であり、加世の誇りでもあった。
「ただ」
加世は、そこでほんの少しだけ言葉を止めた。
胸の内には、務めだけではないものもある。
それを全て隠し切るほど、自分は年を重ねてはいない。
「ただ、どうか」
惟種が目を向ける。
「勝ってお戻り下さいませ」
それは姫としての言葉ではなく、加世という一人の女の言葉だった。
だが、その一言を言ったからといって、今の自分の重みが損なわれるわけではないと、もう分かっていた。
惟種は、少しだけ間を置いてから言った。
「戻る」
短い。
だが、それで十分だった。
この人は長々と約束しない。
だからこそ、その短い一言が重い。
加世は深く頭を下げた。
「お待ちしております」
惟豊が、そこで静かに立ち上がった。
「よい」
その一言で、この場は終わる。
もうこれ以上、言葉を重ねてはならぬ時だった。
言葉を足せば、たぶん誰かの心が緩む。
だからここで切るのが正しい。
惟豊が先に歩き出し、惟種もそれに従う。
加世はその背を見送った。
行ってしまえば早い。
こういう時、人は驚くほど簡単に背を向け、廊を渡ってゆく。
だが、その背中を見ている加世の胸の内では、いくつもの思いが静かに重なっていた。
惟種は外へ出る。
自分は中に残る。
それは、片方が軽く、片方が重いという話ではない。
役が違うだけだ。
若君が外で負けぬためには、阿蘇の内が乱れぬことが要る。
兵が安心して前へ出るためには、戻る先の蔵が生き、寺が開き、女房衆が騒がず、負傷した者を受け入れる場があることが要る。
加世は、それを守る。
島津の姫として。
阿蘇の女として。
そして惟種を送り出した者として。
人が去ったあと、部屋にはまだ酒の匂いがわずかに残っていた。
朝の光は少しずつ強くなっている。
外では、馬のいななきと、兵の動く音がだんだん近づいてきた。
加世は、しばらくその場に立ったまま動かなかった。
泣きたくはない。
だが、胸が締まることは止められない。
それでも、ここでそれに沈まぬのが自分の務めだと、もう分かっていた。
「姫様」
女房が、少し控えめに声をかける。
加世は振り返った。
「蔵の鍵と、今日の文の帳面を」
「こちらへ」
「それから、寺へも」
「はい」
「負傷して戻る者のため、部屋を空けておきなさい」
「かしこまりました」
加世の声は、もう揺れていなかった。
務めとは不思議なもので、いったん手をつければ、人の胸の内の揺れを少しずつ静めてくれる。
よい。
これでよい。
若君が外を守るなら、自分は内を守る。
その役目を果たせば、島津の姫としても、阿蘇の姫としても恥はない。
加世は廊へ出た。
朝の風はまだ冷たい。
けれど、もう冬の風ではなかった。
遠くで旗が動き、人の列が整ってゆくのが見える。
戦が始まる。
だが、その戦は、戦場だけで行われるのではない。
家の中でもまた、別の形で始まっている。
加世は袖を整え、静かに前を向いた。
この留守は、わたくしが預かる。
その思いは、声に出さずとももう十分に固まっていた。




