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火の山の若君は、未来を夢に見る ~阿蘇家嫡流の若君、名臣甲斐宗運と乱世を切り拓く~  作者: アトラス


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第七十一話 名を改める朝

 三月の終わりは、春というにはまだ硬かった。


 夜の冷えは朝まで土に残り、館の庭へ出れば、石の上にも板の上にも、冬の名残が薄く張りついているのが分かる。空は明るい。だが、その明るさはまだ人の心をほどくほど柔らかくはない。


 その朝、鍋島孫四郎は早くから目を覚ましていた。


 眠れなかったわけではない。

 眠ってもなお、胸の内で同じことを何度も考え続けていただけだった。


 今日、願い出る。

 今日、言わねばならぬ。


 少弐との決戦は近い。

 兵は集まりつつあり、文はすでに肥前へ走っている。

 この戦が、ただ一度の合戦ではないことは、もはや誰の目にも明らかだった。


 ここで少弐を折らねば、龍造寺はまた宙に浮く。

 肥前の国衆はまた待つ。

 阿蘇もまた、筑後と港を抱えたまま、背に火種を残す。


 ならば、ここで自分も定めねばならぬ。


 何者として戦に出るのか。

 誰へ義を立て、誰へ身を預けるのか。


 孫四郎は、若い。

 だが、若いからといって何も知らぬわけではなかった。


 主家である龍造寺がどのように落ち、誰が死に、誰が生き延びたか。

 阿蘇がその残り火をどう拾い、どう抱えてここまで来たか。

 そして、若君が何を見て、どこまで目を伸ばしているか。


 それを、近くで見てきた。


 矢部川河口で、まだ形にもならぬ船台を前にした日、孫四郎の心はもう半ば定まっていた。

 あの若君は、戦だけを見ておらぬ。

 国を見ている。

 その先を見ている。

 天下と、その外まで見ようとしている。


 その背を追うなら、この一生は惜しくない。


 だが、それでも順を違えたくはなかった。


 龍造寺への義がある。

 それを曖昧にしたまま、若君へだけ熱を向けるのは違う。

 若君自身が、そんな軽い忠を喜ぶ人ではないことも、もう分かっていた。


 だからこそ、まずは形が要る。

 名が要る。

 そして義を立てる機会が要る。


 その朝の座は、大きくはなかった。


 上座に惟豊。

 その下に惟種。

 宗運が控え、さらに今日は龍造寺家宗と鍋島清房も同席していた。


 余計な者は入れていない。

 この話は、軽い祝儀でも、若者ひとりの願いでもなく、家と義の置き場を決める話だったからである。


 孫四郎は畳へ手をつき、深く頭を下げた。


「お願い申し上げたき儀がございます」


 惟豊の声は低かった。


「申せ」


「此度の出陣に先立ち、元服をお許しいただきたく存じます」


 座は静まった。


 春浅い朝の冷えが、そのまま畳の上に落ちたような静けさだった。


 惟豊はすぐには答えず、孫四郎を見た。

 若い。

 だが、言葉の置き方は軽くない。


「早いと思わぬか」


 責める声ではない。

 だが、軽々しい願いかどうかを試す声ではあった。


「思います」


 孫四郎は答えた。


「されど、此度の戦へ、ただの孫四郎のまま出とうはございませぬ」


「なにゆえ」


「龍造寺の名が、いまなお若君の御手の内にございますゆえに」


 惟豊の目が、わずかに細くなる。


 孫四郎は続けた。


「この戦で戦功を立て、まず龍造寺への義を形にしたく存じます」


 その一言に、鍋島清房の目が静かに動いた。

 家宗もまた、顔色こそ変えぬが、その先を逃すまいとしていた。


「そのうえで」


 孫四郎は少し息を継いだ。


「我が身の行き先を、あらためて定めとうございます」


 最初に口を開いたのは惟種だった。


「それは軽く受けてよい願いではない」


 孫四郎は顔を上げた。


 惟種の声は平らだった。

 だが、その平らさの中にこそ重みがあった。


「元服は、ただ髪を改めることではない」


「はい」


「烏帽子親を誰に願うかは、どこへ名を結ぶかということでもある」


「承知の上にございます」


 惟種は少しだけ黙った。


「それに、お前はまだ龍造寺への義を果たし切ってはおらぬ」


「はい」


「ならば、今ここで心の置き場だけを先へ走らせるのは違う」


 孫四郎は、その言葉をまっすぐ受けた。


 痛い。

 だが、それでよかった。

 この人ならそう言うと思っていたし、そう言うからこそ、自分はこの人を選びたいのだと分かっていた。


 その時、鍋島清房が静かに口を開いた。


「孫四郎」


「は」


「若君へ心を寄せるのはよい」


 声に余分な熱はない。

 だが、冷たくもなかった。


「だが、順を違えるな」


 孫四郎の背がわずかに張る。


「まず立てるべきは、龍造寺への義だ」


 清房は言った。


「若君も、それを違えぬからこそ、我らを抱えておられる」


 その言葉には、鍋島の年長者としての厳しさがあった。

 もしここで孫四郎が龍造寺を飛び越えて惟種へ駆け込もうとするなら、清房はたぶん止めたであろう。


 だが孫四郎の胸の内にあるものが、そういう軽い熱ではないと、清房もまた分かっていた。


 龍造寺家宗が、さらにその後を受けた。


「孫四郎、お前が若君へ心を決めておることは、見れば分かる」


 家宗の声は低い。


「だが今はまだ、龍造寺は若君の内にある」


「……はい」


「ならば鍋島の忠は、まず龍造寺を地へ戻すことで立てよ」


 孫四郎は深く頭を下げた。


「承知しております」


 その返事は、震えていなかった。


「ゆえにこそ願います」


 惟種の目が、わずかに動く。


「此度の戦で、龍造寺への義を立てとうございます」


 孫四郎の声は、ここでようやく芯を持った。


「子どものまま、若君の御手で龍造寺が戻るその初めの戦に出とうはございませぬ」


 座は静まったままだった。


「そして」


 孫四郎は続ける。


「その義を立てたそののち、我が身の行き先は、あらためて若君の御前に願い出とうございます」


 それは、前のめりな誓いではなかった。

 順を守り、義を先に置き、それでもなお心の先を隠さぬ言葉だった。


 惟種が、そこで初めて問うた。


「それでも、烏帽子親をわしに願うか」


 その問いは重かった。


 惟豊でもなく。

 家宗でもなく。

 阿蘇家そのものの棟梁でもなく。


 若君その人へ願う。

 それは、ただの元服の形ではない。

 この先、誰の背を追うかを世に示すに近い。


「願います」


 孫四郎は迷わなかった。


「なにゆえだ」


 惟種の声は静かだった。


 孫四郎は、一度だけ目を閉じた。

 矢部川河口。

 船台。

 冷たい風。

 そして、海の見えぬ山の家が、海のその先を見ていたあの横顔。


「わたしは、若君の御目を見ました」


 惟種は黙っている。


「阿蘇の家を守るだけではなく、肥後を静め、その先を見ておられる御目を見ました」


 孫四郎の声は少しずつ深くなった。


「矢部川の河口で、まだ形にもならぬ船台を前にして、若君は海のその先を見ておられた」


 座にいる誰も動かない。


「小さな境目ではなく、天下と、その外まで見ておられる」


 そこで初めて、惟種の目がほんのわずかに細くなった。


「それを見てしまった以上、わたしはもう違えることができませぬ」


 その言葉は、若い熱だけで言えるものではなかった。

 軽い憧れでもない。


「龍造寺が若君の御手で再び地へ戻るなら」


 孫四郎は続けた。


「我が龍造寺への義も、若君に尽くすことでこそ、ようやく果たし切れると思うております」


 長い沈黙が落ちた。


 火の音だけが、小さく鳴る。


 やがて惟豊が、ゆっくりと口を開いた。


「惟種」


 惟種が父を見る。


「そこまで言う若者を、退けるのもまた違う」


 宗運が、わずかに目を伏せた。

 惟豊は、こういうところで最後の形を与える。


「ですが…」


 惟豊の声は重い。


「これは若い者の熱だけで済ませてよい儀ではない。家の儀として受けよ」


「……はい」


 惟種の返事は静かだった。


「そなたが一度断ったのは正しい」


 惟豊は言う。


「龍造寺への義を曖昧にしたまま受けるのは軽い」


「はい」


「されど、此度の戦でその義を立てるつもりでおるなら、若君が烏帽子親となってもよい」


 孫四郎の胸の内で、何かが静かにほどけた。


 惟種の情ではない。

 惟豊の裁可によって、家の儀として認められた。


 それが何より重かった。


「元服を許す」


 惟豊が言った。


「烏帽子親は若君が務めよ」


「は」


 惟種の返事は短かった。

 だが、その短さの中に、もう後へは退かぬ重さがあった。


 それからの儀は、華やかではなく、静かに進んだ。


 髪を改める。

 烏帽子をいただく。

 名を改める。


 騒ぎのない儀ほど重いものはない。


 惟種が、あらためて孫四郎の前に座した。


 若い顔にはまだ幼さの名残がある。

 だが、その幼さを自ら脱ぎ捨てようとする顔でもあった。


「よいか」


 惟種が言った。


「は」


「名を改めるとは、飾りを変えることではない」


「承知しております」


「その名で、生きるということだ」


「はい」


 惟種は、そこで一字を与えた。


「今日より、鍋島孫四郎種茂と名乗れ」


 孫四郎――いや、種茂は、深く頭を下げた。


「ありがたき幸せにございます」


 その声は、すでに先ほどまでの若い熱だけではなかった。

 新しい名の重みが、もう肩へ乗っている。


 惟豊が改めて問う。


「種茂」


「はっ」


「此度の戦で、何を立てる」


 種茂は顔を上げた。


「龍造寺への義にございます」


「どう立てる」


「戦功をもってにございます」


 惟豊は、さらに問うた。


「その後は」


 種茂は、そこで一度だけ惟種を見た。


 河口で見た背。

 天下とその外を語る声。

 五百年先の礎を置きたいと言った目。


 そのすべてを胸へ収めて、はっきりと言った。


「その後の身の置き所は、あらためて若君の御前に願い出ます」


 それで十分だった。


 いまはそこまででよい。

 いや、そこまでだからこそ重い。


 清房が、その言葉にわずかに頷いた。

 家宗もまた、何も言わなかった。

 順を違えぬと分かったからだ。


 惟種は、しばらく種茂を見ていたが、やがて静かに言った。


「よい」


 それだけだった。

 だが、種茂には十分だった。


「ただし、口で願うな」


 惟種は続ける。


「働きで示せ」


「はっ」


「此度の戦で、まずそれを見せよ」


「はっ」


 その返事には、もう迷いがなかった。


 儀が終わったあと、種茂は一人で廊へ出た。


 外はまだ春浅く、風は冷たい。

 だが、その冷たさが不思議と心地よかった。


 名が変わった。

 子どもではなくなった。

 若君の一字をいただき、戦に出る。


 それだけでも十分に重い。

 だが、それ以上に重いのは、自分で自分の行く先をもう定めてしまったことだった。


 龍造寺への義はある。

 それは消えぬ。


 だが、その義を若君の戦で立てる。

 そして立て終えたその先は、もう決まっている。


 いまはまだ公には言わぬ。

 だが、胸の内だけはもう違えようがなかった。


 少し離れたところで、甲斐親英が待っていた。


 親英は種茂の顔を見ると、少しだけ口元を緩めた。


「……種茂殿、でございますな」


 種茂も、ほんの少しだけ笑った。


「まだ口に馴染まぬか」


「ええ」


 親英も笑う。


「されど、ようお似合いにございます」


 種茂は、それを聞いて少しだけ照れた。

 だが、悪くなかった。


「河口でのあの日から、決めておられたのでしょう」


 親英が言う。


 種茂は、しばらく答えなかった。


 やがて低く言った。


「見てしまったからな」


「はい」


「見てしまえば、もう戻れぬ」


 親英は、その言葉に深く頷いた。


 自分もまた、少しずつそうなり始めていることを知っていたからだ。


 遠くで、兵をまとめる声がした。

 春はまだ浅い。

 だが、戦はもう近い。


 種茂は、その声のする方を見た。


 此度の戦で、まず義を立てる。

 そして、その先は――


 鍋島孫四郎は、この朝に終わった。

 本来、鍋島直茂となるはずだった歴史が、惟種により鍋島種茂としての物語としてここから始まる。


 それは若い一人の元服であると同時に、阿蘇の内でまた一つ、新しい忠の芽が、ようやく公に形を持った朝でもあった。

皆様、たくさんの応援と評価をありがとうございます。


この作品をここまで続けてこられたのは、読んでくださる皆様のおかげです。


本当に励みになっています。


もし少しでも面白い、続きが気になると思っていただけましたら、評価やブックマークで応援していただけると嬉しいです。


今後ともよろしくお願いいたします。

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