第7話 若君は、先を数え始める
**甲斐 宗運**が出ていってから、部屋はしばらく静かなままだった。
**阿蘇 惟種**は、布団の上で浅く息を整えながら、障子の向こうの光を見ていた。
話は通った。
もちろん、全部ではない。
宗運は夢を信じてはいない。
だが、使える話だとは見てくれた。
それで十分だった。
夢を丸ごと信じる家臣など、かえって怖い。
必要なのは、疑いながらも試し、削り、形に変えてくれる男だ。
宗運はその役を果たせる。
ならば、まずは一歩前へ進める。
惟種は目を閉じた。
田。市。兵。病。玻璃。
紙に書いた言葉が頭の中に並ぶ。
けれど、今の自分には、もうその先まで見えていた。
いや、見えているというより、数えずにはいられなかった。
いま手を入れているのは田と市だ。
それは土台でしかない。
食と銭の流れを変えねば、戦はできない。
だが戦をするために土台を作っている以上、その先の順まで頭に置いておかねば意味がない。
惟種は、胸の内でひとつずつ並べていく。
(まず二年以内に、**島津家**と結ぶ)
これが第一だ。
南を敵に回してはならない。
いまの阿蘇に、**大友家**と島津を同時に見られる余裕はない。
しかも島津は、いずれ確実に伸びる。
敵にして消耗するより、早い段階で結びつきを作っておいた方がいい。
(南は塞ぐ)
(背を守る)
(島津はまず味方にする)
婚姻。
不可侵。
三州への優越を認める。
阿蘇から見れば譲るところも多い。
だが、いまはそれでいい。
欲を出して南で血を流せば、その隙に大友が肥後の中へ深く入ってくる。
問題は、その先だった。
(次に、**大友家**を弱らせる)
いまの阿蘇にとって、一番近く、一番重く、一番厄介なのは大友だ。
島津はまだ遠い。
龍造寺はまだ育ち切っていない。
だが大友は違う。
肥後に手を伸ばし、国衆を絡め取り、阿蘇の背へじわじわ手を回してくる。
真正面からぶつかるには、いまの阿蘇はまだ細い。
ならば、正面から砕くのではない。
切り崩す。
(五年で、大友の肥後支配網を剥がす)
国衆を戻す。
大友へつく方が危ういと分からせる。
恩と利を阿蘇へ向ける。
そして大友との戦は、こちらから無理に豊後へ攻め込む形にしてはならない。
それでは分が悪いし、名分も弱い。
(大友が“肥後の秩序を守る”名目で介入してきたところを叩く)
それがいい。
阿蘇が田と市で力をつければ、肥後の国衆は大友の遠い宗主より、阿蘇の近い保護を選び始める。
大友はそれを見過ごせない。
必ず、肥後鎮撫だの、旧恩の回復だの、もっともらしい名目で手を伸ばしてくる。
その時に勝てばいい。
(“一方的に侵略された”では弱い)
(“肥後の宗主権をめぐる介入戦争”にする)
(その方が勝った後に人も拾える)
負けた大友側の将兵、見捨てられた肥後方面衆、行き場を失う与力。
そういう者は、戦のあとで動く。
そこまで見据えるなら、最初から戦後を考えておかねばならない。
そしてその次。
惟種は、唇を少しだけ引き結んだ。
(五年以内に、**龍造寺**へ手を入れる)
取る、とまでは今は言わない。
だが、介入はいる。
分断。
名分。
反龍造寺の者を拾う。
少弐の旗。
家中の不満。
そういうものを束ねて、龍造寺を削る。
龍造寺を放っておけば伸びる。
北西九州で根を張り、大友ともぶつかり、いずれこちらにとって面倒になる。
だから育つ前に手を入れたい。
だが、それだけではない。
(龍造寺には、**鍋島 直茂**がいる)
惟種は、その名を胸の内で転がした。
まだ幼い。
今はまだ子どもだ。
だが、後にあの男がどれほどの人物になるか、自分は知っている。
龍造寺の家中で頭角を現し、戦でも政でも抜け、最後には佐賀を事実上まとめ上げる。
主家を支え、喰い、飲み込み、それでもなお家を潰さずに次へつなげる。
ああいう人間は、そう何人もいない。
(とんでもなく凄い人だ)
歴史好きとしての血が、そこで少しだけ騒いだ。
(個人的には、**甲斐 宗運**と並んで好きな武将だ……)
思わず、口元が少し緩みそうになる。
宗運は現に目の前にいる。
そして鍋島直茂は、まだ遠い先にいる。
だが、遠いからこそ欲しい。
(できれば臣下に加えたい)
もちろん、龍造寺を潰せば鍋島がそのまま靡く、などとは思っていない。
そんなに甘くない。
鍋島は龍造寺の中で育つ家だ。
ならば、龍造寺を力ずくで全部潰すより、龍造寺へ介入して、鍋島が“浮く”状況を作る方がいい。
(龍造寺を削れば、鍋島が浮く)
(浮いた者は拾える)
(あるいは、助ける形で恩を売る)
人だ。
最後に物を言うのは。
田も、市も、兵も、病も、玻璃も、結局は人が回す。
ならば良い人間を取るしかない。
惟種は長く息を吐いた。
(気が早い、どころじゃないな……)
だが、仕方ないとも思う。
時間がないのだ。
史実の自分は長生きしない。
前世の自分も四十五で死んだ。
偶然かもしれない。だが偶然で済ませるには嫌な一致だった。
五年で土台を作る。
十年で肥後の外へ手を伸ばす。
そのくらいでなければ、先が見えない。
惟種は、布団の端を指でつまんだ。
(慌てるな。だが、のんびりもするな)
まずは田だ。
次に市。
ここで飯と銭の流れを少し変える。
その上で、宗運に少しずつ先を見せる。
いきなり全部を話しても、夢物語になるだけだ。
宗運は切れる男だ。
だが切れるからこそ、一度に大きすぎる話は警戒する。
だから順だ。
(今は田と市)
(次に、人と敵の順を揃える)
その時、惟種の目がふと小箱の方へ向いた。
田と市だけでは足りない。
兵を動かすには金がいる。
兵糧も、鉄も、馬も、間者も、結局は銭だ。
(軍には金が要る)
当たり前のことだった。
だが、だからこそ重い。
米だけでは戦はできない。
米は腹を満たす。
だが人を引き寄せ、珍しい技を抱え、遠くの品を買うには銭が要る。
ならば金策だ。
しかも、ただの年貢増しではいけない。
それでは民が痩せるだけだ。
(売れるものを作るしかない)
その瞬間、頭の奥に別の光が差した。
火。
炉。
砂。
灰。
透き通る小さな玉。
小瓶。
光を曲げる丸み。
惟種は、思わず小箱から紙を取り出した。
すでに書いてある文字の余白を見つめる。
田。市。兵。病。玻璃。
そこにさらに、小さく書き加える。
金。
玉。小瓶。売る。
のちに遠見。
書いてから、じっとそれを見つめた。
(まずはガラス小物だ)
(軽くて、珍しくて、持ち運べて、上の者が欲しがる物)
(それで金を作る)
夢では、透き通るものを作っていた。
火の中で溶かし、形を整え、時に磨いて、光を曲げる目にまでしていた。
惟種には、その知識がある。
釜の作り方も。
炉の熱の扱いも。
全部を一度で完璧にできるとは思わない。
だが、何が要るかは分かる。
(いきなり望遠鏡は無理だ)
当然だ。
そんなものを今すぐ作れるはずがない。
(まずは玉)
(次に小瓶)
(透明なものを安定して作る)
(その先にレンズがある)
(レンズができれば、いずれ遠見の道具になる)
惟種は、さらに小さく書き足した。
磨く。
拡げて見る。
遠くを見る。
それを見て、自分でも少しだけ息を呑んだ。
金策として始める。
だが、その先には軍事がある。
物見。
敵陣の確認。
城の見張り。
海の向こうを見る目。
(玻璃は金になる)
(そして、いずれ軍の目になる)
惟種は筆を置いた。
ここまで来ると、もう笑うしかない気もした。
ついこの前まで、終電のないオフィスで数字を見ていた男が、今は戦国の肥後で島津・大友・龍造寺と鍋島直茂、それにガラスと望遠鏡まで考えている。
(なんだそれは)
だが、可笑しくても現実だ。
現実なら、使うしかない。
惟種は紙を見つめながら、胸の内で順を並べる。
(田を起こす)
(市を寄せる)
(金を作る)
(島津と結ぶ)
(大友を肥後で削る)
(龍造寺に手を入れる)
(鍋島を拾う)
そのどれも、まだ口には出さない。
今はまだ、自分の腹の中だけに置く。
少しずつでいい。
順に見せればよい。
宗運は使える。
父も、いずれは見る。
阿蘇の権威も、神威も、朝廷への道も、その先に全部使う。
(使えるものは全部使う)
(夢も、神威も、家格も、人も、玻璃もだ)
その時、障子の向こうから控えめな声がした。
「若君。薬湯をお持ちいたしました」
惟種は、紙を急いで折り、小箱の奥へ戻した。
「入れ」
侍女が入ってくるまでのわずかな間に、惟種はもう一度だけ胸の内で言葉を並べた。
(まず二年以内に島津と結ぶ)
(五年で大友を肥後から剥がす)
(龍造寺へ手を入れる)
(鍋島を拾う)
(そして、金のために玻璃を作る)
そのどれも、まだ言わない。
今はまだ、自分だけの策だ。
差し出された薬湯を受け取る。
苦い匂いが立つ。
(……まずは生きるか)
そう思って口をつけると、やはりひどく苦かった。




