第六十八話 海へ向ける手
甲斐親英の生誕年齢を調べましたが、
153?年 1538年 1540年とバラバラでした。
当作品は1530年を採用しております。
十二月の夜気は、火のそばにいてもなお冷える。
阿蘇の冬は、雪が積もる前から人の骨へ入ってくる。風は荒れぬ。だが、山の冷えは静かなまま深く沁みる。館の奥で開かれた小さな座にも、その冷たさは薄く張りついていた。
広い評定ではない。
上座に惟豊。
その少し下に惟種。
横に宗運。
そして惟種のやや後ろに、甲斐親英が控えていた。
若い。
だが、ただ若いだけではない。
このところ惟種の近くへ置かれ、目の前で板や帳面や文の行き来を見せられてきた。その顔つきには、以前よりも少しだけ、物を受け止める硬さが出ている。
火桶の炭が小さく鳴った。
しばらく誰も口を開かなかったが、やがて惟豊が低く言った。
「寿禎の話を聞いてから、そなたの目が海へ向いておるな」
惟種は火を見たまま答えた。
「船が要りまする」
短い一言だった。
だが、その一言で、この夜の小評定の芯は尽きていた。
人を呼ぶにも。
技を集めるにも。
外の国の様子を知るにも。
漆器を売るにも。
サトウキビを運ぶにも。
いずれ遠い国の苗木や、言葉の通じる者を乗せて来させるにも。
どのみち船が要る。
宗運が静かに言った。
「商いの船、にございますか」
「最初はそれでよい」
惟種は答えた。
「だが、それだけでは終わらぬ」
惟豊が腕を組む。
「守るためか」
「それもございます」
惟種は頷いた。
「海へ手を伸ばすなら、海で奪われぬ力も要ります」
その言葉に、親英がわずかに目を上げた。
惟種は続ける。
「ならば、いずれは水の兵も持たねばなりませぬ」
宗運が少しだけ目を細める。
「山の家が、ついに海まで抱えることになりますな」
「筑後を取った時から、うっすらと計画はしていた」
惟種は言った。
「山だけでは足りぬ」
惟豊は、その言葉をすぐには切らなかった。
筑後を呑み、名和を下し、いまや家は山の内だけで回る大きさではなくなっている。田も人も銭も、いつかは海へ流れ、海から戻る。ならば、その口を他家へ預け続けるわけにはいかぬ。
「港は」
惟豊が問う。
「矢部川河口にします」
惟種は迷いなく答えた。
宗運が広げられた地図へ視線を落とす。
「阿蘇から直に下る川ではありませぬ」
「だが今は筑後がある。ならば、筑後の海の口を使う」
惟種の指が、矢部川河口を押さえた。
「有明海の荷をまとめる口になる。穀も、木も、人も集められる。阿蘇本拠のすぐ下ではない。だが、今の我らにはそれで足りる」
親英が、そこで初めて口を開いた。
「若君」
「何だ」
「港は、ただの船着き場では済みませぬな」
惟種がそちらを見る。
「済まぬ」
親英は地図の河口を見つめたまま言った。
「荷が集まれば、人が集まります。人が集まれば、銭も噂も、よからぬ者まで寄って参りましょう」
宗運の口元がわずかに動いた。
惟豊も、黙ってその若い声を聞いている。
「ゆえに」
親英は少し言葉を選びながら続けた。
「最初から、倉、人足小屋、見張り、そうしたものまで一緒に考えねばなりますまい」
惟種は小さく頷いた。
「よい」
短い一言だったが、親英にはそれで十分だった。
「その通りだ」
惟種は言う。
「最初は小さくてよい。だが後で広げる。倉、材木置き場、人足小屋、船着き場、見張り――いずれは外来船専用の船着き場まで視野へ入れる」
惟豊が問う。
「南蛮船を受けるためか」
「それだけではございません」
惟種は答えた。
「商人も来る。外の使いも来る。いずれ宣教師のような者どもが来ることも考えられます」
宗運がその言葉を受ける。
「まだ来てもおりませぬ」
「だが、来るなら他所の港で先に囲われるより、こちらにも受ける口があった方がよい」
「専用の船着き場まで、今から場所を取りますか」
「取る」
惟種は即答した。
「今はまだただの外来船着き場でよい。だが、後で増やせるよう、初めから線を引いておく」
親英が、黙ってその言葉を飲み込んでいた。
いま作るのは港そのものだけではない。後から来るもののための余白でもあるのだと、ようやく分かり始めている顔だった。
惟豊が言った。
「理は通っておる」
それで、港の話は定まった。
だが、この夜の本当の重さは、その先にある。
惟種は別の板を出した。
親英がそれを受け取り、宗運と惟豊の前へ静かに置く。
そこに描かれていたのは、この時代の和船とはひと目で違う形であった。腹が深く、幅があり、艫は高い。帆の立ち方も、ただ川を渡るための舟とは明らかに違う。
宗運が低く言った。
「……大きゅうございますな」
惟豊も黙って見ている。
「本命は、もっと大きくする」
惟種が言った。
親英の目が、その一言でわずかに見開いた。
「これでも、まだ途中にございますか」
「途中でもない」
惟種は答えた。
「これは試しの一番船だ」
座が静まる。
「最終的には、大きな実用外洋船を作る」
惟豊が問う。
「どこまで見ておる」
「この世の船としては、異様なくらい整ったものだ」
惟種は言った。
「速く、積めて、崩れにくく、砲も載せられる」
親英は、その板から目を離さなかった。
分からぬところも多い。
だが、若君がただ思いつきで言っているのではないことだけは分かる。
「いきなりは無理にございますな」
宗運が言う。
「無理だ」
惟種は即答した。
「本命まで最低二年はかかる」
「二年」
「木も足りぬ。鉄も足りぬ。帆も綱も、人も足りぬ。いきなり本命を組めば、ただの化け物になる」
惟豊が小さく息を吐いた。
「そこは分かっておるか」
「分からねばできませぬ」
惟種は平然としていた。
「だから、まずは試します」
「どう試します」
今度は親英が問うた。
若い声だった。だが、浮いた響きではない。
惟種は別の図を示した。
先ほどよりは小さい。それでも、この時代の普通の船よりはずっと大きく、戦にも使うことを考えた張りのある形をしていた。
「半年から十か月で、まず一隻」
親英がその図へ目を落とす。
「これは」
「試作艦だ」
惟種は答えた。
「本命へ行く前に、まずこちらで船そのものを覚える」
惟豊が問う。
「戦に使う船か?」
「それだけでは御座いませぬ」
「では」
「荷も積める船です。兵も乗る。敵船を攻撃できる大型武器も載せる。有明海と沿岸を走らせて、帆の効き、舵の重さ、波の受け方、木組みの癖、全部を見る」
宗運が深く頷く。
「それならば理にございます」
「最初から大軍船を夢見て沈めては笑いものだ」
惟種は淡々と続けた。
「まずは作る。走らせる。壊す。直す。それからだ」
親英が、板から目を離さぬまま言った。
「若君」
「何だ」
「その一番船、誰が見るにございます」
「お前も見る」
親英が顔を上げた。
「わたしも」
「近くで見ろ。図だけでは分からぬ。木の癖も、綱の張りも、帆の重さも、人足の動きも、現場へ行かねば身に入らぬ」
親英は深く頭を下げた。
「は」
惟豊は、そのやり取りを黙って見ていた。
若い者へ、夢ではなく実際の重さを背負わせる。惟種はそのあたりの手の置き方も、前より迷わなくなっている。
「木は」
惟豊が問う。
「肥後と筑後、足りない分は神屋を通じて集める」
惟種は答えた。
「ただし何でもよいわけではない。大材、小材、曲がり、真っ直ぐ、それぞれ使い分ける」
宗運が続ける。
「船大工が要りますな」
「要る」
「鍛冶も」
「要る」
「綱、帆、鉄、油、漆」
「どれも要る」
惟種は頷いた。
「だから今から始める」
その一言で、また座が締まった。
春を待っていては遅い。
今冬のうちに材を当たり、人を探し、場所を定めねば、2年後の完成に間に合わぬ。少なくとも今から土台を気付き、2月には動き出さないといけない。
「いつ動く」
惟豊が問う。
「今月中に、人と材の当たりを始めます」
惟種は答えた。
「正月を越えたら、すぐ手を入れる」
「二月か」
「二月です」
「寒いぞ」
「寒い方が都合がよい」
惟種は言った。
「木を切るにも、運ぶにも悪くない。春を待ちすぎると、人も荷も他へ流れる」
宗運が静かに言う。
「ならば今夜で、もう戻れませぬな」
「戻る気はない」
惟種の声に迷いはなかった。
惟豊は、それを聞いてしばらく黙っていた。
山の家が海へ手を伸ばす。
港を築き、試しの大船を組み、やがては外洋へ耐える大きな船まで狙う。
さらにその先には、水軍まで見る。
大きすぎる話だった。
だが、ここまで積んできたものを思えば、ただの空言とも言い切れない。
「よい」
惟豊はついに言った。
「始めよ」
火桶の炭が、そこで小さく弾けた。
それで決まった。
矢部川河口に外港を築く。
最初は倉と船着き場から。
のちに外来船用の船着き場まで広げる。
試しの一番船を半年から十か月で組む。
本命の大型実用船は二年かけて目指す。
そして、その先には水の兵も置く。
宗運が深く頭を下げた。
「人と材の当たりは、すぐに始めます」
「うむ」
「港の場所も、今月のうちに詰めます」
「任せる」
惟種はそう答え、もう一度矢部川河口へ目を落とした。
阿蘇の山から、海は見えない。
だが、見えぬからといって、要らぬわけではない。
惟豊が最後に低く言った。
「惟種」
「何でしょうか」
「船を作るとは、ただ板を組むことではない」
「理解しているつもりです」
「人も、銭も、時も、これまで以上に食うぞ」
「食わせます」
惟種は言った。
「だが、それで届く先が増えるなら、安い」
親英は、その言葉を胸の内で静かに反芻していた。
これから自分は、山の家が海へ手を伸ばす最初の場を目の前で見ることになる。
惟豊はそれ以上、何も言わなかった。
火は静かに燃えている。
外では、冬の前の風が木々を鳴らしていた。
小さな座であった。
だが、この夜の話は、いずれ阿蘇の形を大きく変える。
宗運は人と材の流れを思い、
惟豊は家の背がまた一段重くなることを思い、
親英はまだ見えぬ海の仕事の重さを思い、
惟種はその先のさらに遠い海を思っていた。
冬は近い。
だが、その冬を越えれば、二月にはもう手を入れる。
阿蘇の手は、山の外へ伸びるだけではなく、ついに海へ向かって動き始めていた。
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