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火の山の若君は、未来を夢に見る ~阿蘇家嫡流の若君、名臣甲斐宗運と乱世を切り拓く~  作者: アトラス


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第六十九話 海へ伸びる家

 天文十七年(一五四八年)二月。


 冬は、まだ去っていなかった。


 空は晴れていた。

 だが、晴れていることと暖かいことは違う。

 筑後の風は乾いて鋭く、川口に立てばなおさら骨へ入る。矢部川の水は鈍く光り、その先の有明海は、空の色を薄く映してどこまでも低く広がっていた。


 その河口に、いま阿蘇の人足があふれている。


 まだ港とは呼べぬ。

 まだ船着き場とも言いきれぬ。

 だが、ただの河口でもなかった。


 土が削られ、杭が打たれ、縄が引かれ、材木が山のように積まれている。切り出した大木は、まだ皮を剥かれただけのものも多く、白い木肌を冬の日に晒していた。木屑の匂い、濡れた土の匂い、川水の匂い、そして人の汗の匂いが混じっている。


 槌の音が飛ぶ。

 綱を引く掛け声が続く。

 川下から荷を積んだ舟が寄り、川上からは牛と人が材を運ぶ。


 そこに立っているだけで、何かひどく大きなものが動き始めていることが分かった。


 惟種は、その光景を黙って見ていた。


 横には惟豊。

 少し離れて宗運。

 さらに後ろに甲斐親英。

 そして、そのすぐ隣に鍋島孫四郎が控えている。


 孫四郎は、朝からほとんど口を利いていなかった。


 見たことがなかったからだ。


 戦の陣は知っている。

 兵の動きも、槍の列も、鉄砲の火も知っている。

 城攻めの土煙も、敗走する者の顔も、血の匂いも知っている。


 だが、これはどれとも違った。


 戦ではない。

 それなのに、まるで新しい城を丸ごと一つ立てる時のような重さがある。しかも、その城は石でも土でもなく、水の上へ出てゆくためのものなのだという。


 山の家が、河口にここまでの手を入れる。


 若君は、本当にここまで先を見ているのか。


 孫四郎は、寒さとは別の震えを胸の内に感じていた。


 惟豊が、川口の土を見やりながら言った。


「思っておったより、人が多いな」


 宗運が答える。


「筑後の人足だけでは足りませぬ。肥後からも回しております」


「木は」


「順に届いております。大材はまだ選り分けの途中。小さい方の船に使うものから先に回しております」


 惟種はそれを聞きながら、積まれた材の曲がりや長さを目で追っていた。


 大木は、ただ大きければよいわけではない。

 真っ直ぐなものは柱にも梁にもなる。

 少し癖のあるものは、船腹の曲線に使える。

 木の癖は人に似ていた。

 使いどころを違えれば歪みになるが、合えば強さになる。


 親英が、一歩進み出て言った。


「若君」


「何だ」


「船台の方は、思ったより早う形になりそうにございます」


 惟種が目を向ける。


 親英はまだ若い。

 だがその若さのまま、木の置き方や人足の流れをよく見ている。


「地固めが進んでおります。材木置き場と人足小屋の位置も、後で広げやすいよう空けてあります」


「よい」


 惟種は短く頷いた。


「船着き場の延ばし方は」


「いまのところ、外来の商船を一、二隻受ける程度なら、あとでそのまま手を足せます」


「専用の桟も、後で引けるか」


「はい」


 親英は少しだけ自信を持った顔で答えた。


「今はまだ大仰に見えましょうが、最初から場所を取っておけば、後から慌てて掘り返さずに済みます」


 宗運がそれを聞いて、わずかに目を細めた。


「若い割に、よう飲み込んでおる」


 親英はすぐに頭を下げた。


「若君のお言葉を、そのまま噛んでおるだけにございます」


「噛めば、いずれ自分の骨になる」


 惟種が言った。


 それだけで、親英の背は少しだけ伸びた。


 孫四郎は、そのやり取りを黙って見ていた。


 甲斐親英は、このところ惟種のそばへ置かれている。

 同じ若い者として、孫四郎にはそれがよく分かる。


 若君のそばにいるというのは、ただ近くで命を受けることではない。

 若君が何を見ているかを、少しずつ覗かされることだ。


 それは、楽ではない。

 だが、一度見せられてしまうと、元いたところへは戻れぬ。


 惟豊が、少し先に組みかけている大きな骨組みを見ながら言った。


「これが、まず試しの一番船か」


「はい」


 宗運が答える。


「まだ骨の骨にございますが」


「それでも大きいな」


「有明海と沿岸を走らせるには、これくらいは要ります」


 惟種が、そこで言った。


「荷も載せる。兵も乗せる。砲も据える」


「一つで、か」


「最初はそこからだ」


 惟豊は、少しのあいだ黙っていた。


「和船では足りなんだか」


「足りませぬ」


 惟種は言い切った。


「川を渡るだけの船、荷だけを運ぶ船、それぞれはあってよいです。ただ、それだけではこれから先に足りませぬ」


 惟種の目は、川の向こうではなく、その先の海を見ているようだった。


「商いも、人の行き来も、外の国との橋も、そして守りもです」


 孫四郎は、その言葉を胸の内で反芻した。


 守り。


 それは分かる。

 だが若君が見ているのは、ただ船で兵を運ぶ話ではないらしい。


 やがて惟豊は、人足の声が少し遠ざかったところで、ゆっくりと立ち位置を変えた。


「宗運」


「は」


「この場は、ひとまず親英に見せておけ」


「承知しております」


「わしは向こうを一回りしてくる」


 宗運も、すぐにその意を汲んだ。


「では、わたくしもご一緒致しましょう」


 惟豊は頷いた。


 そうして、惟豊と宗運は少し離れた方へ歩いていった。


 親英は一度、孫四郎を見た。

 何かを感じている顔だった。

 だが、口にはしない。


「私は、船台の方を見て参ります」


 そうだけ言って、親英もまた人足と材の方へ歩いていった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 その場には、惟種と孫四郎の二人だけが残った。


 河口の風が、二人の間を通り抜けてゆく。


 しばらくは誰も口を開かなかった。

 だが、孫四郎の胸の内では、さきほどから言葉になりきらぬものが溜まり続けていた。


 見たことのないものを見せられている。

 しかもそれは、ただ珍しいというだけではなく、自分の中にある何かの置き場を変えてしまうほど大きなものだった。


「若君」


 孫四郎は、ついに口を開いた。


「何だ」


「若君は、どこを目指しておられるのですか」


 惟種は、すぐには答えなかった。


 前を向いたまま、川と海の境をしばらく見ていた。水は濁っている。だが、その濁りの向こうに、まだ見えぬ遠さがあることだけは感じられた。


「そうだな」


 やがて、静かに言った。


「はじめは、阿蘇の家を守ることだけを考えておった」


 孫四郎は黙って聞いた。


「その次は、肥後を静めることだった」


 惟種の声は、冬の風の中でも不思議とよく通った。


「一つ越えるたび、その次が見えてくる。肥後を越えれば筑後が見え、筑後を越えれば肥前が見える」


「……は」


「そして肥前を見ておるうちに、境目だけ見ておっては足りぬと知った」


 惟種は、そこでほんのわずかに口元を和らげた。


「日新斎殿に言うたことがあった」


 孫四郎の目が動く。


 聞いたことがある。

 あの時の言葉は、誰の耳にも強く残った。


「小さな境目ではなく、天下と、その外まで見ませぬか、とな」


「うむ」


 惟種は頷いた。


「今は、そこを見ておる」


 孫四郎は、知らず息を呑んだ。


 天下。

 その外。


 それは若い者が勢いで口にする言葉ではなかった。

 目の前に積まれた材木も、船台も、河口の縄張りも、すべてその言葉の続きとしてここにあるのだと分かってしまったからだ。


 惟種が、ふいに孫四郎の方を見ずに問うた。


「孫四郎」


「は」


「日ノ本の先は、どうなると思う」


 孫四郎は答えに詰まった。


 この国の先。

 そんなものを考えたことがなかったわけではない。

 だが、それを若君の口から真っ直ぐ問われると、急に自分の言葉が軽く思えた。


「若君が……」


 迷いながらも、それでも思ったままを言う。


「若君が、いずれお治めになるのではございませぬか」


 惟種は、そこで少し声を立てて笑った。


「そうなれば面白いがな」


 その笑いは長く続かなかった。

 すぐに静かになり、また前を向く。


「わしが見ておるのは、そのもう先だ」


 孫四郎は、若君の横顔を見た。


「いずれ、外の強い国どもが来るやもしれぬ」


 惟種は低く言った。


「南蛮が、商いだけで済まぬ日が来るかもしれぬ」


 風が吹いた。

 河口の水が少しだけざわつく。


「いや、おそらく来る」


 その声は、奇妙なくらい静かだった。


 大げさに脅しているわけでもない。

 ただ、見えているものを先に見てしまった者の声だった。


「その時に、この国がこの国のままでおるには、今から手を打たねばならぬ」


 惟種の目はまっすぐ前を見ていた。


「飢えぬこと」

「苦しまぬこと」

「住むところに困らぬこと」

「外から来るものに、ただ呑まれぬこと」


 一つひとつ、杭を打つような言葉だった。


「五百年先、そのさらに先の礎を置けるなら、置いておきたい」


 孫四郎は、胸の内が熱くなるのを感じていた。


 戦に勝つ。

 少弐を討つ。

 龍造寺を戻す。

 そこまでは、まだ武士の願う先として分かる。


 だがこの若君は、そのさらに先を見ている。

 国一つ、城一つではなく、日ノ本というものがこの先どうあるべきかを見ている。


 自分はいま、何を見せられているのか。


 風が冷たい。

 だが、胸の奥だけが熱い。


「……若君」


 孫四郎の声は、少しかすれた。


「何だ」


「わたしは」


 そこで言葉が止まる。


 言ってしまえば軽くなる気がした。

 だが、言わずにおれば、それは胸の内で溢れそうでもあった。


「若君に、本当の意味でお仕えしたい」


 その一言を口にした瞬間、孫四郎は自分の胸の内がようやく形になった気がした。


 惟種は、そこで初めて孫四郎の方を見た。


 その目は、若い者の熱を面白がる目ではなかった。

 かといって、軽く退ける目でもない。


「いま申すな」


 惟種は静かに言った。


 孫四郎は目を見開いた。


「まだ、お前の名は孫四郎だ」


「……は」


「龍造寺のことも、まだ道の途中にある」


 その言い方は、優しいのではなかった。

 順を違えるな、という厳しさだった。


 だが、その厳しさがかえって、若君が本気で受け止めてくれたのだと分からせる。


「だが」


 惟種は続けた。


「その日が来たら、あらためて申せ」


 孫四郎は、深く頭を下げた。


「はっ」


 胸の内では、もう定まっていた。


 少弐との戦の前。

 元服の時。

 龍造寺再興の道が形を持つ、その時に言おう。


 龍造寺への義を、若君への忠へと結ぶ言葉を。

 その日まで、自分はこの背を追うのだと。


 少し離れたところで、親英が材の置き場からこちらを見た。

 何を話していたかまでは聞こえぬ。

 だが、孫四郎の顔を見れば、何かが定まったことだけは分かる。


 若君のそばにいるとは、こういうことなのだ。

 戦だけではない。

 その先まで見せられてしまう。

 見てしまえば、もう元いたところへは戻れない。


 惟豊と宗運は、しばらくして戻ってきた。

 二人とも、何も問わない。


 惟豊はただ、惟種と孫四郎の間に残る空気を一目見て、それで十分らしかった。


 若い者が何に心を定めるか。

 そこへ大人が言葉を入れすぎぬ方がよい時もある。


 河口では、また槌の音が響き始めた。


 船台はまだ骨にもなっていない。

 港もまだ工事場に過ぎぬ。

 風は冷たく、水は濁っている。


 だが、その未完成な景色の中で、すでに幾つかのものは形になり始めていた。


 船。

 港。

 水軍。

 そして、若い者の忠。


 惟種はもう一度、河口の方を見た。


 阿蘇の山から海は見えぬ。

 それでも、海の先に手を伸ばすなら、いまこの冷たい川口から始めるしかない。


 孫四郎もまた、同じ方を見た。


 この景色を、自分は一生忘れぬだろうと思った。


 戦場で見た火でもない。

 城の石垣でもない。

 だが、これこそが若君の見ている未来の入口なのだと、いまははっきり分かる。


 冬の風が、四人の間を吹き抜けてゆく。


 その風の下で、阿蘇の家はもう山の家だけではなくなり始めていた。

 そして孫四郎の心もまた、この日を境に、もう元の場所へは戻らぬものになっていた。

皆様、たくさんの応援と評価をありがとうございます。


この作品をここまで続けてこられたのは、読んでくださる皆様のおかげです。


本当に励みになっています。


もし少しでも面白い、続きが気になると思っていただけましたら、評価やブックマークで応援していただけると嬉しいです。


今後ともよろしくお願いいたします。

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