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火の山の若君は、未来を夢に見る ~阿蘇家嫡流の若君、名臣甲斐宗運と乱世を切り拓く~  作者: アトラス


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第六十二話 食わせ、生かす

人は、腹が減ると目が細くなる。


 腹が満ちぬ時の顔を、惟種はよく知っていた。

 兵も、百姓も、流れてきた者も、腹が減れば声が荒くなり、気が短くなり、いずれは家の外へこぼれてゆく。


 だからこそ、最初に変えるべきは飯だった。


 その日、惟種は供回りの者どもを、いつもの庭先ではなく、台所に近い小さな広間へ呼び集めた。


 甲斐親英。

 鍋島孫四郎。

 ほかにも、近ごろ惟種の身近で動く若い者らが数人。

 そして、少し遅れて加世も顔を見せた。


「また妙なことをなさるおつもりですか」


 加世が言う。


「妙ではない」


 惟種は平然としていた。


「飯の話だ」


「なお妙でございます」


「そうか」


 そう言いながら、惟種は並べられた小鉢を見た。


 味噌。

 醤油。

 酢。

 それに、刻んだ生姜、山椒、少しの辛子。


 この時代にも、元になるものはある。

 あるが、ただあるだけでは足りない。

 惟種がやりたいのは、思いつきで珍味を作ることではなかった。

 名を決め、作り方を定め、いつでも同じものをある程度安定して出せるようにすることだ。


 それができて、初めて国の力になる。


「今日はな」


 惟種が言った。


「飯を少し変える」


 親英が目を丸くする。


「飯を、ですか」


「うむ」


「もっと肉でも食わせるのですか」


「それもいずれ要る」


 惟種は答えた。


「だが、今日は味だ」


 孫四郎が並んだ小鉢を見て、小さく首をかしげた。


「味噌は分かります。酢も分かります。ですが……」


「醤油だ」


 惟種が言った。


「しょうゆ」


 まだ耳慣れぬ響きに、若い者らの顔が少しだけ動いた。


「味噌のたまりや、ひしおに似ておる。だが、もっと使い道を定めて、扱いやすくする」


 加世が小鉢をのぞき込み、少しだけ眉を上げた。


「色が濃うございますな」


「うむ」


「辛うございますか」


「舐めてみろ」


 加世は一瞬だけ惟種を見た。


「そうやってすぐ試させる」


「見ておるだけでは分からぬ」


「嫌なお方です」


 口ではそう言いながらも、加世は箸の先でほんの少しだけ取り、舌へ乗せた。


 目がわずかに見開く。


「……塩だけではありませぬな」


「そうだ」


「味が、奥で残る」


 惟種は頷いた。


「飯が進む」


 親英も、おそるおそる舐めた。

 孫四郎も、それに倣う。


「これは……」


 親英が驚いたように言う。


「魚でも旨くなりそうですな」


「なる」


「豆でも」


「なる」


 惟種は短く答えた。


「塩だけで食うと、きつい。だが、味噌や醤油を使えば、少ない塩気でも飯が食いやすくなる」


 そこで惟種は、用意させていた椀を指した。


 味噌汁である。

 具は贅沢ではない。

 青菜と根菜、それに少しの豆腐もどきが入っているだけだ。


「汁も変える」


 若い者らが椀を取る。


 一口すすった親英の顔が、あからさまに変わった。


「うまい」


「大きな声を出すな」


「ですが若君、これは前のよりずっと――」


「前のは前のだ」


 惟種は言った。


「これからは、こういうのを増やす」


 加世も椀を取り、静かに口へ運んだ。


「……やさしゅうございますな」


「うむ」


「濃い味ではないのに、薄くもない」


 惟種はそれを聞いて小さく笑った。


「ちょうどよいだろう」


「ええ」


 加世は素直に頷いた。


「これなら、朝でも食べやすうございます」


 惟種は、そこで供回りの者たちを見た。


 若い。

 よく動く。

 だが、まだ食わせ方ひとつで体つきも変わる。


「人はな」


 惟種が言った。


「衣食住足りて、ようやく人になる」


 皆が黙って聞く。


「飢えぬだけでは足りぬ。食って、動けて、明日も働ける飯でなければ意味がない」


 宗運なら、そこで「まことに」とでも受けるだろう。

 だが今いるのは若い者らである。

 彼らは理より先に、腹で物を知る。


「酢も使う」


 惟種は次の小皿を示した。


「魚を締める。野菜も保たせる。傷みやすい季でも、少し持つようになる」


 孫四郎が言った。


「酢は、すっぱいだけではないのですな」


「すっぱいだけなら要らぬ」


 惟種は答えた。


「保たせる。口をさっぱりさせる。飯を進ませる。役目は多い」


 加世が、そこでくすりと笑った。


「若君は、食べるものまで兵のように使いますな」


「使う」


「そこは否まれぬのですね」


「飯は兵を作る」


 惟種は言い切った。


「兵だけではない。家も作る」


 そのあと、供回りの者らは一通り、味噌、醤油、酢を使った小さな膳を食わせられた。


 塩だけより、飯が進む。

 汁が飲みやすい。

 魚の臭みがやわらぐ。

 豆や菜でも、思ったより箸が止まらぬ。


 変化は派手ではない。

 だが、毎日の飯なら、その派手でなさこそが強い。


 親英が最後に椀を置いて言った。


「若君」


「何だ」


「これ、兵にも回しますか」


「回す」


「皆、喜びますぞ」


「喜ばせるためだけではない」


「は」


「体を作るためだ。味があれば食う。食えば骨になる」


 若い者らは、その言葉に神妙な顔をした。

 だが、すぐ次の瞬間には、醤油の小皿をもう一度のぞき込んでいる。


 加世がそれを見て、少しだけ目を細めた。


「阿蘇は、変な家でございますな」


「何がだ」


「戦の話から始まって、最後は味噌と醤油へ来る」


「つながっておる」


 惟種は言った。


「国は、槍だけでは回らぬ」


 加世はその言葉を聞き、静かに頷いた。


「よく分かりました」


「何がだ」


「ただ旨いものを作りたいのではないのでしょう」


「うむ」


「人を食わせ、国を太らせたいのですね」


 惟種はそれには答えず、代わりに酢の小皿を加世の方へ寄せた。


「これは魚で試せ」


「また命じる」


「見ておるだけでは分からぬ」


「本当に嫌なお方です」


 その日、台所にはいつもより長く火が残った。

 味噌の具合を見る者。

 醤油のたまりを確かめる者。

 酢の使い道を試す者。


 飯の匂いが変わるのは、小さなことに見えて、実は国の匂いが変わることでもあった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー   


 その夜、惟種は宗運と惟豊を呼んだ。


 昼の賑やかさとは違い、こちらの座は静かだった。

 灯は低く、広げられた紙も少ない。

 だが、話の重さはこちらの方がずっと深い。


 惟豊が、惟種の顔を見る。


「今度は何だ」


「子の話です」


 宗運の眉が、わずかに動いた。


「子、にございますか」


「うむ」


 惟種は少し黙ってから言った。


「生まれてすぐ死ぬ子が、多すぎる」


 座が静まる。


 それは、この時代では珍しい認識ではない。

 だが、それを国の話として真正面から出す者は少ない。


「産で母が死ぬ」

「生まれてすぐ子が死ぬ」

「乳が足りず、そのまま弱る」

「熱を出し、腹を下し、あっけなくいなくなる」


 そういうことは、どこの村でもある。

 あるが、“そういうもの”として流されやすい。


 惟種はそれが気に食わなかった。


「兵を増やすより先に、人を減らさぬ方が早い」


 惟豊が腕を組む。


「それは道理だ」


 宗運もまた、静かに頷いた。


「だが、どうなさいます」


 惟種はすでに考えをまとめていた。


「阿蘇が抱える方を作る」


「方」


「産育方だ」


 その名を、惟種はそのまま置いた。


「国の役として置く。村任せ、家任せにはせぬ」


 宗運の目が、少しだけ細くなる。


 それが惟種らしいと、すぐに分かったからだ。


「何をさせます」


「まず、取り上げ役を決める」


 惟種は言った。


「各村、あるいは数村ごとに、経験のある女を定める。産婆役だ」


「うむ」


「産の時はそこへ寄せるか、少なくともその者を必ず呼ぶ。産後七日は、母子を見回る」


 惟豊が低く問う。


「七日、か」


「死にやすいところが、そこだ」


 惟種は答えた。


「最初の数日で落ちる子が多すぎる」


 宗運は、すぐにその意味を実務へ落とし始めていた。


「産婆役の女どもへ、まず覚えさせねばなりませぬな」


「うむ」


「何を見よ、と」


「乳を飲むか。息が弱くないか。熱がないか。母が血を流しすぎておらぬか」


 宗運は頷いた。


「分かりやすい」


「難しい薬の話ではない」


 惟種は言う。


「見て、早く気づくことだ」


 惟豊がそこで言った。


「乳の足らぬ家も多い」


「だから次だ」


 惟種は続けた。


「母乳を最優先にする。だが、出ぬなら貰い乳を公に認める」


 宗運が少し身を乗り出す。


「乳母、にございますか」


「うむ。乳の出る女を把握しておく。母が死んだ、乳が出ぬ、病で弱い、そういう家へは、方が間へ入ってつなぐ」


「勝手に頼み合うのではなく」


「国が知っておく」


 それで意味は十分だった。

 善意任せでは、どうしても漏れる。

 だから国が把握する。


 惟豊が、静かに息を吐いた。


「そこまで見ますか」


「見る」


 惟種は答えた。


「生まれても、乳が切れれば死ぬ」


 それは冷たい言い方に聞こえる。

 だが、冷たく言わねばならぬ話でもあった。


「それから、水だ」


 惟種は続ける。


「乳児へやる水と粥は、必ず煮る」


 宗運が眉を寄せる。


「そこまで徹底できますか」


「させる」


「理由は」


「そのままやるな、と言えば足りる」


 惟種は言った。


「川水も井戸水も、そのままやれば弱い子ほど先にやられる」


 宗運はゆっくり頷いた。


「離乳も急がせぬ方がよろしゅうございますな」


「その通りだ」


「弱い子へ固いものを早くやるな、と」


「うむ」


 惟豊が、その言葉の先を継ぐように言った。


「へその緒や布も、汚いままは駄目だろうな」


 惟種は父を見た。


「そうです」


「刃物は火であぶるか煮る。布は洗って乾かしたものを使う。汚れたところへ母子を置かない」


 惟豊は小さく笑った。


「そこまで来ると、医というより家の作法だな」


 惟種は頷いた。


「だから広く回ります」


 宗運が、そこで静かに問うた。


「薬は」


 惟種は少しだけ黙った。


 もし何でもできるなら、どれだけよいか。宗運はそこを期待している。

 だが、できぬものはできぬ。


「いまはまだ、作れぬ」


 その声は低かった。


「効く薬もある。だが、欲しいものには足りぬ。夢で見た抗生物質、種痘のようなものも、まだ無理だ」


 宗運も惟豊も、その言葉の意味はわからなかった。

 だが、“いまはまだ手の届かぬものがある”ことだけは伝わった。


「一気に病を消す薬はない」


 惟種は言った。


「病を防ぐ妙薬も、いまはない」


「ならば」


 宗運が言う。


「手と、水と、乳と、休み、にございますな」


「そうだ」


 惟種は答えた。


「派手ではない。だが、それで減らせる」


 惟豊は、そこで重く言った。


「妊婦を働かせすぎるな、も入れよ」


「うむ」


 惟種は頷く。


「産前産後は重い仕事を免ずる。水汲み、薪割り、田の重労働は外す。近しい女どもで回す」


 宗運が紙へ目を落とす。


「流行病の時は」


「産婦と乳児を人混みへ出すな」


 惟種は即座に答えた。


「市も寺の大きな集まりも、しばらく避ける。病人の家へ行き来を減らす。乳児の預け替えもむやみにするな」


「承りました」


 宗運はそこで、ようやく紙を伏せた。


「やれます」


 惟豊が問う。


「本当にか」


「はい」


 宗運の声は落ち着いていた。


「難しい薬を配れと仰せなら無理にございます。されど、産婆役を定め、産後七日を見回らせ、貰い乳をつなぎ、水と粥を煮よと命じ、妊婦を休ませるなら、十分回せます」


「よい」


 惟豊は言った。


「ならばやれ」


 惟種は最後に言葉を足した。


「お触れだけでは足りぬ」


「はい」


「方として置け。役目にしろ。帳面に載せろ。どの村に取り上げ役がおるか、乳の出る女がおるか、誰が産んだか、死んだか、生きたか――分かるようにしろ」


 宗運は、そこで深く頭を下げた。


「承りました」


「名は産育方でよい」


「は」


 惟豊が、低く息を吐く。


「飯を変え、子を生かすか」


 惟種は父を見た。


「どちらも同じだ」


「何がだ」


「人を減らさぬ」


 その一言で、座はまた静まった。


 惟豊は、しばらく惟種の顔を見ていたが、やがて小さく頷いた。


「まことに、国の話だな」


 宗運が灯の向こうで、わずかに目を細める。


 戦の話ではない。

 城の話でもない。

 だが、こういう話こそが、あとで兵数より大きく国を変えることを、三人とももう知り始めていた。


 その夜、座が終わったあとも惟種はしばらく残っていた。


 味噌。

 醤油。

 酢。

 飯を変えること。


 産婆役。

 貰い乳。

 煮た水。

 清潔な布。

 母を休ませること。


 やっていることは、どれも地味だ。

 地味で、目立たぬ。

 だが、派手な策ほど国を長く支えるわけではない。


 人は、衣食住足りてはじめて人となる。

 そして、生まれた子が生きて残ってこそ、次の国ができる。


 外では、夜気の中にまだ少し夏が残っていた。

 台所の火はもう落ちかけている。

 だが、その火が落ちたあとにも、阿蘇の中では別の火がつき始めていた。


 食わせる火。

 生かす火。


 それは戦場では見えぬ火だったが、いずれ国の底を一番深く温める火でもあった。

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