第六十一話 南へ返る知
天文十六年(一五四七年)九月。
南の空は高い。
だが、まだ秋の軽さにはなりきっていなかった。
薩摩の地には、夏の熱が薄く残っている。
風は吹く。
山の影も少し長くなる。
それでも、土の匂いはなお濃く、兵の汗もまだ乾ききらぬ季であった。
島津貴久は、その日、奥向きの座を使わせた。
大広間ではない。
かといって、あまりに内々でもない。
家中のすべてへ開くべき話ではないが、軽く聞き流してよい話でもない。そういう時に用いる座である。
日新斎が上座に近く座し、貴久がその前にいた。
新納忠元はやや下がったところに控えている。
忠元が筑後より戻って、日もまだそう経ってはいない。
だが、報告はすでに一度二度では済んでいた。
それでもなお、今日あらためてこの場が設けられたのは、ただ戦の様子をなぞるためではない。
忠元が持ち帰ったものが、勝ち負けの報せ以上に重かったからである。
日新斎が、静かに言った。
「では、聞こう」
忠元が深く頭を下げる。
「は」
「阿蘇は、どうであった」
短い問いである。
だが、そこに含まれるものは広い。
戦でどう動いたか。
兵はどうであったか。
若君はどうであったか。
勝ったあとの国の動かしようはどうであったか。
忠元は、そのすべてを胸の内で一度整えてから口を開いた。
「まず、兵にございます」
座は静かだった。
「屈強で崩れませぬ」
その一言に、貴久の目がわずかに動く。
「鉄砲が強い、というだけではございませぬ。撃つ兵も、その後ろも、横も、皆よく締まっております」
忠元は続けた。
「まず鉄砲です。一度撃って終わりではない。火が切れぬように回しておる。しかも、撃つ者だけが前へ出ておるのではなく、その間を埋める者、渡す者、列を乱さぬ者まで揃っております」
日新斎は何も言わない。
だが、その沈黙は軽く聞いていない時のものだった。
「島津でも鉄砲は存じております」
忠元は言う。
「されど、あそこまで切れ目を少なくし、しかも兵全体を崩さぬ形では、まだ回してはおりませぬ」
「筒そのものは」
貴久が問うた。
「違いました」
忠元は即座に答えた。
「すべてが別物とは申しませぬ。ですが、伸び、当たり、音、そのどれもが少しずつ違うように見えました」
日新斎がそこでようやく口を開く。
「少しずつ違う、か」
「はい」
「それは厄介よな」
「まことに」
忠元は頭を下げた。
「一つだけ違うなら、慣れれば済みます。ですが、少しずつ違うものが重なっております。しかも、それを兵の回し方と合わせておる。ゆえに、戦場で見た時の強さが、ただ筒の数だけの話に見えませなんだ」
貴久が、静かに息を吐いた。
「若君は、何を見ておるのだろうな」
その呟きに、忠元はすぐには答えられなかった。
戦だけを見ているのではない。
それは分かる。
だが、では何を見ているのかと問われれば、あまりに多くのものを見すぎていて、一言では言えぬ。
「それに、兵だけではございませぬ」
忠元は、ようやく言った。
「……ほう」
「筑後で見たものが、それをよく申しております」
日新斎の目が少し細くなる。
ここから先が、忠元自身にとってもいちばん重いところだった。
「勝ったあと、阿蘇は浮かれておりませなんだ」
貴久が黙って聞く。
「柳川を下し、蒲池を折り、なお酒宴へ流れませぬ。寺へ弔いを命じ、粥と米を施し、城を取ったその足で、すでに次の年の蔵と田の話をしておりました」
「戦の勝ちより先にか」
日新斎が問う。
「はい」
「……厭らしい」
その一言に、忠元は思わず顔を上げかけ、すぐに目を伏せた。
悪口ではない。
むしろ、最も正しい評であった。
「まことに」
「それで」
貴久が促す。
「筑後を、どうするつもりと見た」
「まず、食わせるつもりにございます」
その一言で、座の空気がわずかに動く。
「取った先から絞るのではない。年貢をいきなり重くせず、荒れ地を戻し、人を戻し、市を整え、道を通し、そのうえで石高を上げる――そのような筋に見えました」
日新斎は、そこで小さくうなずいた。
「やはりな」
忠元は続けた。
「阿蘇の若君は、戦に勝つためだけに火を抱えておるのではないのでしょう」
「前にも、そのような口を聞いたな」
「はい」
「火を持つ家で終わるのではなく、火の世に負けぬ家を作ろうとしておる」
忠元は、筑後で見た板や帳面を思い出していた。
石高。
常備。
軽税。
流民。
市。
鍛冶。
寺子屋。
治療。
火薬。
あれらは、一つひとつ別の工夫ではない。
家そのものを変えるための筋であった。
「恐ろしいのは」
忠元は低く言った。
「阿蘇が、勝つたびに太っておることでございます」
その言葉に、貴久も日新斎もすぐには返さなかった。
島津もまた、勝ちを知る家である。
だが、勝つことと、勝つたびに家の骨が太ることは別だ。
その差を、二人ともよく知っていた。
しばし、静かな間が落ちた。
その時、近習がそっと膝を進めた。
「阿蘇より、使者が」
貴久の目が上がる。
日新斎の口元が、ごくわずかに動いた。
「通せ」
やがて入ってきたのは、いかにも阿蘇らしい、静かな顔の男だった。
挨拶の言葉は簡潔で、無駄がなかった。
「此度の援け、あらためて礼を申すとのことにございます」
そう言って差し出されたのは、書状と、小さくまとめられた数枚の書付である。
貴久がまず書状を受け取り、日新斎へ回す。
文面は、惟種らしかった。
此度の援けへの深い謝意。
まずは両家の約が一つ果たされたこと。
ゆえに、こちらも返す番であること。
ただし、すべてを一度に渡すのではなく、まずは今すぐ役立つところから送ること。
貴久は、読み終えてから小さく息を吐いた。
「来たな」
日新斎も、文を閉じながら言う。
「ようやく口先だけで終わらせぬか」
使者は静かに頭を下げた。
「若君より、まず急ぎ使えるところを、と」
その言葉で、忠元の目が少しだけ鋭くなる。
貴久は書付の一枚を開いた。
そこにあるのは、長々しい兵法ではなかった。
だが、すぐに使える形へ落とした手引きであることは、見る者が見ればすぐ分かる。
鉄砲隊を三つに分け、火を絶やさぬよう回すこと。
撃つ者だけでなく、渡す者、火縄を保つ者、玉薬を整える者を分けること。
列が崩れぬよう、槍と鉄砲の間を空けすぎぬこと。
筒の強さに頼りすぎず、兵の足を乱さぬこと。
別の書付には、さらに簡潔な言葉で、内の回し方が記されていた。
戦のあとすぐ絞るな。
まず村を戻せ。
荒れ地へ種と農具を入れよ。
市を止めるな。
流れてきた者を追い立てるな。
軽くして残し、残して増やせ。
読みながら、貴久の目が次第に細くなる。
「……これは」
日新斎が横から一枚取った。
老いた目は遅くない。
むしろ、どこが省かれ、どこがあえて残されているかを読むのが早かった。
「すべては見せておらぬな」
使者は顔を上げなかった。
「若君より、まずはと」
「うむ」
日新斎は頷いた。
「まずは、だな」
そこにあるのは、秘伝の奥ではない。
だが、実利はある。
むしろ、いまの島津にとっては、奥を覗かせるよりも、この“まず使えるところ”の方が重かった。
忠元が思わず言った。
「見た通りにございます」
貴久が目を向ける。
「何がだ」
「阿蘇は、全部を見せぬ」
忠元は言った。
「ですが、今すぐ役に立つところは、きちんと切って渡してまいります」
日新斎が、小さく笑った。
「それが厭らしいのよ」
使者はなお黙っている。
貴久は、もう一度書付へ目を落とした。
鉄砲の回し方。
兵の足を止めぬ工夫。
戦の後に村を痩せさせぬための軽重。
種籾と農具。
市の口。
どれも、島津にとって未知のものばかりではない。
だが、こうして筋を揃えて見せられると、別のものに見える。
「これだけでも」
貴久は低く言った。
「内を立て直すには十分に利がある」
忠元が頭を下げる。
「はい」
「今の我らに要るのは、外へ大きく出ることより、まず内の崩れを少なくすることにございます」
日新斎が書付を閉じた。
「口先だけではなかった」
貴久が言う。
「それだけでも、よい縁だ」
使者はその場で、惟種の言葉をさらに口で伝えた。
火の理は、筒だけで回るものではないこと。
軽税もまた、蔵を痩せさせぬ工夫と合わせて使わねばならぬこと。
民を残すなら、兵を乱すなということ。
すべてを一度に真似ようとせず、まずは崩れぬところから手を入れよということ。
貴久は、それを最後まで黙って聞いていた。
阿蘇は、こちらを見ている。
しかも、どこが今の島津に足りず、どこへ先に手を入れれば利が出るかまで見た上で、渡してきている。
それはありがたい。
同時に、ぞっとするほど抜け目がない。
使者が下がったあと、しばらく誰も口を開かなかった。
やがて日新斎が言う。
「これで、まず内を締められるな」
貴久は頷いた。
「うむ」
「肝付でも、伊東でも、誰でもよい。いずれ南はまた火を噴く」
その言葉に、忠元の背筋がわずかに伸びる。
「されど、いまの我らは、まず内を崩さぬ方が先にございます」
貴久は、書付の端を指で押さえた。
「兵も直す」
「蔵も直す」
「村も痩せさせぬ」
それは戦の宣言ではない。
だが、次に戦うための準備としては、よほど深い言葉だった。
日新斎が、ふと忠元を見た。
「忠元」
「は」
「そなた、よいものを見て帰ったな」
「恐れ入ります」
「見ただけでは足りぬぞ」
「承知しております」
「今のうちに、こちらの兵へ落とせ」
忠元の声が、一段強くなる。
「はっ」
貴久は最後に言った。
「阿蘇は、ただ勝つ家ではない」
その一言に、座の空気がまた引き締まる。
「勝ちを次の力へ変える家だ」
忠元は、その言葉を胸の内で噛みしめた。
まさしくその通りだった。
戦場で見た強さも厄介であったが、それ以上に恐ろしいのは、戦のあとに国がまた太り始めるところである。
だが、だからこそ、この縁は重い。
あの若君は、すべては見せぬ。
見せぬが、必要な分は切って渡してくる。
それで相手を生かし、縁を太らせ、いずれさらに大きな利へ変えてゆく。
島津もまた、それをただ受けるだけの家であってはならなかった。
座が解け、書付はすぐに写しが取られた。
鉄砲役へ渡すもの。
蔵役へ見せるもの。
村の差配を預かる者へ落とすもの。
それぞれに分けて回されてゆく。
外へ攻める話は、まだ出ない。
だが、だからこそ重い。
内を整えることは、派手ではない。
勝ち鬨もない。
だが、それを怠った家から先に痩せる。
南の空は、暮れかけてもまだ赤かった。
その赤さを見ながら、貴久は静かに思っていた。
いずれ火は上がる。
肝付か。
伊東か。
あるいは別のどこかか。
だが、その時に勝つためにも、いまはまだ内を立てねばならぬ。
阿蘇より返ってきた知は、そのための最初の火だった。
南の島津もまた、そこから少しずつ形を変え始めていた。




