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火の山の若君は、未来を夢に見る ~阿蘇家嫡流の若君、名臣甲斐宗運と乱世を切り拓く~  作者: アトラス


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第六十三話 折れぬ旗

 天文十六年(一五四七年)十月。


 秋は深まりきらず、風だけが先に冷えていた。


 肥前の空は高い。

 だが、その高さは晴れやかさよりも、どこか薄い心許なさを感じさせる。夏の熱がすっかり抜けたわけではない。土にはまだ乾ききらぬ重みが残り、城下を渡る風ばかりが先に冬の匂いを運んでくる。


 勢福寺の館は、静かだった。


 静かすぎる、と少弐冬尚は思った。


 人の声が消えたわけではない。兵もいる。侍もいる。走る者も、見回る者もいる。だが、城というものは勝っている時と負けている時とで、同じ音でも響きが違う。今の館には、余計な笑いがなく、廊を渡る足音までどこか慎重だった。


 此度の敗戦は、それほどに重かった。


 蒲池鑑盛は討たれた。

 筑後はほとんど阿蘇へ呑まれた。

 柳川まで下った。

 しかも阿蘇は、取った先を荒らさず、すぐさま弔いと施しへ移ったという。


 冬尚は、それが腹立たしかった。


 ただ勝っただけならまだよい。

 勝ったあとに痩せぬ。

 いや、勝ったあとにかえって太る。

 そのことが、何より癪に障った。


 その日、冬尚は広い座敷ではなく、奥寄りの一間を使わせた。


 呼んだ顔ぶれは多くない。


 神代勝利。

 江上武種。

 小田政光。


 いずれも今の少弐にとって、城と地と人を繋ぎ止めるうえで外せぬ者どもである。


 それ以上は呼ばなかった。

 呼べば、座が大きくなる。

 大きくなれば、言わずに済ませたいことまで口にせねばならぬ。

 今はまだ、そこまで家中を開くべき時ではなかった。


 冬尚が上座に座ると、三人もまたそれぞれ定まった位置へ着いた。


 最初に口を開いたのは、冬尚ではなかった。


 江上武種が、低く言ったのである。


「……筑後は、ほぼ阿蘇にございますな」


 誰もすぐには答えなかった。


 その一言は、今さら口にせずとも分かっていることだった。

 分かっていて、なお、誰かが言葉にせねば前へ進まぬことでもあった。


 冬尚は膝の上へ置いた手をわずかに動かした。


「柳川まで開いたか」


「はい」


 武種が答える。


「しかも、蒲池の一族の命は取らなんだとのこと」


 神代勝利が、鼻で短く息を鳴らした。


「ぬるい」


 だがその声音には、ただ侮る響きだけではなかった。

 どこか、舌打ちに似た悔しさが混じっている。


「ぬるい、では済まぬ」


 小田政光が言った。


「血を絶やさず、恨みだけ抑える。いちばん厭らしいやり口にございます」


 冬尚はその言葉に、目を細めた。


 まことに、その通りだった。


 焼き討ちにして皆殺しにしたならば、まだ恨みは一つにまとまる。

 だが家を折るだけで血を残せば、周りの国衆はこう思う。


 ――阿蘇へ下れば、家は残る。


 その思いが人の腹に入った時、戦は城を攻める前から負け始める。


 冬尚が、ようやく口を開いた。


「大友より文が来た」


 三人の目が上がる。


 書状はすでに机の上へ置かれていた。

 大友の花押がある。

 だが、文面は露骨ではない。


 阿蘇の膨張を憂うこと。

 少弐の旗がなお折れておらぬことを喜ぶこと。

 米、銭、武具のいくらかを回し得ること。

 ただし、兵については明言せず。


 冬尚は書状を見下ろしたまま、吐き捨てるように言った。


「兵は寄越さぬ」


 勝利が、苦く笑った。


「ようございますな」


「何がだ」


「兵を寄越されても、恩が重うなるばかりにございます」


 冬尚はすぐには返さなかった。


 勝利の言いたいことは分かる。

 だが、分かった上でなお腹が立つ。


「大友め……」


 冬尚は低く言った。


「恩を売るつもりか。あるいは、阿蘇と共倒れを狙うておるのか」


 誰も否定しない。


 武種が慎重に言った。


「どちらにせよ、今の当家は受けねばなりますまい」


 冬尚は、その言葉に歯を食いしばるような思いがした。


 少弐である。

 かつて肥前に号令した家である。

 それが今では、兵は出さぬが米と銭ならくれてやる、と言外に言われて、それを呑まねばならぬ。


 屈辱だった。


「米は要る」


 小田政光が、あくまで現実を口にした。


「武具も銭も、今は喉から手が出るほど要りましょう」


「分かっておる!」


 冬尚の声が、少しだけ強くなる。


 だがすぐに、それを自分で押さえた。

 怒鳴って済む話ではない。


「分かっておる……」


 言い直した声は、先ほどより低かった。


「ゆえに受ける」


 それで座は静まった。


 誰も、それを軽い判断と思ってはいない。

 受けるとは、すなわち借りを作るということだ。

 しかも、兵を出さぬ援助というのは、いちばん腹立たしく、いちばん断りにくい。


 江上武種が、そこで別の文を開いた。


「大内へは」


 冬尚の目が動く。


「使者は出さねばなりますまい」


 勝利が眉をひそめる。


「今さら大内に、でございますか」


「頼るためではない」


 武種は落ち着いていた。


「もとより、今さら我らを立てる気は薄い」


 その言葉に、冬尚も無言でうなずいた。


 大内と刃を交えて久しい。

 父祖の代からの争いは深く、いまの大内が少弐の再興のために心を砕くなど、甘い夢にすぎぬ。


「だが」


 武種は続ける。


「少弐がまだ死んでおらぬことは、見せねばなりますまい」


 小田政光が、それを受けた。


「大内にとっても、我らがすぐ消えぬと知れば、それだけで阿蘇と龍造寺抱え込みの筋を軽くは見ますまい」


 冬尚はその言葉の中に出た名に、ぴくりと反応した。


 龍造寺。


 まだ旗にしておらぬ。

 まだ再興もしておらぬ。

 だが、だからこそ厭らしい。


「阿蘇が……」


 冬尚の声が低く沈む。


「龍造寺など取り込みよって」


 誰も動かない。


「まだ再び立ててもおらぬのが、なお腹立たしい」


 冬尚は続けた。


「阿蘇の内で力を蓄えさせ、その名と旧縁だけ先に肥前へ差し込んでくるつもりか」


 勝利が、膝の上で拳を握った。


「肥前の者どもが、それで揺れております」


 その言葉に、座の空気が一段深く沈む。


 武種が別の紙を取り上げた。


「すでに、いくつかの国衆へ阿蘇より文が入っております」


 冬尚の目が鋭くなる。


「差出人は」


「阿蘇」


 武種は答えた。


「されど、端々に龍造寺旧縁を匂わせております」


 小田政光が低く言った。


「まことに、厭らしい」


「城はまだ立っております」


 武種が続ける。


「されど、人の心は城より先に揺れます」


 冬尚は黙って聞いていた。


「いまはまだ、あからさまに離れる者はおりませぬ」


「だが」


「はい」


 武種は顔を上げずに言った。


「来年、阿蘇が龍造寺再興を名目に肥前へ入る気配を見せれば、今の揺れはもっと深くなりましょう」


 その場にいた誰も、その予感を否めなかった。


 勝利が、そこで太い声を出した。


「ならば今年のうちに、こちらから打つべきではございませぬか」


 冬尚が目を向ける。


「どこをだ」


「揺れる者どもを締め、境目の城へ兵を入れ、阿蘇の文が通る前に」


「それで」


 小田政光が割る。


「兵糧はどこから出す」


 勝利が言葉に詰まる。


「今の当家に、筑後の一部を失い、蒲池も折れた今、どこまで前へ出る余力がございます」


「余力がないからと黙っておれば、人が逃げる!」


「余力がないのに動けば、もっと逃げる!」


 二人の声が少しだけ強くなる。

 冬尚は、それを止めなかった。


 どちらも正しい。

 正しいが、正しさが二つに割れた家ほど危ういものはない。


 江上武種が、ようやく二人の間へ声を落とした。


「今年は攻めては来ますまい」


 座が静まる。


「何ゆえそう言う」


 冬尚が問う。


「阿蘇は筑後を取ったばかりにございます」


 武種は答えた。


「取った先を荒らさず太らせるつもりなら、今年のうちに肥前へ大きくは出ぬ。出れば、自分で自分の筋を壊します」


 小田政光も頷く。


「名和も下った今、なおさら急がぬ方が利と見ておりましょう」


「……ならば」


 冬尚が低く言う。


「来年か」


「おそらく」


 武種は答えた。


「来年、決戦になるものと見て備えるべきにございます」


 その一言は、座の中の空気を定めた。


 勝利も、もうそれ以上は言わなかった。

 小田政光もまた、口を閉じる。


 来年。

 その言葉は希望ではない。

 猶予であり、首の皮一枚分の時間だった。


 冬尚は、しばらく何も言わなかった。


 来年には阿蘇が来る。

 しかも、ただ阿蘇の旗だけではない。

 阿蘇の内に抱えられた龍造寺の影も連れてくる。

 筑後はすでに奪われた。

 名和も正式に臣従した。

 相良も助けに動かぬ。

 大友は兵を出さず、米と銭だけ寄越す。

 大内は頼れぬ。


 そうして数えてゆくと、胸の内へ冷たいものが溜まってゆく。


 少弐は、いまどこに立っているのか。


 それでも。


 それでもなお、旗を畳むわけにはいかなかった。


 冬尚は顔を上げた。


「大友の援助は受ける」


 三人が黙って聞く。


「米も、銭も、武具も、今は要る」


 声は低いが、もう揺れてはいなかった。


「だが、恩に酔うな」


「は」


「兵を寄越さぬのだ。助けるためではない。阿蘇を削る駒にしたいだけと思え」


 勝利が深く頭を下げる。


「承りました」


「大内へも使者を出す」


 武種が静かにうなずく。


「はい」


「助けを乞うためではない」


 冬尚は続けた。


「少弐はまだ健在にあると示すためだ。折れておらぬ旗であると、来年へ向けて見せるためだ」


「よい筋にございます」


 武種が言う。


「そして」


 冬尚の声が、そこで少しだけ深く沈む。


「阿蘇の文が入った者どもは、一人残らず洗い出せ」


 小田政光の目が細くなる。


「詰めますか」


「すぐには詰めぬ」


 冬尚は答えた。


「今は追い詰めれば、かえって向こうへ転ぶ」


 それは苦い判断だった。

 だが、ここで血を見せればもっと崩れることを、冬尚も分かっていた。


「誰が揺れておるか、まず見ろ」


「は」


「見たうえで、残る者には残る利を示せ」


 勝利が、そこで低く言った。


「来年まで、でございますな」


「そうだ」


 冬尚は言った。


「今年は持ちこたえる」


 その一言で、ようやく皆の視線がひとつへ寄る。


「兵を立て直す。蔵を繋ぐ。国衆を繋ぎ止める。少弐の旗がまだ折れておらぬと、外へも内へも見せる」


 そして、最後に冬尚は吐き出すように言った。


「来年だ」


 拳が膝の上で固くなる。


「来年、おそらく決戦となろう」


 座は静まり返った。


 それは威勢のよい誓いではない。

 むしろ、そうならざるを得ぬと知った者の言葉だった。


 阿蘇は来る。

 来るなら、こちらも立つしかない。


 冬尚は、そこでとうとう胸の内に溜まっていたものを言葉へした。


「阿蘇め……!」


 誰も顔を上げぬ。


「龍造寺まで抱え込みよって……くそ……!」


 それは怒りだった。

 同時に、焦りでもあった。


 龍造寺がもう立っているのなら、まだ分かりやすい。

 だが今は違う。

 阿蘇の内にあり、阿蘇の理で太りながら、名と縁だけ先に肥前へ差し込んでくる。


 見えぬ刃であった。


 冬尚は長く息を吐いた。


「散れ」


 短い命だった。


「今年の冬は、長くなる」


 三人は深く頭を下げ、座を辞した。


 勝利は兵を思い、

 武種は文と城を思い、

 小田政光は、人の腹の揺れを思っていた。


 誰も、軽い足ではなかった。


 人がはけたあとも、冬尚はしばらくその場に残った。


 障子の外では、風がひとつ強く鳴った。

 秋の風である。

 だが、その冷たさはもう冬の先触れに近い。


 少弐は、まだ死んでいない。

 だが、生きていると言い切るには、あまりに多くのものが足元から抜け始めていた。


 来年。

 その言葉だけが、今はやけに重く胸へ残る。


 冬尚は、閉じられた文を見つめながら、ただ一度だけ深く目を閉じた。


 まだ折れぬ。

 折れぬが、もう同じ旗ではいられぬ。


 十月の風は、そのことを少弐の館へ静かに告げていた。

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