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第六話 父は、若君の変化を量る

**阿蘇あそ 惟豊これとよ**は、机の上に広げられた書付を見ながら、しばし筆を止めていた。


 年の頃は、もはや若いとは言えぬ。

 だが衰えた、と軽々しく見られるつもりもなかった。


 肩は広く、骨ばった顔には深い皺が刻まれている。若い頃のような鋭さ一辺倒ではないが、その代わり、長く家と国を背負ってきた者だけが持つ重みがあった。

 ただ座しているだけで、館の者どもが自然と声を潜める。

 それが、当代 阿蘇家あそけ 当主たる惟豊という男だった。


 しかも惟豊は、ただの在地の武家ではない。

 阿蘇神社あそじんじゃ大宮司だいぐうじ として、神前に立ち、祭を司り、火の山の吉凶を読む家の長でもある。


 阿蘇家は古い。

 古く、重く、名のある家だ。


 肥後の国衆どもも、阿蘇の名そのものを軽くは扱えぬ。

 それは田地の広さや兵の数だけで成るものではなかった。

 火の山の麓に根を下ろし、神を祀り、代々その座に連なってきた家の権威がある。


 だが――と惟豊は思う。


 家の格と、家の実情は別だ。


 阿蘇家あそけ は長く割れていた。

 血筋の争い、家中の対立、国衆の離反。

 大宮司の家でありながら、神威だけで人は従わぬ。武の世においては、祈りだけでは田も兵も守れない。


 惟豊は一度、家を追われた。

 それでも戻り、割れた家を拾い集め、甲斐の者どもの助けも借りながら、ようやくここまで繋いできた。

 人は今の阿蘇を見て盛り返したと言う。全盛期を築いたと言う。

 だが惟豊自身は知っている。


 ようやく形になっただけだ。

 まだ傷は浅くない。


 家中は静まった。

 だが、静まっていることと、一枚岩であることは別だ。

 国衆どもも、従ってはいる。だが腹の底まで一つになったわけではない。


 だから、こういう時が危うい。


 一か月前に 阿蘇あそ 惟将これまさ を失ってから、惟豊は何度となくそう思っていた。


 惟将は死んだ。

 それは事実であり、もはやどうにもならぬ。


 だが事実というものは、受け入れれば消えるわけではない。

 ただ胸の奥に残り、別の重みへ変わるだけだ。


 しかも、その重みを味わう暇もないうちに、今度は 惟種これたね が高熱で倒れた。


 惟豊は、その報せを受けた夜のことを思い出した。


 腹の底が冷えた。


 当主としてではない。

 父として、だ。


 惟将を失い、残る嫡子は惟種ただ一人。

 その惟種まで失えば、家中は必ず揺れる。

 いや、揺れるだけでは済まぬ。


 ようやく継ぎ直した家の糸が、また解ける。

 国衆は様子見を始めるだろう。

 外の敵は、肥後の真ん中に生じた隙を見逃さぬ。


 北には 大友家おおともけ

 南には 相良家さがらけ

 さらにその先には 島津家しまづけ


 阿蘇は火の山に守られた地だ。

 だが守られているだけで生き残れるほど、世は甘くない。


 惟豊は、机の脇に置かれた湯呑を手に取った。

 もうぬるい。


 その時、障子の向こうから控えめな声がした。


「**甲斐かい 宗運そううん**にございます」


「入れ」


 襖が開き、宗運が入ってくる。


 月代を落とし、法体となった姿は一見すると僧にも見える。

 だが惟豊にとっては、とうに見慣れた顔だ。

 寺の男ではない。阿蘇家の重みを人の形にしたような男である。


 その父 甲斐かい 親宣ちかのぶ の代より、甲斐は阿蘇を支えてきた。

 家が割れていた頃も、戻るべき時も、押さえるべき城も、向き合うべき国衆も、惟豊の傍らには常に甲斐がいた。

 惟豊がここまで家を立て直せたのも、この一族の働きがあってこそだと、否応なく分かっている。


 宗運は膝をついた。


「若君のご様子、いかがであった」


 宗運は顔を上げぬまま答えた。


「熱は峠を越えたようにございます。今朝は自ら身を起こし、言葉にも乱れは少のうございました」


 惟豊は、胸の内でゆっくりと息を吐いた。


 まずはよい。

 ただ生きている、というだけでも今は重い。


「それだけか」


 問いは短かった。

 だが宗運には十分だろう。


「……昨夜より、若君は妙に落ち着いておられます」


 惟豊は宗運を見た。


 妙に。

 その一言に、宗運の警戒がにじんでいる。


「何か申したか」


「夢を見た、と」


 惟豊の眉がわずかに動く。


「夢」


「火の山が鳴り、田が枯れ、人が飢え、鉄が火を噴く夢、と」


 惟豊は、少しだけ視線を落とした。


 病み上がりの子が夢を口にすること自体は珍しくない。

 熱に浮かされた者が、神だ、山だ、死者だと口走るのも、この国ではよくあることだ。


 しかも阿蘇の家である。

 火の山の鳴りや煙に、吉凶の気配を読む習いはある。

 神の山の麓に生きる者どもが、そうしたものを完全に笑い飛ばせるはずもない。


 問題は、その先だ。


「熱のうちのうわ言ではないのか」


「そうとも申せましょう」


「だが?」


 宗運が、そこで初めて少しだけ間を置いた。


「その夢の中に、使える話が混じっております」


 惟豊は、湯呑を机へ戻した。


 そこか。

 そこが、宗運をしてこうして報告に来させた理由だ。


「申せ」


「田にございます」


 惟豊は黙って聞いた。


「新田を急ぐより、まずいまある田から実りを増やすべきと」


「ふむ」


「水の偏りを見直し、種を選り、草を敵として扱い、山の草を田へ戻す。さらに土地によっては、いずれ二度作ることもできるのでは、と」


 惟豊は、そこでようやく宗運の顔を見た。


 夢という割に、ずいぶんと話が整っている。


「若君が、それを申したか」


「はい」


「誰かが吹き込んだのではないか」


「考えました。されど、若君はまだ病み上がりにございます。館内でそのような話を、あの短い間に仕込むのは難しゅうございましょう」


 たしかにそうだ。


 惟豊は少し考えた。


 惟種は、元来そこまで口数の多い子ではない。

 賢くないとは言わぬ。だが、政道や農の話を次々と並べるような子でもなかったはずだ。


 それが病を境に変わった。

 ならば、普通は気味悪がるべきなのかもしれぬ。


 だが惟豊は、そこまで短気ではなかった。

 家を追われ、戻り、割れた家を立て直してきた男は、少し奇妙なくらいでいちいち怖じ気づかない。


「おぬしはどう見た」


 宗運は答える。


「夢をそのまま信じる気はございませぬ」


「うむ」


「されど、試す価値はございます」


 惟豊は、その言葉に小さくうなずいた。


 それでよい。

 宗運が全面に信じたと言うなら、逆に危うい。

 使えるかどうかを見たいと言うなら、それは宗運らしい。


「他には」


「市にも、少し手を入れたいと」


「市」


「田は実るまで時がかかるゆえ、その間に門前へ少し人を寄せたいとのこと。役をひとつ軽くし、荒事を抑え、まずは小さく、と」


 惟豊は思わず、わずかに鼻で息を吐いた。


 病み上がりの子どもが、田と市を同じ口で語る。

 まるで老臣のようだ。


 可笑しいと言えば可笑しい。

 だが、腹立たしくはなかった。


「若君は、何を焦っておる」


 その問いに、宗運は少しだけ黙った。


「時間がない、と申しておられました」


 惟豊の目が細くなる。


「時間がない」


「国にも、家にも、若君にも――と」


 惟豊は、その言葉を胸の内で繰り返した。


 家にも。

 国にも。

 そして、自分にも。


 それを病み上がりの子が口にするのか。


 惟将を失ったことで、自分なりに何かを感じ取ったのかもしれない。

 あるいは、死を間近に見たせいか。


 惟豊の胸の奥に、父としての痛みとは別のものが生まれる。

 それは警戒であり、同時に、わずかな期待でもあった。


 もし惟種が、ただ生き延びただけではなく、何かを掴んで戻ってきたのなら。


 それは阿蘇家にとって福かもしれぬ。

 あるいは厄かもしれぬ。


 まだ分からない。

 だが、分からぬなら試すしかない。


「宗運」


「は」


「田のことは、やれ」


 宗運は頭を下げた。


「は」


「だが、広げるな。御料のうち、目の届くところだけにせよ」


「承知しております」


「市も同じだ。門前に少し触るだけでよい。派手にやるな」


「はい」


「若君の名は、まだ前に出すな」


 そこが大事だった。


 病み上がりの若君が急に何かを始めた、と広まれば、良くも悪くも噂になる。

 いま必要なのは噂ではない。

 小さな成果だ。


「名目はどうする」


 宗運が即座に答える。


「若君ご快癒祈願の一環にございます」


 惟豊は小さく笑いそうになった。


 やはり早い。

 そこまで考えているなら、任せられる。


「よい」


 惟豊はそう言ってから、少しだけ視線を外した。


 窓の向こう、阿蘇の空は高かった。

 その下で、田は広がり、村は息づき、館にはまだ血の温もりが残っている。


 神の山の下で、家は続く。

 だが、続けるのは神ではない。人だ。


 惟将はもういない。

 その事実は変わらぬ。


 だが惟種は生きた。

 そして、何やら奇妙なことを口にし始めた。


 父としては、ただ無事でいてほしい。

 当主としては、阿蘇家を繋げてほしい。

 大宮司としては、この家の権威と祭祀を損なってほしくない。


 その三つが、いつまでも同じ向きを向いてくれるとは限らぬ。

 だが今は、まだ重なっている。


 その時、自分はどちらを取るのか。

 惟豊は、その問いを今は胸の奥へ押し込めた。


「若君には、まだ休ませよ」


「はい」


「無理に話を引き出すな。だが、何を考えておるかは見ておけ」


「承知いたしました」


 宗運が深く頭を下げる。


 その姿を見ながら、惟豊は静かに言った。


「宗運」


「は」


「若君が変わったと思うか」


 宗運は、すぐには答えなかった。


 それが、かえって本音らしかった。


「……変わったやもしれませぬ」


「やもしれぬ、か」


「ですが、悪い方へとは、今のところ思えませぬ」


 惟豊は、その返答にだけは素直にうなずいた。


 宗運がそう言うなら、今はそれで足りる。


「ならばよい」


 宗運が退出したあと、惟豊は一人でしばらく座っていた。


 机の上の書付。

 田のこと。

 市のこと。

 若君の夢。

 そして、ようやく静まりかけた家中の傷。


 どれも、まだ小さい。

 小さすぎて、笑い飛ばすこともできる。


 だが、世を動かすのはいつも、最初はその程度のものだ。

 誰にも見向きされぬほど小さな違和が、やがて家の形を変えることもある。


 惟豊は、机の端に置いた指を軽く叩いた。


「……惟種」


 その名を、誰に聞かせるでもなく呟く。


 生き延びた子。

 残された嫡子。

 そして今、何かを見て帰ってきたかもしれぬ若君。


 それが本物かどうかは、まだ分からぬ。


 だが、もし本物なら。


 惟豊は、そこで思考を止めた。


 今はまだ、そこまで考える時ではない。

 まずは田を見よう。

 門前の人の流れを見よう。

 話はそれからだ。


 惟豊は改めて筆を取り、目の前の書付に目を落とした。


 今度は、さきほどより少しだけ文字が頭に入ってきた。

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