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火の山の若君は、未来を夢に見る ~阿蘇家嫡流の若君、名臣甲斐宗運と乱世を切り拓く~  作者: アトラス


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第五十七話 礼と仕置き

天文十六年(一五四七年)七月。


 柳川が下り、寺の鐘が戦の終わりを告げても、阿蘇の陣からすぐに兵が消えるわけではなかった。


 城は開いた。

 蒲池の一族は預かりとなった。

 粥を炊き、米を分け、読経を上げて、ひとまず民の気も静まり始めている。


 それでもなお、戦のあとに片づけねばならぬことは多い。


 味方へは礼を尽くし、

 周囲へは筋を通し、

 下った者へは新しい秩序を見せる。


 それを怠れば、勝ちはすぐに薄くなる。


 その日の朝、惟豊は小さな座を設けた。


 広間ではない。

 かといって、あまりに内々でもない。

 戦後の差配に関わる者だけを集めた、ほどよく締まった座である。


 上座に惟豊。

 その少し下に惟種、宗運、田代宗傳。

 さらに北里政久が並び、筑後の帳面と城と国衆をこれからどう押さえてゆくか、その筋をすでに頭の中 で組み始めていた。


 その場へ、新納忠元が通された。


 島津より来た援軍二百を率いて、この戦の終わりまできちんと役を果たした将である。

 派手な男ではない。

 だが、言葉を慎み、動くべきところで迷わぬという意味で、いかにも島津らしい堅さを持った男だった。


 惟豊がまず礼を述べた。


「此度は、まことに世話になった」


 忠元は座の上で深く頭を下げた。


「お役目にございます」


「役目で済ませるには、働きが過ぎる」


 惟豊の声は低かった。


「援兵二百でありながら、よく背を締めてくれた。あれがあったればこそ、こちらも心置きなく前を押せた」


 忠元は顔を上げぬまま言う。


「阿蘇と島津、此度はひとつの約にて動いたまでにございます」


 宗運がその横顔を見ながら、やはりよく締まった男だと思っていた。

 功を誇らず、役目と言う。

 だが、その役目の重さを軽く見ているわけでもない。


 惟種がそこで口を開いた。


「新納殿」


「は」


「此度の援け、まことにありがたく思うております」


 忠元が、初めて若君の方へ目を向けた。


「若君」


「新納殿が来てくださらねば、勝てたとしても、ここまで早うは収まらなんだ」


 それは気休めではなかった。


 勝負そのものは、阿蘇の練り上げた兵と鉄砲の理で取れたであろう。

 だが、背後に島津の二百があり、左後にその影が見えているということが、敵へ与える圧と、味方へ与える落ち着きは別である。


 忠元もまた、そのことは分かっている顔だった。


「もったいなきお言葉」


「これにて、まずは両家の約は一つ果たされました」


 惟種は言った。


 座が静まる。


「島津が阿蘇を援け、阿蘇がその働きを忘れぬ。これより先、縁がただの口約で終わらぬことも、此度でよく知れました」


 忠元は黙って聞いている。


「ならば次は、こちらが返す番にございます」


 その一言で、座の空気が少しだけ変わった。


 忠元の目が、わずかに動く。

 宗運もまた、若君の言葉の置き方を聞いていた。


「阿蘇と島津、どちらか一つだけが栄えればよい縁ではありませぬ」


 惟種は続ける。


「両家ともに栄えてこそ、この盟約は生きます」


 忠元は、そこでようやく深く頭を下げた。


「そのお言葉、必ずや日新斎様、貴久様へお伝え致します」


「頼みます」


「は」


 しばし、静かな間が落ちた。


 礼は尽くした。

 あとは別れの文を整え、物を持たせて返すことになる。


 それで終わってもよかった。


 だが、忠元はまだ何かを胸の内に抱えているように見えた。


 宗運もそれに気づいたらしい。

 視線だけで、惟種へ軽く合図を送る。


 惟種はそれを受けて言った。


「まだ、何かございますか」


 忠元は少しだけ間を置いた。


 無礼にはならぬように。

 だが、聞かずには帰れぬこととして。


「ひとつ、お尋ねしてもよろしゅうございますか」


「よい」


「此度の戦にて見ました鉄砲の働きにございます」


 その言葉で、座の中の空気がまた別の重みを持った。


 北里がわずかに顔を上げる。

 宗傳は目を伏せたまま耳を寄せる。

 宗運だけは、顔色を変えない。


 忠元は言葉を選びながら続けた。


「島津でも、鉄砲は存じております」


「うむ」


「されど、あれほど絶え間なく、しかも列を崩さず撃ち続ける形では、まだ回してはおりませぬ」


 惟種は黙って聞いている。


「一度撃てば、次の火が来るまで間が空く。その間に敵が詰める。それを前提に兵を置くのが常にございます」


「そうであろうな」


「ですが、此度の阿蘇の撃ち方は違いました」


 忠元の目が、少しだけ強くなる。


「火が切れぬ」

「列が乱れぬ」

「しかも、撃つ兵だけが働いておるのではなく、その後ろも横も崩れぬ」


 それはただの感想ではなかった。

 戦を見た将の観察である。


「まことに見事にございました」


 惟種は少しだけうなずいた。


「それだけではございませぬ」


 忠元はさらに言う。


「島津で使う筒と比べて、どうにも勝手が違うように思えました」


 宗運の目が、ごくわずかに動いた。


「伸びがある」

「当たりも重い」

「音も、腹へ響く感じが少し違う」


 忠元は率直に言った。


「若君はいったい、どのような知をお持ちなのかと……正直、舌を巻きました」


 座は静まっていた。


 誉め言葉である。

 だが同時に、芯に近いところへ触れる問いでもある。


 北里は少しだけ身を固くした。

 宗傳もまた、帳面に落とした視線を動かさぬ。

 だが惟豊も宗運も、あえてそこで割って入らなかった。


 ここでどう返すかを見ているのだ。


 惟種は忠元を見た。


「新納殿がそのように見ておられたのなら、此度は十分に働いたということだ」


 忠元は眉をわずかに動かす。


「若君」


「だが、いまこの場で全部を申すのは、少し違う」


 忠元はすぐに頭を下げた。


「出過ぎたことを」


「いや」


 惟種はそれを遮った。


「問うてくださったのは、ありがたい」


 忠元が顔を上げる。


「この先、島津と阿蘇がただ縁を結ぶだけでなく、実のある縁とするなら、いずれ火のことも、兵のことも、筒の違いも、ちゃんと文にしてお伝えすべきだと思うておる」


 宗運が、その横でごく小さくうなずいた。


「ゆえに」


 惟種は続けた。


「いずれ使者を遣わそう」


「……は」


「その折に、申せることはきちんと申す」


 忠元は、しばらく若君を見つめていた。


 隠すだけではない。

 見せびらかすでもない。

 順を立て、礼を尽くし、そのうえで先へ繋げる。


 幼い顔でありながら、その置き方はすでに一家の当主のそれに近かった。


「ありがたきことにございます」


 忠元は深く頭を下げた。


「島津に持ち帰るべきは、此度の勝ちの話だけではなさそうにございますな」


「そうあってほしい」


 惟種は答えた。


「島津にも、阿蘇にも」


 忠元はその後、別れの礼を受けた。


 馬と道中の備えが整えられ、贈り物も持たされる。

 表向きには援軍への謝礼である。

 だがその実、両家がここで一段深く噛み合ったという印でもあった。


 見送りに立った惟種へ、忠元は最後に言った。


「若君」


「うむ」


「此度、貴家が見せられたものは、ただ戦の勝ちにございませぬな」


「そうあってほしいと思うておる」


「はい」


 忠元はうなずいた。


「島津にとっても、よい縁にございます」


「阿蘇もそう思う」


 それだけ言って、忠元は馬を進めた。


 島津の兵も、その後ろに続く。

 数は二百。

 だが、その二百が残したものは、兵数より重かった。


 忠元らの姿が遠くなったあと、北里がぽつりと言った。


「若君」


「何だ」


「ずいぶんと先の約まで置かれましたな」


「いま返せるものは礼だけだ」


 惟種は前を見たまま言った。


「だが、礼だけで終われば、縁は細る」


「たしかに」


「ならば、次があると思わせた方がよい」


 宗運が小さく笑う。


「相変わらず、抜け目がありませぬ」


「抜けておると、食われる」


 それで話は終わった。


 だが、終わってよい話ではないことも、そこにいる者らには分かっていた。

 火の理は、いずれ島津にも渡る。

 全部ではないにせよ、何かは渡すことになる。

 その時にこそ、この縁はさらに重くなる。


 だが、いまはまだその前でよい。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 その日の午後、今度は筑後の国衆らが呼び集められた。


 場所は柳川の一角に設けた仮座である。

 城そのものは明け渡されたばかりで、まだあちこちに戦の匂いが残っている。だが、だからこそよかった。新しい秩序は、古い城の中でそのまま示した方が早い。


 広間に並んだ顔ぶれは様々だった。


 戦の前から様子を見ていた者。

 勝敗が見えてから祝いを持ってきた者。

 門を閉ざさなかった者。

 蒲池へ名目だけの義理を立てつつ、実のところは手を貸さなかった者。


 露骨に逆らいきった者は少ない。

 だが、腹の底まで見せた者もまた少ない。


 惟豊は上座に座したまま、しばらく何も言わなかった。


 わざとである。


 皆が、待つ。

 その沈黙に耐えかねて視線を落とす者が出る。

 その時になってようやく、惟豊は短く言った。


「此度の戦、筑後の筋はよう見えた」


 誰も口を開かない。


「早く祝いを持ってきた者もおる。遅れた者もおる。来なんだ者もおる」


 座の中に、わずかに緊張が走る。


「だが」


 惟豊はそこで声を荒げなかった。


「いまは、一つひとつ首を数える時ではない」


 国衆らの肩が、見えぬほどわずかに緩む。


 その一瞬を宗運は見逃さなかった。


「まず、出仕を求めます」


 宗運の声は落ち着いていた。


「ついで、起請文を出していただく」


 宗傳が横から文箱を開く。


「所領の安堵は、そののちに決めます。戦の間の働き、境目の静まり、蔵と兵糧の差し出し、城番への協力――それらを見て、軽き者には軽く、重き者には重く沙汰致します」


 つまり、無条件ではない。

 だが、最初から潰すとも言っていない。


 その置き方だけで、何人かの顔から血の気が少し戻った。


 ひとりの国衆が、おそるおそる口を開いた。


「では……此度、祝いが遅れましたことも」


 北里が横から低く言った。


「忘れたわけではない」


 その声で、男は口を噤む。


「だが、それだけで家を断つとは申しておらぬ」


 北里の目は鋭かった。


「今からの働きで見せよ」


 それは脅しであり、機会でもあった。


 別の者が進み出る。


「起請文は、すぐにも」


「出せ」


 宗傳が言う。


「名と印を違えるな。曖昧な文言も許さぬ。此度より先、誰に従い、どの城筋を守り、何の時に兵を出すか、きちんと書け」


 帳面の匂いがした。

 血の匂いではなく、統治の匂いである。


 惟種はその様を黙って見ていた。


 国衆たちの顔が、一様に晴れぬのも無理はない。

 戦ではなく文で縛られる方が、後へ残るからだ。


 その中に、最後まで頭を下げる角度の浅い男がひとりいた。


 名を呼ばれる。

 返事はする。

 だが、言葉の端々にまだ“様子見”が残っている。


 北里がそれを見ていた。

 宗運も見ている。

 惟種もまた、見ていた。


「其方」


 惟豊が名を呼ぶ。


 男が進み出た。


「祝いも遅い。起請文も持たぬ。しかも今なお、口が重い」


 男の喉が鳴る。


「何を迷う」


 静かな問いだった。

 だが、逃げ道のない問いでもあった。


「い、いえ……」


「逆意があるなら申せ」


 その一言で、座の空気が凍る。


 男はあわてて額を畳につけた。


「滅相もございませぬ!」


「ならば、明日までに文を持て」


「は、はっ」


「兵糧を出せ」

「境目の見張りも引き受けよ」

「そのうえで、なお疑わしければ、さらに呼ぶ」


「承ります!」


 男はもはや、先ほどまでの曖昧さを保てなかった。


 それで十分だった。


 今の阿蘇に必要なのは、見せしめの首ではない。

 誰がどこまで逆らえるか、その線を皆の前ではっきりさせることだ。


 宗運が低く言う。


「此度より先、筑後は静めます」


 誰も口を挟まない。


「勝手な私闘を禁じる。押領も禁じる。城番は勝手に兵を増やさぬ。村を荒らした者は、いかなる名目があろうと咎める」


 それは新しい国の法として、その場へ置かれた。


 惟種はそこで、ようやく口を開いた。


「筑後を取ったと思うな」


 国衆らの目が上がる。


「筑後を預かったと思え」


 広間が静まり返る。


「荒らせば痩せる。痩せれば、また戦になる」


 惟種の声は大きくない。

 だが、よく通った。


「戦をして勝つのは難しい。だが、勝ったあとに痩せぬようにする方が、もっと難しい」


 宗傳がその横で、静かに帳面を閉じた。


「ゆえに、これより先は文で縛る」


 惟種は言った。


「文に従えば安堵する。従わねば削る」


 短い。

 だが、それで足りた。


 国衆らは皆、この幼い若君が刀の理だけでなく、削る理も知っていることを、もう十分に知った。


 その日の座は、日が暮れる前に終わった。


 起請文の草案が配られ、

 出仕の日が定められ、

 蔵の改めが命じられ、

 見張りの筋も引き直される。


 派手なことは何もない。

 だが、国はこういうことで決まるのだと、北里はしみじみ思った。


 人がはけたあと、仮座には惟豊、惟種、宗運、宗傳、北里、田代だけが残った。


 夕暮れの光が、城の柱へ斜めに差している。


 北里が言った。


「これで、ひとまずは縛れましょう」


「うむ」


 宗傳も頷いた。


「文が通り、蔵が押さえられれば、あとはだいぶ違います」


 田代宗傳はまだ多くを語らぬ。

 だが、帳面と人足と兵糧の動きを頭の中で組み始めている顔だった。


 惟豊が地図の端を指で押さえる。


「少弐は、まだ向こうにおる」


 誰もすぐには答えない。


 分かっていることだった。


 逃がした少弐冬尚は、なお肥前筋に名を残している。

 追えば次の戦にはなる。

 だが、追えばそれで終わるほど軽くもない。


 北里が低く言った。


「いまなら、勢いで押すことも」


「できよう」


 惟豊は遮るように言った。


「だが、せぬ」


 その一言で、座は静まった。


 惟種が父の言葉を受ける。


「いまは筑後を国に変える方が先だ」


 宗運がうなずく。


「はい。背を固めずに肥前まで踏み込めば、勝っても痩せます」


「大友もある」


 惟豊が言う。


「名和も、相良も、まだ見ておる」


 惟種は地図の上の線を見た。


 勝った。

 だが、勝ったからこそ、いまは止まるべきだった。


「少弐は逃がした」


 惟種が静かに言う。


「ならば、今は逃げた旗の先を見ておけばよい」


 北里が目を細める。


「追わぬので」


「見失いはせぬ」


 宗運が応じた。


「道、城、人、どこへ寄るかを見ておけば、次に打つ時はもっと深く打てます」


 惟豊は最後に言った。


「急ぐな。だが、緩むな」


「はっ」


 声が揃う。


 それで、その日の座は終わった。


 島津への礼は尽くした。

 筑後の国衆には新しい筋を見せた。

 少弐へは、まだ手を伸ばさぬと決めた。


 派手な勝ちの直後にしては、あまりに静かな一日である。

 だが、こういう静かな一日こそが、あとで国の形になるのだと、惟種は知っていた。


 柳川の外では、もう新しい見張りが立ち始めていた。

 蔵には新たな札が貼られ、

 起請文を書くための筆がすられている。


 戦は終わった。

 だが、勝ちが本当に勝ちになるかどうかは、これから決まる。


 夏の夕空は、まだ高かった。

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