第五十六話 柳川の明け渡し
天文十六年(一五四七年)七月。
筑後の城は、もうほとんどが下っていた。
蒲池鑑盛が討たれ、少弐冬尚が落ちてからというもの、戦は一気に勝ち負けを失った。勝ち負けはすでに決しており、残ったのは、どこまで意地を張り、どこで腹を決めるかという話だけであった。
国衆らは早かった。
まず使者をよこし、戦勝の祝いを述べる。
ついで起請文を差し出し、所領の安堵を願う。
なかには、自ら馬を飛ばして阿蘇の陣へ顔を出し、頭を下げる者まであった。
変わり身が早い、と言えばそれまでである。
だが惟種は、それを悪いとは思わなかった。
家を残す者は、そういう顔をする。
逆に、滅ぶ家ほど意地を見せたがる。
その日も、北里政久が上がってきた。
「若君」
「うむ」
「柳川以外は、おおむね片付きました」
惟種は頷いた。
驚きはない。
そのようになると読んでいた。
「城は」
「いくつかはこちらが兵を寄せたら城主が門前まで出てまいりました。こちらが兵を寄せる前に、向こうから使者を出したところもございます」
「国衆は」
「祝いと起請文で身の軽さを見せております」
北里の口ぶりには少しだけ苦みがあった。
戦の間は様子を見て、勝負がついた途端に最も早く頭を下げる。そういう者らを、武辺は好かぬ。
だが惟種は言った。
「よい」
北里が目を上げる。
「下るならよい」
「……は」
「いま要るのは、筋を通した忠ではない。国を荒らさぬことだ」
北里は小さく息を吐き、それから頷いた。
「たしかに」
宗運が、横から静かに言う。
「逆意のある者だけを見極めれば足ります。今は広く怖がらせるより、広く落ち着かせる方が先にございます」
「うむ」
惟豊も頷いた。
「来ぬ者を即座に潰すな。まず呼べ。出仕を求めよ。起請文を取れ。それでもなお逆う者だけを切ればよい」
「承りました」
北里は頭を下げた。
それで、筑後の大半は片がついた。
だが、一つだけ残っている。
柳川である。
水の城であった。
堀は深く、道は限られ、兵を寄せて一息に抜くには骨が折れる。しかも、ただの堅城というだけではない。蒲池の本拠であるということが、城をさらに重くしていた。
そこに、まだ一族の者らが籠もっていた。
老いた女もいる。
幼い者もいる。
武具を持てる男も、もう多くはない。
それでも、城門だけは閉じられていた。
惟豊は、しばらく黙って地図を見ていた。
「力攻めは」
宗運が答える。
「落とせぬことはございませぬ」
「だが」
「はい。落としても、残るものは恨みばかりにございます」
惟種もまた、黙って柳川の名を見ていた。
ここまで来て、城一つを意地で踏み潰すのは下策だった。
勝った勢いで押し潰すことはできる。だが、それをすれば筑後の者らは皆、阿蘇を“勝てば滅ぼす家”として覚える。
それは今後に響く。
惟種が言った。
「最後の勧告を出す」
宗運が頷く。
「条件は」
「命は取らぬ」
座の空気が静まる。
「男子は預かる。女子、老母は害さぬ。望むなら出家も許す」
北里が少しだけ顔を上げた。
「自由には」
「させぬ」
惟種は言い切った。
「家督も城地も召し上げる。蒲池の家はここで折る。だが、血までは絶やさぬ」
宗運が、その言葉の先を引き取る。
「城兵にも告げましょう。城を明け渡せば、いたずらに命を奪わぬと」
「うむ」
惟豊が低く言う。
「勝った家の度量を見せよ。だが、甘さとは違えるな」
それで使者が立った。
柳川へ向かったのは、言葉を荒げぬ者だった。
勝ち誇る顔をせず、だが曖昧にもせぬ者が選ばれた。
持たせた文は短い。
もはや勝負は尽きたこと。
柳川以外の諸城はすでに下ったこと。
ここでなお抗えば、城兵も民も余計に苦しむこと。
されど、いま門を開けば、蒲池一族の命は助けること。
家は折るが、血は絶やさぬこと。
その文を受けた柳川の内では、しばらく大きな音がなかったという。
兵が騒いだわけでもない。
泣き叫ぶ声が上がったわけでもない。
ただ、長く黙った。
もう抗いようがないことは、城内の誰もが知っていた。
それでも門を開けば、蒲池の世は終わる。
閉じたままでいれば、最後の面目は保てるかもしれぬ。
だが、その先には焼ける城と死ぬ者しかない。
その重さが、城の内いっぱいに沈んでいた。
返事が来たのは、翌日の夕刻であった。
「柳川、開きます」
北里がそう告げた時、座の中の誰も声を上げなかった。
驚きではない。
ようやくそこまで来た、という沈み方だった。
惟豊が短く言う。
「よい」
惟種はそれだけ聞いて立ち上がった。
「見にゆく」
「若君」
宗運が呼ぶ。
「わかっておる」
惟種は振り返らなかった。
「勝った顔はせぬ」
柳川は、静かな城であった。
明け渡しの日、堀の水は陽を受けて鈍く光り、櫓の上にも、門の脇にも、もう戦の気配は薄かった。兵はいる。だが戦うために立っているのではない。終わりを見届けるために立っている。
門が、重く開いた。
軋む音がした。
長く閉ざされていた木が、ようやく諦めたような音だった。
先に出てきたのは、城兵ではない。
年を取った女房たちであった。
それから幼い者。
顔を伏せた若い女たち。
ついで、ようやく男たちが出てくる。
刀はもう佩いていない。
持っていても柄を握ってはいない。
城を守る手ではなく、家の最後を受ける手であった。
北里が前に出て、短く告げた。
「約定の通り、命は取らぬ」
誰も答えない。
「男子は預かる。女子、老母は害せぬ。騒がぬ限り、無体も加えぬ」
それでも、まだ声はなかった。
やがて、その列の奥から、ひとりの老女が進み出た。
蒲池につらなる者であろう。顔には疲れがあった。だが、ただ怯えるだけの顔ではなかった。
「……まことに」
北里は正面から受けた。
「まことにございます」
「子らも」
「無益には傷つけませぬ」
老女は、しばし北里を見、それからさらに奥に立つ惟種の方へ視線を移した。
まだ幼い。
だが、この場の誰よりも静かな顔で立っている。
「若君」
「うむ」
「これで、蒲池は終わりにございますな」
惟種は少しだけ間を置いた。
「ここで終わるのは、城と家督だ」
老女の目が、わずかに動く。
「血までは終わらせぬ」
老女は何も言わなかった。
だが、そのまぶたが、ほんの少しだけ震えた。
惟種は続けた。
「恨みはあろう」
「……はい」
「それでも、生きよ」
風が、水面をわずかに揺らした。
「死ねば、そこで絶える。生きれば、先がある」
その言葉が慰めになったかどうかは分からない。
ただ、その場にいた者らは皆、それが勝者の気まぐれではなく、本気で言われたものだとは分かった。
柳川は、そうして明け渡された。
兵糧蔵が改められる。
武具が集められる。
帳面が出される。
鍵が渡される。
城番の顔が変わる。
城が落ちるとは、火が上がることではない。
こうして、一つひとつの手が替わることだった。
その様を見ながら、北里は低く言った。
「派手ではありませぬな」
惟種は頷いた。
「だからよい」
「はい」
「派手な終わりは、次の火種を残す」
北里が、わずかに口元を引いた。
「では、これは」
「国を静める終わりだ」
その日のうちに、蒲池の男子は別に分けて預かりとされた。
若い者には若い者の、幼い者には幼い者の置き場が決められる。
老母や女子には手荒なことをせず、身の回りを整えるための女房も付けられた。
望む者があれば出家は許す。
だが、それはあくまで願いとして聞くのであって、勝手に消えてよいという意味ではない。
家は折る。
だが、血は散らさぬ。
それが、この処置のすべてだった。
城が下りたあと、すぐに酒宴は開かれなかった。
祝いを望む声がなかったわけではない。
兵の中には、ようやく筑後が手に入ったという顔をする者もいた。
だが惟豊はそれを許さなかった。
「まだ早い」
そう言っただけで、誰も逆らわなかった。
柳川が下りたとはいえ、戦で死んだ者は多い。
蒲池にも、少弐にも、阿蘇にも。
城の内にも外にも、焼けた家もあれば、戻らぬ男を待つ家もある。
そうした中で勝ち鬨のような真似をすれば、せっかく収まった国もまた荒れる。
惟種は宗運へ言った。
「寺へ命じよ」
「は」
「死者を弔わせる」
宗運はうなずいた。
「施しも」
「うむ」
惟種は続けた。
「粥を炊かせ、米を分けよ。子と老いた者を先にせよ。寺の庭を開けさせ、怪我人も見させる」
「承りました」
北里が聞いていた。
「施餓鬼、にございますか」
惟種は少しだけ首を振った。
「それと呼んでもよい」
「はい」
「だが、前に出すのは弔いと施しだ」
宗運がその意味をすぐに受ける。
「阿蘇みずからが法会の主となるのではなく、寺へ命じて行わせます」
「うむ」
「死者を鎮め、生きた者を飢えさせぬ。それが先にございますな」
「そうだ」
寺の鐘が鳴ったのは、その二日後である。
柳川の内でも外でも、僧らが読経を上げた。
名の知れた武者のためだけではない。
名もなく死んだ足軽のためにも、巻き込まれた民のためにも、祈りの声が落ちた。
寺の庭では、大鍋が据えられた。
湯気が上がる。
粥が炊かれる。
米が分けられる。
痩せた子が椀を抱え、老婆が何度も頭を下げ、怪我をした男が布を替えてもらう。
泣く者もいた。
ただ黙って座り込む者もいた。
読経の声を聞いた途端に、その場で崩れるように泣き出す女もいた。
それを見ながら、惟種は長く黙っていた。
勝った、と思わぬわけではない。
ここまで来た、という手応えもある。
だが、こうして残った者の顔を見ていると、勝ちとは何だろうと、ふと足が止まる。
隣で宗運が低く言った。
「若君」
「うむ」
「これで、国の気は少し静まりましょう」
「そうあってほしい」
「はい」
しばらくして、惟種はぽつりと言った。
「勝つだけでは足りぬな」
宗運は答えない。
答えを求められたのではないと分かっているからだ。
「死んだ者のあとへ、生きる者を戻して、ようやく終わりだ」
宗運はその言葉を聞き、深くうなずいた。
「その通りにございます」
寺の前を、小さな子が粥の椀を抱えて走っていった。
転びそうになり、踏みとどまり、それから後ろを振り返って母を呼ぶ。
その声は、戦のあとにしては妙に明るかった。
惟種は、その声を聞いて少しだけ目を細めた。
柳川は下った。
蒲池の家は折れた。
だが、血は絶やさなかった。
死者は寺に弔わせ、生きる者には施しを渡した。
それで恨みが消えるわけではない。
失ったものが戻るわけでもない。
それでも、ここから先を治めるのなら、こうするしかないのだと惟種は思っていた。
国とは、城を取れば手に入るものではない。
門を開かせ、
刀を収めさせ、
泣く者を泣かせ、
飢えた者に椀を渡し、
それでもなお、明日も生きようと思わせて、初めて少しずつこちらへ寄ってくる。
柳川の水は、夕暮れの色を映していた。
もう城の上に蒲池の旗はない。
代わりに新たな番が立ち、蔵には新しい帳面が入り始めている。
勝ちを国へ変えるとは、こういうことなのだろう。
惟種はしばらくその水面を見ていたが、やがて踵を返した。
「戻るぞ」
「はっ」
北里が応じる。
宗運も従う。
寺ではまだ読経が続いていた。
鍋の湯気も上がっている。
泣き声も、すすり泣きも、幼い笑い声も、同じ夏の夕べの中に混じっていた。
筑後の戦は終わった。
だが、終わったということは、治める日々が始まるということでもあった。




