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第五話 宗運、若君の夢を量る

 **甲斐かい 宗運そううん**は、若君の病室を辞したあと、しばらく廊下を歩きながら黙っていた。


 館の空気は冷えていた。

 朝の光は差しているのに、どこか薄暗く感じるのは、やはりこの一か月のせいだろう。


 **阿蘇あそ 惟将これまさ**の死。

 その後の若君 阿蘇あそ 惟種これたね の病。


 家中の者は皆、表向きは平静を装っている。だが、装えているだけましな方だ。館の隅々には、いつ次の悪い報せが来るのかと怯える気配がまだ残っている。


 宗運は、そうした空気に慣れていた。


 主家が傾く時、最初に揺れるのは兵ではない。

 言葉だ。

 視線だ。

 沈黙だ。


 誰も口にしないうちから、国衆は利を量り始め、家臣は次の立ち位置を探り始める。

 それを押さえつけ、形だけでも家が揺れていないように見せるのが、いまの宗運の役目だった。


 だからこそ、若君の病は重かった。


 生き延びた。

 それは確かに良い。


 だが、問題はその先だ。


 病み上がりの若君は、昨夜から妙に落ち着いている。

 ただ落ち着いているだけではない。

 物の順を知っている。

 いま何を語るべきか、何を伏せるべきかを知っているような話し方をする。


 それが、宗運にはいまだに不気味だった。


 夢を見た、と若君は言った。

 火の山が鳴り、田が枯れ、人が飢え、鉄が火を噴く夢。


 馬鹿げた話だ。

 馬鹿げているはずなのだ。


 だが、その夢の中身は馬鹿げていなかった。


 水を見直す。

 種を選る。

 草を敵として扱う。

 山の草を田の力へ変える。

 御料でまず小さく試す。

 市は役を軽くして人を寄せる。


 どれも、聞いた瞬間に「使えるやもしれぬ」と思わせる程度には現実味がある。

 そこが厄介だった。


「宗運様」


 廊下の先から、若い近習が頭を下げた。

 宗運は歩みを止めずに問う。


「何だ」


御屋形様おやかたさまより、昼の前に一度お顔をと」


「分かった。後ほど参る」


 近習が下がる。


 阿蘇あそ 惟豊これとよ にも、いずれは話を通さねばならない。

 だが、まだ早い。

 若君の夢をそのまま上げる気はない。まずは使える形に削り、名目を整え、小さく動かし、手応えを得てからだ。


 そこまで考えた時、宗運は廊下の角で足を止めた。


 目を閉じる。


 若君は言った。

 「全部を鵜呑みにする家臣など、かえって恐ろしい」

 と。


 あれは、どこで覚えた言い回しだ。


 幼子が、重臣へ向けて言うには妙にすわりがよすぎる。

 機嫌で物を言っているのではない。こちらの立場を分かったうえで、役目を投げてきている。


 宗運は、口の端をわずかに上げた。


 厄介だ。

 だが、悪くない。


 悪くない、と思ってしまった時点で、自分もだいぶあの若君に巻き込まれているのだろう。


 宗運は歩みを変え、館の奥ではなく、実務の者が控える小部屋へ向かった。


 戸を開けると、文机の前に二人の家臣がいた。ひとりは井手や田地に詳しい中年の男、もうひとりは村役人との折衝に強い小柄な男だ。どちらも口が軽くなく、手も動く。


「宗運様」


「少し話がある」


 二人が姿勢を正す。


 宗運は、いきなり若君の話を持ち出さなかった。

 そういうところから崩れる。話はいつも、もっともらしい顔をして始めるのがよい。


「若君ご快復の祈願も兼ね、御料の田を少し見直す」


 中年の男が目を上げた。


「田を、でございますか」


「うむ。水の偏りがあるやもしれぬ。まずは阿蘇谷あそだにの御料から、様子を見たい」


「どのあたりを」


「それをおぬしに選ばせる」


 男は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。


「承知いたしました。水の出入りが偏る田は、たしかにございます」


 宗運はそこで心の中で小さく唸った。

 やはりあるのだ。若君の言葉が正しいかどうかの前に、現場に心当たりがあるなら、試す理由は十分に立つ。


「それと」


 宗運は続けた。


「今季の種を選る。よく実ったものと、そうでないものを分けよ」


 もうひとりの男が、少しだけ眉をひそめた。


「それは百姓どもも、それなりにはやっておりましょう」


「それなり、では足りぬ」


 宗運は平然と言った。


「よく実ったものだけを、意識して集める。手間は増えるが、その分を見ろ」


 男は口をつぐんだ。

 否と言い切るほどではない。だが、面倒な仕事が増える顔だ。


 宗運はそういう顔を何度も見てきた。

 手間のかかることを嫌がるのは当然だ。だからこそ、最初から広げぬ。


「御料だけでよい。まずは見本を作る」


 そう言えば、二人ともそれ以上は言わなかった。


 見本。

 そこが大事なのだ。


 百姓は理屈では動かぬ。

 損得で動く。

 そして、隣村が得をしたと見れば急に賢くなる。


 それを若君は分かっていた。

 それもまた、宗運には薄気味悪く、同時に頼もしかった。


 田の話を片付けたあと、宗運は別の者を呼ばせた。


 門前の揉め事を収めるのがうまい男。

 寺社や商人との折衝に顔の利く者。

 こういうことは、槍の強い男より口の堅い男の方が役に立つ。


「門前市のことだが」


 呼ばれた男は一礼した。


「はい」


「今まで通りでは、人が寄らぬ」


「それは……確かに」


「荒事を禁じる。見張りを増やす。加えて、役をひとつだけ軽くする」


 男が目を上げる。


「どの役を」


「まずは入りの荷にかかるものを軽くせよ。全部ではない。様子を見るだけだ」


 男は少し考え込み、やがて答えた。


「それなら、来る商人には分かりやすうございますな」


「だろう」


「ただ、門前の者どもは喜ぶでしょうが、これまでの取り分を減らされると不満も出ます」


 宗運は、そこも想定内だった。


「だからひとつだけだ。全部を減らすわけではない。まずは“少し違う”と思わせればよい」


 男は納得したように頭を下げた。


 市の手入れは、田ほど時間はかからない。

 だが、早く動くぶん、早く揉める。

 だから大きくやらない。小さく、しかし分かるように変える。


 若君は田だけでは遅いと言った。

 その通りだ。

 宗運自身もそう思う。


 五年で何かを変えるなら、土から芽が出るのを待つだけでは足りぬ。人の出入りも、銭の流れも、同時に触らねばならない。


 部屋を出たところで、宗運はふと足を止めた。


 やはり、あの若君はただの夢見ではない。


 だが、それでもまだ、全部を信じる気にはなれなかった。


 宗運は夢を信じない。

 神託をありがたがるだけなら、山伏でも巫者でも足りる。

 自分の役目は、夢を現へ削ることだ。


 そう考える男にとって、若君の言葉はちょうどよかった。

 信じよと言わぬ。試せと言う。

 失敗したら捨てよと言う。


 その物言いが、宗運の腹に落ちる。


 腹に落ちるからこそ危うい。


 もしこれで、田が少しでも違えば。

 もし門前に、ほんの少しでも商人が増えれば。


 家中の見る目は変わる。


 病み上がりの若君が、ただ生き残っただけではない。何かを持ち帰った、と皆が思い始める。


 それは諸刃だ。


 上手く使えば、阿蘇家の柱になる。

 使い損ねれば、家中の噂と疑心を招く。


 宗運はそこまで考えて、静かに息を吐いた。


 ならば、なおさら自分が手綱を握らねばならぬ。


 若君が見る夢を、そのまま広げてはならない。

 田は御料だけ。

 市は門前だけ。

 他はまだ伏せる。


 順に。

 小さく。

 だが確かに。


 廊下の先に、若い侍が控えていた。


「宗運様、御屋形様がお待ちにございます」


 宗運は頷いた。


「今、参る」


 惟豊へは、若君が快方に向かっていること、少し落ち着いたこと、御料の田を快癒祈願で見直すこと、それだけを告げればよい。

 夢のことはまだ要らぬ。

 市のことも、せいぜい門前の秩序を整える話として出す程度でいい。


 主へ報せる言葉を胸の中で並べながら、宗運は歩く。


 その途中で、ふと昨夜の若君の顔が浮かんだ。


 熱に浮かされた幼子の顔ではなかった。

 もっと遠くを見ていた。

 肥後の外、西の外、そのまた先へ、いつか手を伸ばすつもりの目だった。


 馬鹿げている。

 いまの阿蘇に、そんな余裕はない。


 けれど宗運は、完全には笑い飛ばせなかった。


 まずは阿蘇を守る。

 次に肥後をまとめる。

 その先は、敵の大きさで決まる。


 若君はそう言った。

 そして宗運は、その言葉を思い出すたびに、自分の胸のどこかが熱を持つのを感じていた。


「……さて」


 小さく呟く。


「田が実れば、次は市か」


 その次は何だ。

 兵か。

 病か。

 それとも、もっと厄介な何かか。


 宗運はまだ知らない。

 だが、少なくとも一つだけは分かっていた。


 あの若君は、生き残っただけでは終わらない。

 周りも巻き込み、国そのものを少しずつ動かしてゆく。


 ならば自分は、その夢がただの妄言で終わるか、それとも阿蘇の礎になるかを見届けねばならぬ。


 宗運は背を伸ばし、主の待つ部屋へ向かった。


 仕事は増えた。

 だが、不思議と足取りは重くなかった。

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