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火の山の若君は、未来を夢に見る ~阿蘇家嫡流の若君、名臣甲斐宗運と乱世を切り拓く~  作者: アトラス


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第四十八話 老将の遺命

 天文十五年(1546年)十二月。


 冬の冷えは、老いた身にはことさらに深く沁みる。


 龍造寺家兼の居所は、阿蘇の館の奥まった一間に移されていた。火桶は二つ、夜具は幾重にも重ねられ、障子の隙には布まで当てられている。だが、それでも老将の指先からは、もう十分な熱が失われていた。


 本来なら、春を越えるはずではなかった命である。

 されど戦が起こり、家が揺らぎ、龍造寺の行く末が定まらぬままでは、どうにも死に切れなかった。


 その日、枕元には龍造寺の主だった者たちがほぼすべて揃っていた。


 龍造寺家宗。

 鍋島清房。

 石井兼清。

 小河信安。

 納富信景。

 福地信重。

 百武賢兼。


 さらに少し下がったところに、若い鍋島孫四郎と、同じく隆信が控えている。


 阿蘇側からは、惟豊、宗運、そして惟種。


 部屋には人が多い。だが誰一人、余計な音を立てぬ。火桶の炭がかすかに鳴り、家兼の細い呼吸だけが、静かな一間の中をゆっくりと往き来していた。


 やがて家兼は、ゆっくりと目を開いた。


 九十二まで生きた者の目である。

 それでもなお濁りきってはおらず、人を量る光が、細く奥に残っていた。


「……皆、揃うたか」


 家宗が深く頭を下げる。


「揃うております」


 家兼は、ひとりひとりの顔を確かめるように視線を動かした。家宗、清房、石井、小河、納富、福地、百武。孫四郎、隆信。最後に惟豊、宗運、惟種。


 そこでようやく、老将の口元がわずかに和らいだ。


「そうか」


 短い一言であった。

 だが、待っていたのはこの時であったことが、その声だけで知れた。


 しばし沈黙が落ちる。


 最初に口を開いたのは惟豊だった。


「家兼殿、無理に言葉を重ねられずともよい」


 家兼は、かすかに首を振った。


「いや……今、申さねばなりませぬ」


 細い声だった。

 それでも誰も、止めようとはしなかった。


「わしは本来、春に尽きるはずでござった・・・それを何となくだが感じていた・・・」


 家宗が俯く。

 清房は目を閉じたまま聞いている。

 石井も、小河も、納富も、福地も、百武も、膝の上に置いた手を動かさぬ。


「されど、家の行く末が見えぬままでは、どうしても目を閉じられなんだ」


 老将はそう言ってから、惟種へ視線を向けた。


「若君」


「うむ」


 惟種は枕元へ少し進み出る。


「敵と味方に分かれて、槍を向け合いはした」


 家兼が言う。


「されど、いまはわかる」


 そこで一度、呼吸が浅く途切れた。

 だが、老将はなお言葉を手放さない。


「阿蘇なら託せる…そう思うております。直感、いや繫栄を見せられたからかのぉ…」


 部屋の空気が、そこで変わった。


「任せられる」


 家宗が顔を上げた。

 清房も目を開き、百武でさえ、その言葉には口を挟まぬ。


「それは、若君がおるからじゃ…」


 惟種は何も言わない。

 ただまっすぐに、その言葉を受けていた。


 家兼は、そこでほんの僅かに頭を動かした。老いた身では、それだけで十分な礼であった。


「ぶしつけなお願いでございます」


 宗運の眉が、ごくわずかに寄る。

 老将が若君へ頭を下げる。その重みを、部屋にいる誰もが知っていた。


「どうか、龍造寺……そして、それにつらなる家臣をお願い致します」


 静まり返った。


 家宗の肩が震えた。

 清房は額を畳へつける。

 石井、小河、納富、福地、百武もまた、それぞれに背を強ばらせている。


 惟種は老将を見返した。


「預かる」


 短く言った。


「ただ預かるだけではない」


 その一言で、部屋の中の空気がさらに張る。


「龍造寺は潰さぬ」


 惟種の声は低く、はっきりしていた。


「名だけ残して朽たびれさせるつもりもない。必ずや、龍造寺の家を立て直す」


 家宗が息を呑む。

 清房も、初めて顔を上げた。


「いまは阿蘇の内にあって力を蓄えよ。役を負い、功を立てよ。そのうえで、時が熟せば、龍造寺を龍造寺としてきちんと復させる」


 惟種は言い切った。


「必ずや、お家再興を果たして見せる」


 家兼の目に、かすかな光が戻った。


「……ありがたい」


 それは敗れた将の安堵ではなかった。

 家を次へ送る者の安堵だった。


 家兼は今度、家宗へ顔を向けた。


「家宗」


「はっ」


「旗を絶やすな」


「……はっ」


「清房」


「は」


「先を見よ。家を立てるとは、昔へ戻ることではない」


「肝に銘じます」


「石井」


「は」


「武で恥じるな」


「はっ」


「小河、納富、福地」


「はっ」


「列を崩すな。名を軽くするな」


 三人は揃って頭を垂れた。


「百武」


「……は」


「怒りを抱えるはよい。されど、その怒りを若君へ向けるな」


 百武賢兼は、そこで初めてはっきりと膝を折った。


「……承る」


 家兼の視線は、さらに少し下がったところへ移る。


「孫四郎」


「はい」


「若君のそばで、よう見よ」


「はい」


「隆信」


 若い隆信が顔を上げる。


「は」


「若さは刃じゃ。振り回せば、まず己を傷つける」


 隆信は何も答えなかった。

 だがその目だけは、老将の言葉を逃すまいとしていた。


「よく見よ。よく耐えよ」


 家兼はそう言い残し、長く息を吐いた。


 もう残る言葉は多くない。

 そのことを、本人が一番よく知っていた。


 だからこそ、最後の下知だけは、皆の前で明らかにせねばならぬ。


「家宗」


「は」


「清房」


「は」


「石井、小河、納富、福地、百武……」


 名を呼ばれた者たちが、さらに身を低くする。


「わしからの最後の下知じゃ」


 部屋の空気がぴんと張った。


「若君を、未来永劫支えよ」


 家宗の喉が鳴った。

 清房は額を畳へつけた。

 石井、小河、納富、福地も、深く頭を垂れる。

 百武は拳を握りしめたまま、それでも頭を下げた。

 孫四郎も隆信も、その若い身でその言葉を受けている。


「その先に、われらの未来がある…。じゃが残念なのは…龍造寺と阿蘇の見れぬことか…」


 その言葉を最後に、家兼はゆっくりと目を閉じた。

 

 誰も、すぐには動かなかった。


 火桶の中で、炭が小さく鳴る。

 外では風が、冬の木々を揺らしている。


 宗運は深く頭を垂れた。

 惟豊もまた、静かに目を閉じる。

 惟種は老将の枕元に座したまま、しばし動かなかった。


 龍造寺は、ただ阿蘇へ明け渡されたのではない。

 若君へ託されたのだ。

 その重さが、部屋の中にはまだ残っていた。


 やがて家宗が、最初に頭を上げた。


「……承りました」


 それは、すでに動かぬ老将に向けた言葉であり、自らへ刻む言葉でもあった。


 清房も続く。


「若君のもとにて、先を見ます」


 石井が太い声で応じる。


「龍造寺の名、軽くいたしませぬ」


 小河、納富、福地もそれに倣う。

 百武は最後に、苦く、だがはっきりと言った。


「家兼様の最後の下知、違えませぬ」


 隆信はその時だけ、ほんの僅かに惟種を見た。

 頭は下げている。だが、胸の内まで従い切っているわけではない。惟種もまた、それには気づいた。

 ただ、この場で何も言う気はなかった。


 その夜のうちに、家兼は静かに送られた。


 龍造寺家兼。

 享年九十二。


 本来ならば天文十五年四月に尽きるはずであった命は、家の行く末を見届ける気力によって、冬まで繋がれていた。


 そして老将は、龍造寺の未来を若君へ託し、その役目を終えた。


 喪が明けきらぬうちに、惟豊は小さな座を開いた。


 大評定ほどではない。

 だが、この後の龍造寺をどう置くかを定めるには十分な重さを持つ座だった。


 惟豊の前に、家宗、清房、石井、小河、納富、福地、百武らが並ぶ。惟種と宗運もまた、同席していた。


 惟豊は短く告げた。


「家兼殿の遺命に従い、家宗が当面、龍造寺家を預かる」


 家宗が深く頭を下げる。


「承る」


「ただし、昔日のままの龍造寺ではない」


 惟豊の声は低い。


「阿蘇預かりの家として立て。名は残す。だが、勝手はさせぬ」


「は」


 惟豊は次に清房を見る。


「清房」


「は」


「そなたは宗運のもとで、さらに実務へ入れ」


「承る」


 それはもはや、名目以上に重い役目だった。

 龍造寺衆の筆頭格でありながら、阿蘇の実務の芯へ踏み込む。家兼の遺命があるからこそ、誰もそれを軽んじることはできない。


 そこで惟種が口を開いた。


「ここから先は、さらに形を変える」


 龍造寺衆の視線が集まる。


「阿蘇と旧龍造寺で、徒党を組むことを許さぬ」


 百武がわずかに眉を動かした。

 石井も、小河も、清房でさえ、その先を待つ。


「いまよりお前たちは、皆、阿蘇の役目を負う者だ」


 惟種の声は静かだった。


「動く時は、阿蘇と龍造寺を混ぜて動け。役目は家でなく働きで与える。功は見ぬふりせぬ。だが、家の名だけで上にも下にも置かぬ」


 宗運が、その横で補う。


「派閥は作らせませぬ」


「同列に扱う」


 惟種が続ける。


「成果で見る」


 その言葉は、阿蘇側にも龍造寺側にも、等しく重かった。


 惟種は具体の名を挙げた。


「甲斐宗運」


「は」


「鍋島清房」


「は」


「お前たちは組め。筆頭は宗運、補助に清房。だが、働きは別々に見る」


 二人が頭を下げる。


「高森惟房」


「はっ」


「石井兼清」


「は」


「お前たちも組め。若さと武をぶつけるな。合わせろ」


「承知」


「北里政久」


「はっ」


「小河信安」


「は」


「お前たちもだ」


 北里はにやりとし、小河は慎重に頭を下げた。


「阿蘇の者には龍造寺を覚えさせ、龍造寺の者には阿蘇を覚えさせる」


 惟種は言う。


「どちらかに寄れば、家はまた割れる。ならば最初から割れぬようにする」


 宗運が頷いた。


「功は組で立てよ。だが、評価は別に行う。寄りかかった者は、その分だけ下がると思え」


 清房が、そこで初めて小さく息を吐いた。


「厳しいですな」


「そうか」


 惟種が返す。


「甘くしたら、龍造寺は阿蘇の内で眠る。わしはそれを望まぬ」


 家宗が顔を上げる。


 惟種は、その視線を受けて言った。


「龍造寺は、阿蘇の蔭で朽ちるために抱えたのではない」


 部屋が静まり返る。


「再び立つために抱えた」


 家宗の胸が、わずかに上下した。


「いまは阿蘇の内で働け。働いて力を蓄えよ。名を上げよ。そうして龍造寺を、きちんと龍造寺として復させる」


 清房の目が細くなる。

 石井も、小河も、納富も、福地も、その言葉を逃すまいとしていた。

 百武でさえ、眉間の皺を少しだけ緩める。


「そのために混ぜる」


 惟種は言った。


「阿蘇の理を覚えよ。阿蘇の者には龍造寺の強みを覚えさせる。混ぜ、競わせ、功で立たせる。そのうえで、龍造寺は復させる」


「家兼殿の死を、ただの終わりにする気はない」


 家宗は、そこで深く頭を下げた。


「若君」


「何だ」


「今は、阿蘇の内にて働きます」


 家宗の声は静かだった。


「されど、その先に龍造寺を立て直す道を、どうか違えぬよう」


「違えぬ」


 惟種は言い切った。


「家兼殿に約した」


 それで十分だった。


 清房もまた、続いて頭を下げる。


「鍋島も、働きにてお応え致します」


 石井が重く言う。


「武で返します」


 小河、納富、福地もそれに続く。

 百武はしばし黙ったのち、ようやく低く言った。


「……ならば、その日まで恥じぬ働きを致しましょう」


 そこまで聞いて、惟種はようやくうなずいた。


 隆信だけは、少し離れたところからその一切を見ていた。


 若君の理は分かる。

 家兼が託した理由も分かる。

 だが、それで胸の奥まで静まるほど、まだ若くはなかった。


 惟種はその視線を感じながらも、見ぬふりをした。

 いまここで抑えつけるべきではない。

 火は、消し潰すより、燃える場を見て使う方がよいこともある。


 座が終わり、人が散り始める。


 宗運が低く言った。


「これで、龍造寺はようやく阿蘇の内へ入りますな」


「うむ」


 惟種は短く答えた。


「だが、入れて終わりではない」


「はい」


「立て直してこそ意味がある」


 宗運は小さくうなずいた。


 老将は逝った。

 だが、その死は龍造寺を潰したのではない。

 阿蘇の内で、新しい龍造寺を始めさせたのだ。


 冬の風は冷たい。

 けれど館の内では、もう次の形が動き始めていた。

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