第四十九話 冬の密談
天文十六年(一五四七年)正月の末。
冬の山は、音を呑む。
葉を落とした木々の間を風が抜けても、夏のような騒がしさにはならない。ただ乾いた枝がかすかに鳴り、その下を通る馬の蹄だけが、固く締まった土を叩いていた。
その山中の館は、表向きには狩のための仮宿とされていた。
だが、今宵そこへ入る者たちの顔ぶれを見れば、誰もそれを本気にはしなかった。
先に着いていたのは蒲池の一行である。
蒲池当主は、火桶の近い上手へ座していた。館の主ではない。だが、この場を設けたのが自分である以上、ただ待たされる客でいるつもりもなかった。後ろには原野恵俊が控え、そのさらに外では供の者たちが低い声で行き来している。
やがて到着が告げられた。
「相良殿、御着にございます」
蒲池当主は、わずかに眉を動かした。
使者ではない。相良晴広その人が来た。
相良晴広は、やわらかな顔立ちの奥に、人の腹を量る冷たさを隠した男だった。相良家十七代の当主。だがこの家は、当主ひとりの気分で動く家ではない。その背には一門と老臣の重みがあり、座の上の一言にも、常にその影がついてまわる。
その少し後ろには、上村頼興が控えていた。晴広の実父であり、家中でもっとも重い一門衆のひとりである。宗家へ子を入れ、その後も相良の奥に強く手を伸ばし続けてきた男だった。
礼が交わされる。
晴広は座へ着いても、すぐには口を開かなかった。
やがて、もう一つ到着が告げられる。
「名和殿、御着にございます」
入ってきたのは名和行興だった。
まだ若い。だが若いだけにも見えなかった。先年、父武顕を失い、宇土の名和を継いだばかりの当主である。喪を脱ぎ切らぬ家を背負う者の慎みが、その顔にはあった。
その脇には、内河義則が控えていた。代々名和の奥で家政を支えてきた家の者という体で、若い当主が軽々しく座を誤らぬよう、常に目を光らせる役でもある。派手さはない。だが、こうした場にこそ外せぬ顔だった。
相良と名和が揃い、ようやく座は閉じた。
火桶の炭が、静かに赤く息づいている。
最初に口を開いたのは、蒲池当主だった。
「此度は、よう来られた」
相良晴広が薄く笑う。
「来ねば済まぬ気配でござったゆえ」
穏やかな言い方だった。
だが、それだけで十分に刺があった。
名和行興は、その横で静かに頭を下げる。
「蒲池殿」
「うむ」
「急ぎの御用と聞きました」
「急ぎだ」
蒲池当主は言い切った。
「急ぎでなければ、こんな雪の残る時に人を呼ばぬ」
そこまでは、誰も異を唱えない。
異が出るのは、その先だった。
「阿蘇を、このまま太らせてはならぬ」
火桶の炭が、そこで小さく弾けた。
相良晴広は眉ひとつ動かさない。
名和行興は視線を伏せたまま、ただ聞いている。
蒲池当主は続けた。
「龍造寺を抱えた。軽税で民を吸う。市を膨らませ、鍛冶も飴も玻璃も銭を呼ぶ。そのうえ南と縁を結び、島津の姫まで入れた」
言葉を重ねるほど、声の底に熱が増していく。
「あれはもう、ただの阿蘇ではありませぬ」
そこで原野恵俊が、一歩だけ前へ出た。
「相良殿、名和殿にも、もう見えておりましょう」
相良晴広がそこで初めて口を開く。
「何が」
「阿蘇の膨らみです」
原野は平らに答えた。
「このまま一夏を越えれば、境目の村も、人も、銭も、さらに吸われましょう。今は流民だけで済んでおっても、そのうちこちらの地そのものが細る」
名和行興の目が、ほんのわずかに上がる。
流民。
そこだけは、否定しにくかった。
実際、田の荒れた者、雑多な取り立てに堪えかねた者、食えぬ者、荷運びと市を目当てに動く者――そうした流れが阿蘇へ向いていることは、もう隠しきれぬ。相良も、名和も、その痛みを知らぬではなかった。
だが晴広が返したのは、そこではない。
「それで」
穏やかなまま言う。
「蒲池殿は、何をお望みか」
蒲池当主は、その問いを待っていたかのように答えた。
「心を一つにすることだ」
「心を」
「阿蘇を抑える」
やはりそこへ来る。
これは大友・蒲池・相良・名和による阿蘇包囲網を意味していた。
「別々に当たれば、いずれ呑まれる。今のうちに、膨らみを止めねばなりませぬ」
名和行興が、そこでようやく低く言った。
「止める、と仰せられるが」
「うむ」
「それは、どこまでのことにございますか」
蒲池当主は、行興をまっすぐ見た。
「境目を締める。流れを止める。阿蘇がこれ以上、周辺を呑み込めぬようにする」
原野がそこで言葉を継いだ。
「必要とあらば、兵もございます」
その一言で、座の空気がひとつ冷えた。
晴広は、ようやく口元の笑みを消した。
「兵、か」
「はい」
「それは」
晴広は指先で膝を軽く叩いた。
「大友が本当に動くという算段があってのことか」
今度は、蒲池当主の側が黙る番だった。
わずかの間を置いてから、原野が懐から文を取り出した。
「そのために、此度はこれをお持ちした」
文は丁重に折られている。
ただの私信ではないと、見ただけで分かる。
「豊後筋よりの内意にございます」
相良晴広はすぐには手を出さない。
「内意」
「はい」
「義鑑公みずからの御返書か」
原野は、そこでほんのわずかに言葉を選んだ。
「少なくとも、大友家中より参ったものにございます。肥後の乱れを見過ごさぬ、という意は明らかにございましょう」
「花押は」
晴広の問いは静かだった。
「大友の筋と見てよいものにございます」
それだけで十分だった。
すなわち――はっきりとは書いていない。
晴広はようやく文を受け取ったが、すぐには開かなかった。先に名和行興へ目を向ける。
「名和殿は、どう見られる」
行興はしばらく黙った。
まだ若い。だが、軽く答えてよい問いでないことはよく分かっていた。
「阿蘇のことが、重うなっているのは事実にございます」
それは認める。
「流民が出ておることも、また事実」
これも認める。
「されど」
行興は火桶の方へ一度視線を落とした。
「当家は、まだ先代の喪のうちにございます。家中も、すべてが定まり切ったとは申せませぬ。そのような折に、曖昧な後ろ手だけで兵を動かすのは、軽うございましょう」
原野の眉がわずかに寄る。
蒲池当主は、それを露骨に不満と見せた。
「曖昧、と申されるか」
「申します」
名和行興は顔を上げた。
「大友が動く“かもしれぬ”と、“必ず動く”は違います」
座の中で、その一言は思いのほかよく響いた。
相良晴広が、そこで初めて文を開く。
火桶の明かりでは足りず、近くの灯が一つ寄せられた。
晴広は文を読み、二度目はもっと早く目を走らせ、それから元の形に折り直した。
「なるほど」
その一言には、感心も安堵もなかった。
「何とございますか」
蒲池当主が問う。
晴広は、あえてすぐには答えない。
「肥後の秩序を乱すことあらば、見過ごさぬ」
「然るべき働きあらば、然るべき沙汰もある」
「心を合わせる者あらば、豊後としても取り計らいやすい」
そこまで言って、晴広は文を膝へ置いた。
「よい文にございますな」
原野の顔がわずかに明るむ。
だが次の言葉で、その色はすぐに消えた。
「ただし、兵をいつ、どれほど、誰が出すとは、一つも書いておらぬ」
蒲池当主の口元がこわばる。
晴広は文を名和行興へ渡した。
「名和殿も見られるがよい」
行興は受け取り、黙って読む。
若い目は、先ほどよりも長くそこへ留まった。
やがて彼もまた、文を丁寧に畳んだ。
「……たしかに」
「であろう」
晴広が言う。
「これは、蒲池殿には頼もしゅう見えよう。だが、我らから見れば、先にこちらが腹を見せよ、と申しておるようにも見える」
原野が低く言う。
「深読みでは」
「浅う読んで家を潰すよりはましだ」
晴広の返しは穏やかだった。
だが、もうそこには笑みがなかった。
「阿蘇は阿蘇で、島津を後ろに置いた」
その一言で、場の重さがまた変わる。
「いま下手に兵を動かせば、相良も名和も、南と東に刃を向けられる形になる」
誰も、即座には否定しない。
それが現実だった。
阿蘇だけでも厄介である。
そこへ島津との縁が乗った。
まだ婚姻そのものが実を結んだわけではない。だが、姫が阿蘇へ入り、両家の糸が通った以上、周辺から見ればそれで十分に重い。
「ゆえに」
晴広は言う。
「大友が本当に動く保証が要る」
名和行興も、それに続いた。
「はい」
「流民のことは、当家にとっても放ってはおけませぬ。だが、それと総がかりは別でございましょう」
蒲池当主は、ここでようやく苛立ちを隠さなくなった。
「では、両家はこのまま阿蘇へ吸われ続けるおつもりか」
名和行興は答えない。
相良晴広が代わりに言った。
「吸われぬために、考えておるのです」
「考えている間に夏が来る!」
蒲池当主の声が、初めてはっきり熱を帯びた。
「阿蘇は止まらぬ。龍造寺を抱え、南と結び、今もなお人を吸う。いま刃を揃えねば、夏にはもっと重くなる!」
原野が静かにその横を補う。
「ゆえに、春のうちに腹を定めたい」
晴広は、その言葉を受けてもなお落ち着いていた。
「腹を定めるに足る証が、まだ薄い」
名和行興も続ける。
「当家も、同じ思いにございます」
蒲池当主は二人を見た。
片方は温い顔で逃げる。
片方は若いが、軽くは乗らぬ。
苛立ちは募る。
だが、この場で怒鳴り散らしても兵は一人も増えぬことも分かっていた。
ゆえに、彼は怒りを呑んだ。
「……よろしい」
低く言う。
「ならば、持ち帰られよ」
晴広も、行興も黙って聞く。
「だが時間はありませぬ」
今度の声は、先ほどより低い分だけ、かえって急き立てる響きがあった。
「三月までには、お返事をいただきたい」
火桶の炭が、また小さく鳴った。
相良晴広は、すぐにはうなずかなかった。
名和行興も同じだった。
ただ、どちらも否とは言わない。
流民が出ているのは事実である。
阿蘇が膨らんでいるのも事実である。
そして、その阿蘇の後ろに、いまや島津の影が差しているのもまた、事実だった。
その夜の座で、誓紙は交わされなかった。
盃も重ねられない。
だが、何も決まらなかったわけでもない。
阿蘇をこのまま見てよいとは、誰も思っていない。
ただ、その阿蘇へ本当に手を伸ばすだけの後ろ盾があるのか、それだけがまだ定まっていなかった。
座が解かれる。
外へ出れば、山の夜気はいっそう冷たかった。
蒲池の一行が先に奥へ下がり、相良と名和の一行はそれぞれ別の仮間へ通される手はずとなっていた。だが、廊の曲がり角で、相良晴広が立ち止まった。
「名和殿」
行興も足を止める。
「少し、よろしいか」
それは表の声ではなかった。
行興はうなずく。
伴うのは、上村頼興と内河義則のみ。
供の者は、さらに一つ外へ下がらせた。
小さな控えの間には、火桶が一つあるだけだった。
灯は低く、壁際の影が濃い。
最初に口を開いたのは、上村頼興だった。
「若殿」
その呼び方は行興へ向けたものではない。
晴広へ向けたものでもあった。
父であり、一門の重しである男が、まず家中の口を開く。
「蒲池は焦っておりますな」
「うむ」
晴広は短く答えた。
「面目を失い、約まで呑まされた。しかも阿蘇はなお太る。焦らぬ方がおかしい」
内河義則が、静かに言った。
「焦るのはようございます」
その声音には、皮肉も混じっていた。
「ただ、焦る者の言葉にそのまま乗れば、まず矢面に立つのは弱い方にございます」
行興が、わずかに目を伏せる。
名和は、まさにその“弱い方”に近い。
少なくとも、今はそう見られやすい。
晴広は火桶の炭を見ながら言った。
「大友の文は、薄い」
「はい」
頼興が答える。
「後ろに立つ気配は見せております。されど、自ら泥をかぶる気はまだ見えませぬ」
内河義則も続けた。
「阿蘇が先に事を起こした、と言える形でもなければ、豊後は本気では動きませぬでしょう」
行興が、そこでようやく口を開いた。
「阿蘇は、まだ理を失っておりませぬ」
その言葉には若さよりも重さがあった。
「売られた喧嘩を買うておるだけに見える。しかも勝った後も、潰すより鎮める方へ寄せておる」
晴広はうなずいた。
「それが厄介なのだ」
「はい」
「強いだけなら恐れぬ。理まで持っておるから困る」
しばし、火の鳴る音だけがあった。
頼興が低く言う。
「阿蘇を敵に回すとしても、今ではありませぬな」
「今ではない」
晴広は言った。
「南に島津がおる。東に阿蘇がおる。その間で半端に動けば、相良も名和も挟まれる」
内河義則が、そこで行興へ目を向けた。
「殿」
「何だ」
「蒲池に乗れば、まず荒れるのは当家の境目にございます」
行興は黙って聞いている。
「しかも大友は、まだ文の外におる。これでは賭けが重すぎます」
「では阿蘇か」
晴広が問うた。
義則は、少しだけ間を置いた。
「家を残すだけなら、その方が理には適いましょう」
その場の空気が、そこで一段深く沈む。
行興は、その言葉を否定しなかった。
「……わしも」
若い当主は、火桶の赤を見たまま言った。
「同じことを思わぬではない」
頼興が静かに目を細める。
晴広は言葉を急がせない。
「阿蘇へ寄るか」
「いずれは」
行興は答えた。
「もはや、抗うて痩せるより、寄って生きる方がましではないかと」
それは弱音ではなかった。
家を持つ者の、あまりに現実的な言葉だった。
「流れる民を止められぬなら、せめてその理を知りたい。なぜ阿蘇へ人が寄るのか。なぜ田が戻るのか。どうして市が太るのか」
内河義則がその横で、主君の言葉を受ける。
「敵として覗いても、見えるものには限りがございましょう。寄るなら寄るで、早い方がまだ得もあるかと」
晴広は、そこで初めてはっきりと笑みを消した。
「名和は、そこまで考えておるか」
「家が細るのを、ただ見ておるわけにも参りませぬ」
行興は答えた。
「いまはまだ、口には出せませぬが」
「それでよい」
頼興が言った。
「いまここで口にすれば、蒲池は明日にも阿蘇へ走る」
晴広が、そこでようやく顔を上げた。
「当家は、家中と相談して決める」
それは行興へ向けた言葉だった。
だが、自家の重臣にも聞かせる言葉でもあった。
「名和もまた、家中と相談して決められよ」
「はい」
「ただし」
晴広の目が、わずかに細くなる。
「どちらへ転ぶかは、まだ知れぬ」
内河義則が、その言葉を黙って聞いていた。
その“どちら”の中には、蒲池だけでなく阿蘇もまた入っている。
行興は、静かにうなずいた。
「名和も同じにございます」
頼興が低く付け加えた。
「そのこと、蒲池にはきちんと肝に銘じさせねばなりますまい」
それはもう、露骨に言わぬ脅しだった。
軽々しくこちらを味方と思うな。
必要とあらば、話は別のところへも流れる。
相良も名和も、すでにそういう位置に立っている。
晴広は立ち上がった。
「まずは持ち帰る」
「はい」
「だが、持ち帰るだけでは終わらせぬ」
行興が顔を上げる。
「阿蘇の腹も、見ておかねばなるまい」
その一言に、行興の目がわずかに動いた。
「探りを入れられますか」
「入れる」
晴広は答えた。
「敵として見るだけでは足りぬ。味方にした時、何を得て、何を失うかも見ねばならぬ」
内河義則が、静かに頭を下げた。
「名和としても、その方がよろしいかと」
頼興が最後に言った。
「今はまだ、誰の側へ立つとも決めぬ。だが、決めぬまま流される気もない」
それで十分だった。
話はまとまったわけではない。
誓ったわけでもない。
それでも、この小さな控えの間で、蒲池の思うようには進まぬことだけは、もう定まっていた。
相良も名和も、ただ火に煽られて動くつもりはない。
阿蘇へ向かうか、蒲池へ寄るか、そのどちらにもまだ道を残す。
そして、必要とあらば、今宵の話そのものを別の形で使うこともある。
冬の山は静かだった。
だが、その静けさの底で、春までに誰がどちらへ転ぶか、その道筋だけは確かに動き始めていた。




