第四十六話 加世、阿蘇を歩く
史実で適正な姫はおりませんでした。
小説ということで、ご勘弁願います。
天文十五年(1546年)十一月。
島津より阿蘇へ入った姫の名は、加世といった。
年は十。
まだ少女と呼んでよい年頃でありながら、目つきは妙にまっすぐで、言葉にもためらいが少ない。人前で怯んでうつむくより、まず相手を見返してから口を開く子だった。
それは生まれつきの気質だけではない。
日新斎にも、貴久にも、そう教えられてきたからだ。
どこへ行っても、島津の血を忘れるな。
女であっても、家を繋ぐことを忘れるな。
弱く見えるな。
情は持ってよい。だが、情に流されるな。
そうして阿蘇へ来た。
だから、館へ入ってからしばらくの加世は、何を見ても先に構えていた。誰がどんな目をするか、どこに誰の力が通っているか、この家の内で自分がどう扱われるか。まるで戦の前に敵陣を見定めるように、ひとつひとつを測っていた。
そんな加世へ、惟種はある日ぽつりと言った。
「加世、城下へ行くぞ」
加世は目を瞬いた。
「……わたくしが、ですか」
「ほかに誰がいる」
あまりにあっさり言うので、加世は一瞬返す言葉を失った。
そばの女房が慌てる。
「若君、加世様はまだ阿蘇へ入られて間もなく――」
「歩けぬほどではあるまい」
惟種は言った。
「阿蘇へ来たのに、館の内ばかり見せてどうする」
加世は少しだけ顎を上げた。
「妙なお方です」
「よく言われる」
「島津では、こういう時はまず座敷で和歌でも詠ませ、習字でも見せ、少しずつ慣らします」
「阿蘇では、まず人を見せる」
惟種はそう言って立ち上がる。
「国は座敷だけではできておらぬ」
加世はその背を見て、ほんの少しだけ興味を深めた。
噂に聞く鬼童というより、じっとしていることの苦手な童に見える。
だが、それだけではないことも、もう分かり始めていた。
城下へ出ると、風は館の中よりさらに冷たかった。
だが人の熱がある。
荷車が行き交い、馬が鼻を鳴らし、商人が声を張る。村から出てきた百姓、山から下りた木こり、どこから来たのか顔立ちの違う流民めいた者たちまで、みな忙しなく動いていた。
加世はしばらく、何も言わずにその様子を見ていた。
「賑わっておるだろう」
惟種が言う。
「……はい」
加世は答えた。
「もっと寂れているかと思っておりました」
「南から見れば、阿蘇は山の中だからな」
「申してよろしいのですか、それを」
「本当のことだ」
これたねは平然としている。
加世は少し呆れたように、だが悪くない気分でそれを見た。
通りの端では、飴が切られ、玻璃玉が陽を受けて光っていた。鍛冶場の前には農具を待つ者が並び、別の場所では布地が吊られ、子どもらがその間を走り抜けていく。
「人が多うございます」
「増えた」
「阿蘇の民ですか」
「今はな」
惟種は歩きながら言う。
「元からおる者もおる。逃げてきた者もおる。相良の方から来た者も、蒲池の方から来た者もいる」
加世が足を止めた。
「他家の領から、ですか」
「うむ」
「それは、よいのですか」
「腹が減った者に、国境は薄い」
これたねの返しは早い。
「軽くすれば人は来る。来れば田が増える。田が増えれば家が太る」
加世は、その言葉を聞いてこれたねを見た。
「年寄りの政のようなことを申される」
「年寄りより先に思いついたなら、別に構わぬだろう」
加世はそこで、つい小さく笑った。
笑ったことに自分で気づいて、少しだけ口元を引き締める。
だが惟種は気にした風もなく、また前を向いて歩いた。
市の一角で、子どもらが輪になっていた。何かを取り囲んで、声を上げている。
加世が視線を向けると、これたねが言う。
「見るか」
「何を」
「加世がまだ負けておらぬものを」
そう言って惟種が近づいてゆくと、子どもらは一斉に頭を下げた。だが怖がって離れるわけではない。若君が近くへ来ても、そのまま輪の熱を残しているのが、加世には少し不思議だった。
輪の中心にあったのは、木で作られた小さな独楽だった。
それも普通の独楽ではなく、低く平たい。
紐で勢いよく回し、互いにぶつけて弾き合う遊びらしい。
「これを」
加世が言う。
「こうして」
これたねは紐を巻き、驚くほど慣れた手つきで投げた。独楽は石畳の上で勢いよく回り、先に回っていたもう一つを押して、最後まで立っていた。
子どもらが「おお」と声を上げる。
「若君、また勝った!」
「そりゃそうだ」
惟種は平然としている。
加世は思わず眉を寄せた。
「若君ともあろう方が、そのような遊びを」
「そのような遊び、ではない」
惟種は独楽を拾い上げる。
「よく回るものは、芯が真っ直ぐだ。軽すぎても、重すぎても駄目だ。投げ方も、受ける地面もいる」
「……それを考えておられるのですか」
「考えぬ方がおかしい」
加世は、しばらく何も言えなかった。
館へ戻ると、惟種は今度は小さな盤を持ち込ませた。
板の上に、白と黒の丸石が並んでいる。
「これは」
「挟めば返る」
これたねは簡単に言った。
「返る?」
「見ていろ」
角へ石を置き、相手の石を挟む。するとその列がひっくり返る。単純だった。だが見ているうちに、加世はすぐ分かった。
「……逃げ場を見て置く遊びですね」
「そうだ」
「いま取れるところを取ると、後で負ける」
「そういうこともある」
加世は盤を見つめた。
面白い。
だがそれだけではない。
ただの盤遊びの形をしているくせに、置き方で先の景色が変わる。
「若君」
「何だ」
「これは、遊びですか」
「遊びだ」
惟種はすぐに答えた。
「だが、遊びで見えることもある」
加世は、白石をひとつ置いた。
負けた。
もう一局。
また負けた。
三局目でようやく、惟種の取り方に癖があるのを見つける。
「右を空けますね」
「加世も見えるようになったな」
加世はそこで少しだけ悔しそうな顔をした。
「勝たせる気は」
「ない」
「優しくございません」
「加世は優しくされたいのか」
その問いに、加世は口を閉じた。
自分でも即答できないのが少し腹立たしい。
「わたくしは」
少し置いてから、加世は言った。
「そのように育っておりませぬ」
「どう育った」
惟種は盤から目を離さずに聞く。
加世もまた、石を弄びながら答えた。
「どこへ行っても、島津の血を忘れるなと。女であっても、血を残し、家を細らせるなと。弱く見えるなと」
惟種の指が、盤の上で止まった。
加世は続ける。
「だから、ここへ来たのも、そのためだと思っております」
「そのため、とは」
「血を繋ぐためです」
部屋が少し静かになった。
外では女房たちが何か運んでいる気配がする。だが、この小さな盤を挟んだ空間だけは、妙に止まっていた。
これたねは、石を一つ置いてから言った。
「半分はそうだろうな」
加世は目を上げた。
「半分」
「家と家が縁を結ぶのだから、それは当たり前だ」
ひどく冷たいことを言われるかと思った。
だが、惟種の声は冷たくなかった。ただ事実を事実として置いただけだった。
「だが」
これたねは今度、盤から目を上げて加世を見る。
「それだけのために、加世を阿蘇へ入れたのではない」
加世は息を詰めた。
「これから先、加世はここで生きる」
「……はい」
「ならば、市も、人も、山も、田も見ておくべきだ」
加世は黙って聞く。
「子を産む前に、国を知れ」
それは、島津で一度も言われたことのない言葉だった。
姫としての務め。
血を残すこと。
家を繋ぐこと。
弱く見えぬこと。
そういうことは言われてきた。
だが、国を知れとは、誰にも言われなかった。
「わたくしを」
加世は思わず言った。
「そのように扱うのですか」
「そのように、とは」
「ただの婚約の相手としてではなく」
惟種は、少しだけ首を傾げた。
「それでは足りぬだろう」
あまりに自然に言うので、加世はしばし言葉を失った。
「加世は島津の娘だ。日新斎も、貴久も、ただ子を産ませるためだけの器をよこすわけがない」
加世はそれを聞いて、妙に胸の内が熱くなるのを感じた。
自分を軽く見ていない。
血を運ぶだけの箱とも思っていない。
若君は、自分の向こうに島津を見て、そのうえで自分自身にも何かを求めている。
それが、どうしようもなく嬉しかった。
「では」
加世は、できるだけ平静を装って言った。
「わたくしも、阿蘇のことを見てよろしいのですね」
「見ろ」
「口も出して」
「間違っていれば直す」
「嫌なお方です」
「よく言われる」
加世は、今度ははっきり笑ってしまった。
その笑いを見て、そばの女房がそっと目を丸くする。阿蘇へ来てから、加世がこんな顔をしたのは初めてだった。
日が暮れるころ、二人はまた少しだけ城下を歩いた。
夕餉前の市は昼よりやわらかい。火が灯り始め、店じまいの支度をする者もいれば、逆に煮売りを始める者もいる。子どもらはまだ走り回り、独楽の勝負も続いていた。
加世はふと立ち止まった。
「阿蘇は」
「うむ」
「思っていたより、温かいところです」
惟種は少し考えてから答えた。
「ぬるいと困るがな」
「そういう意味ではありませぬ」
「わかっている」
加世は、少しだけ頬をふくらませた。
「若君は、人の話をよく折ります」
「折っているのではない。先が見えているだけだ」
「それを折ると言うのです」
惟種は、それでようやく小さく笑った。
加世はその顔を見て、胸が妙に騒ぐのを感じた。
強いだけではない。
賢いだけでもない。
この童は、ずっと先を見ているくせに、足元の市や独楽の輪もきちんと見ている。そういうところが厄介だった。
館へ戻る道すがら、加世はひそかに思った。
血を残せと教えられてきた。
それは間違っていない。
だがこの阿蘇で、この若君のそばにいるなら、ただ血を残すだけでは足りぬのかもしれぬ。
この童は、もっと大きなものを見ている。
ならば、その隣に立つ自分もまた、それを見ねばならない。
阿蘇の夜は、南の夜より早く冷える。
けれど加世の胸の奥には、島津を発った時にはなかった熱が、まだ静かに残っていた。




